大神教 三

神(かみ)を信(しん)じる者(もの)の一歩(いっぽ)は、磨(みが)きなり。磨(みが)きとは何(なん)ぞ。此(こ)れ磨(みが)きとは、心(こころ)の雲(くも)の無(な)く成(な)る迄(まで)清(きよ)むるを云(い)う。此(こ)の磨(みが)きも、各々(おのおの)自(みずか)ら磨(みが)くは此(こ)れ少(すこ)し。多(おお)くは神(かみ)の成(な)すが侭(まま)に成(な)りて、自然(しぜん)に磨(みが)けるに有(あ)り。
神(かみ)に縁(えん)の有(あ)る者(もの)は、此(こ)の今(いま)の荒波(あらなみ)に入(い)りて有(あ)り。此(こ)れ神(かみ)に縁(えん)深(ふか)き者(もの)とは何ぞ。此(こ)れ神(かみ)に縁(えん)の深(ふか)きとは、此(こ)の大立替(おおたてか)えに際(さい)し、神(かみ)の御役(おやく)を立(た)てる者(もの)を此(こ)れ云(い)う。此(こ)れ此(こ)の者(もの)の立(た)てるは、此(こ)れ天(てん)才(さい)なり。成(な)れど此(こ)れ働(はたら)くに、世(よ)の荒波(あらなみ)を知(し)らざれば、何(なに)に際(さい)しても又(また)、魔(ま)に着(つ)かれ易(やす)きが為(ため)なり。成(な)れど余(あま)りに魔(ま)着(つ)きて、神(かみ)の縁(えん)を聞(き)きても反(はん)する者(もの)は、此(こ)れ神(かみ)は許(ゆる)さず。此(こ)れ堅(かた)く教(おし)える所(ところ)なり。成(な)れど、一(ひ)と度(たび)神(かみ)の縁(えん)を聞(き)かせて世(よ)に出(だ)し者(もの)も、此(こ)れ多々(たた)有(あ)り。
成(な)れば、今(いま)の世(よ)は様々(さまざま)なり。谷(たに)に山(やま)あり、山(やま)に谷(たに)あり。山(やま)に緑木(みどりぎ)有(あ)れば、谷(たに)に清水(しみず)有(あ)り。又(また)此(こ)れ、幾段(いくだん)幾人(いくにん)と定(さだ)め有(あ)るを、其(そ)の如(ごと)く変(へん)じれば不自由(ふじゆう)を感(かん)じると思(おも)うも知(し)らずが、否(いな)、神(かみ)は敢(あ)えて不自由(ふじゆう)を感(かん)ぜず。此(こ)れ神(かみ)の経綸(けいりん)は其(そ)の如(ごと)きに迷(まよ)う者(もの)に有(あ)らず。如何(いか)成(な)る大(だい)成(な)る神(かみ)の宮(みや)成(な)りとも底(そこ)を知(し)らず。否(いな)、其(そ)れ神(かみ)と云(い)えども知(し)る所(ところ)に有(あ)らず。成(な)れど此(こ)れを知(し)らざるも、敢(あ)えて不自由(ふじゆう)成(な)る事(こと)無(な)し。神(かみ)の経綸(けいりん)とは何(なん)ぞ。
神(かみ)の経綸(けいりん)とは、此(こ)れ神(かみ)の組立(くみた)てを云(い)う。此(こ)の典(のり)に記(き)するも、皆(みな)此(こ)れ神(かみ)の組(くみ)立(た)てなり。人々(ひとびと)は此(こ)の組立(くみた)てを何(なん)と聞(き)く、見(み)るか。世(よ)に教(おしえ)は散在(さんざい)し有(あ)りとも、此(こ)の所(ところ)は本(もと)なり。此(こ)れ又(また)堅(かた)く教(おし)える所(ところ)なり。此(こ)れ神(かみ)は敢(あ)えて信(しん)じて呉(く)れよと云(い)うに有(あ)らず。今(いま)に見(み)よ。日(ひ)は東(ひがし)の空(そら)より出(い)ず。其(そ)れ未(いま)だ有明(ゆうめい)の空(そら)成(な)れば、月(つき)を頼(たよ)りて日(ひ)を見(み)ずも、月(つき)落(お)ちては全(まった)く神(かみ)に有(あ)り

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