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大神教 七

神国(かみくに)の、松(まつ)の緑(みどり)の如(ごと)く栄(さか)える御世(みよ)の来(きた)らん事(こと)を欲(ほっ)する人(ひと)は、良(よ)く此(こ)の神(かみ)の教(おしえ)に従(したが)いて、神(かみ)の道(みち)を進(すす)めよ。一(ひ)と度(たび)神(かみ)の教(おしえ)に従(したが)はば、逆(さ)か巻(ま)く怒(ど)涛(とう)も、忽(たちま)ち漣(さざなみ)も立(た)たず。一(ひ)と度(たび)魔(ま)の道(みち)を歩(あゆ)めば、漣(さざなみ)も忽(たちま)

    • 大神教 六

      今(いま)の人(ひと)の様(さま)を見(み)よ。神道(しんとう)・人道(じんどう)より離(はな)れ、悪(あく)の道(みち)邪(じゃ)の道(みち)を歩(あゆ)み。此(こ)れ、神道(しんとう)・人道(じんどう)とは何(なん)ぞ。神道(しんとう)・人道(じんどう)とは正(ただし)き・清(きよ)き・美(うつくし)き・貴(とうと)き善(ぜん)なる道(みち)を云(い)う。天理(てんり)の鏡(かがみ)に合(あ)いし道(みち)なり。此(こ)れ、神道(しんとう)・人道(じんどう)は、神佛人(し

      • 大神教 五

        三(さん)の寶(たから)は此(こ)れ、神(かみ)を治(おさ)むる者(もの)無(な)くては成(な)らず。四(よん)の寶(たから)は外國(がいこく)を治(おさ)む。此(こ)れ外(がい)國(こく)を治(おさ)むと云(い)うも、決(けっ)して國(くに)を治(おさ)むるに有(あ)らず。外國(がいこく)の神佛(しんぶつ)を治(おさ)むるなり。又(また)五(ご)の寶(たから)は佛(ぶつ)を治(おさ)む。此(こ)の五(ご)の寶(たから)の本(もと)は、互(たがい)に相(あい)助(たす)け合(

        • 大神教 四

          世(よ)は五(ご)の寶(たから)を以(もっ)て治(おさ)む。五(ご)の寶(たから)とは何(なん)ぞ。一(いち)は誠(まこと)の神(かみ)。二(に)は一天萬乗(いってんばんじょう)の君(きみ)を云(い)う。一天萬乗(いちてんばんじょう)の君(きみ)とは何(なん)ぞ。一天萬乗(いちてんばんじょう)の君(きみ)とは此(こ)れ、神國(しんこく)の、日本(ひのもと)の君(きみ)を云(い)う。此(こ)の君(きみ)は畏(かしこ)くも、天(あま)照(てらす)皇(すめ)大御神(おおみかみ)と大

          大神教 三

          神(かみ)を信(しん)じる者(もの)の一歩(いっぽ)は、磨(みが)きなり。磨(みが)きとは何(なん)ぞ。此(こ)れ磨(みが)きとは、心(こころ)の雲(くも)の無(な)く成(な)る迄(まで)清(きよ)むるを云(い)う。此(こ)の磨(みが)きも、各々(おのおの)自(みずか)ら磨(みが)くは此(こ)れ少(すこ)し。多(おお)くは神(かみ)の成(な)すが侭(まま)に成(な)りて、自然(しぜん)に磨(みが)けるに有(あ)り。 神(かみ)に縁(えん)の有(あ)る者(もの)は、此(こ)の今

          大神教 二

          神(かみ)の教(おしえ)を守(まも)るには良心無(りょうしんな)くして出来(でき)ず。守られず。此(こ)れ良心(りょうしん)を以(もっ)て神(かみ)を信(しん)じれば、神(かみ)喜(よろこ)ぶ。又(また)守(まも)る。悪心(あくしん)を以(もっ)て成(な)せば如何(いか)に拝(おが)むも喜(よろこ)ばず。又(また)守(まも)る事(こと)無(な)し。成(な)れば神(かみ)に向(むか)うには良(りょう)心(しん)を以(もっ)て向(むか)い、向(むか)わざる時(とき)も善心(よきこ

          大神教 一

          神(かみ)と云(い)う物(もの)は、此(こ)れ誠(まこと)に清(きよ)き物(もの)なり。俯仰(ふぎょう)天地(てんち)に恥(は)じざる者(もの)なり。此れ(これ)此(こ)の誠(まこと)の神(かみ)は、日本(にほん)の神国(しんこく)の祖先(そせん)なり。神(かみ)は此(こ)れ、森羅万象(しんらばんしょう)の祖(おや)なり。成(な)れば神(かみ)を祖(おや)に戴(いただ)く人(ひと)成(な)れば、正(ただ)しく直(なお)く成(な)せよ。此(こ)れ歩(あゆ)むには、此(こ)れ悪(

          死後の世界 (四)

          ついで自殺のうちの心中について一寸申し添えるが、相思相愛の人が、死んでも離れないようにと紐で互いの体をしばって投身などするが、死後の国でも、二人つれ合って生活できるものと信じての行為のように見受けられる。だが神さまの教えるところでは、決して希望通りに二人づれで住むことはできぬと断言なされている。人の死後はこれを統治する神によって、霊界の律に強力に支配されるもので、勝手気儘な行動はできるものではない。秩序が守られるところに平和がある。被造物であり、不完全な人間は、神の統

          死後の世界 (四)

          死後の世界 (三)

          前回に私は、地獄の苦痛は良心の呵責によるもので、赤鬼青鬼の責め苦でないと申したが、この良心は何人にもあって、善を奨め、又人間としての尊厳を持する役目を果しているのである。然し悪心がこうじてその人の意志を牛耳るようになれば、良心の声が少しも用いられなくなり、良心がその人に宿る存在の意味がなくなるので、創られた霊界に帰ってしまう。だが良心はその人を見捨てたからとて他人に宿替えなどはしない。飽く迄その人に所属するのでその人が帰魂するまでは、定められたところに保管されてまつも

          死後の世界 (三)

          死後の世界(二)

          全能の神さまの公平な裁定にって、罪の少ない人ほどに無事平穏に調べは進み、死後の世界の場所が決定される。善悪差し引き勘定されて、悪のないものは極楽界に廻され、差し引き五分五分のものは、特別極楽界の最下等席に廻される。善の多いものは更に等級の上のところにゆくことになる。地獄も極楽も、その善悪の深浅によって、ゆくべきいくつかの段階がある。 さて、地獄に落ちた魂は如何なる苦しみをなめねばならぬかというと、すべて良心の呵責の苦しみを深刻に受けることになっている。嘘をつい

          死後の世界(二)

          死後の世界(一)

          人の死後はどうなるかということは、誰しもが知りたいと願っていることであるが、この世界だけは全く神秘の扉にとざされてあって、人智の立ち入ることの許されない特殊な世界である。たまたま死後の世界をみてきたと証言する人があるが、それは厳密にいうならば仮死状態にあったのであるから、その真偽についての判定は、疑問の余地が常に残されている。人の五感と推理によるのでは、到底知ることの不可能なこの世界は、ただ神さまのご教示を得ることだけが、真理を把握できるただ一つの開かれている道だと云

          死後の世界(一)

          神 界 (四)

          さて、今迄正神のうちの下段に位する神々について解説したので、今度は上段にある大神さまについて申し述べる。八百万の神のうち位階よりすれば、第一位の神は天照皇大神、第二位は大国常立大神、第三位は豊雲野大神、第四位は国沢土大神、第五位は大山祗大神となっている。この五代の大神さまは、このように序列はあるが、あらゆる点で、殆んど同等に近い資格を備えられてあって、すべてのことごとは、この五代の大神さまが仲良く協議なされるとある。ご三代までの大神さまについては、既におわかりのことと

          神 界 (三)

          我が国では昔から、鬼門にあたる方角、即ち丑寅の方や、裏鬼門にあたる未申の方に不浄なお便所などは造ってはならないとして敬遠しているようになったのは、鬼門、裏鬼門には大国常立大神、豊雲野大神と尊い荒神さまが坐し給うと、大昔から神さまに教えられた人があり、それが云い伝えられているうちに、いつのまにか理由は忘れ去られ。禁止さらる点だけ強調され残ったためだと思う。 だからこの真理を知った我が教徒は、家を建てる際には、東西南北、東北、西南の方向には、好んで便所を建てること

          神 界 (二)

          次に神界の組織について申しのべるが、東には天照大神を頭にいただく天津神界、西には月夜見大神(又の名阿弥陀如来)を頭にいただく仏神界、南は絶対神のおわす三三三神界の前方にある、伊嵯那岐(いざなぎ)伊嵯那美(いざなみ)の大神のおわす皇御祖宮(すめみおやのみや)、北に大国常立大神を頭にいただく四百万の国津神のおわす国津神界となっている。このように正神界の主なものは大別すると東西北の三方にある。 然し、これら各神界も、更に細かく幾千にも分かれている。仏神界は、正神のう

          神 界 (一)

          神典にあかされているところによると、大宇宙に実在する神霊は、これを三種に大別されている。正神、賤神(せんしん)と邪伸である。正神は徹頭徹尾頭のてっぺんから足の爪先まで、その性格は正一筋でできているが、邪神はその反対に、徹頭徹尾真黒で悪そのものの属性なのである。賤神はそれに対して、正邪折半の状態で、善悪が混じ、併存している。いったい神の言葉が意味する本来の概念では、神とは真善美愛の権化ということであるので、賤神、邪神という言葉の使用は不当に思われる点もあるが、今は解説の便

          悪 魔

          昔から悪魔という言葉があるが、然らばその実体は如何なるものかとひらきなおっていうことになれば、何処の宗派でも詳しく説かれていないようである。 たまたま書かれてあっても人が空想をめぐらして推測したものであるから、それが真理であるかどうかというと怪しいことになる。 今回はこれまで降下されてある教典にあかされてあることをとりまとめて次に申し上げることとする。 それによると悪魔というものは、邪神の子分ということになっている。というのは悪魔の生成したのは、邪神の吐く悪気