悪 魔

  昔から悪魔という言葉があるが、然らばその実体は如何なるものかとひらきなおっていうことになれば、何処の宗派でも詳しく説かれていないようである。
  たまたま書かれてあっても人が空想をめぐらして推測したものであるから、それが真理であるかどうかというと怪しいことになる。
  今回はこれまで降下されてある教典にあかされてあることをとりまとめて次に申し上げることとする。
  それによると悪魔というものは、邪神の子分ということになっている。というのは悪魔の生成したのは、邪神の吐く悪気が凝ってなったものだからである。悪魔の本性は十中十まで悪であって善というものは僅かも含まれていない。人が苦しむさまを見るのが何よりの楽しみと、あの手この手で苦しめる業に専念している全く始末におうない代物である。それでは同じ悪の本性をもつ邪神と悪魔とでは何処に違いがあるかというと、邪神は霊と魂とからできていて、魂をもつもので永遠に滅しないが、悪魔は霊だけなので殺して滅亡させることができる点にある。
  霊界では既に正邪の神の決戦が終わってあり、邪神は正神に破れて一網打尽にされ、絶大なる霊力によって、二度と出て暴れることができないように封じられてしまっている。だがその子分の悪魔は総勢九千万のうち、今迄僅か十分の一しか亡ぼされていないので、おお方はまだ生き残っている。
  この生き残っている悪魔は、既に正神によって誅滅される時期が近づいてあり、余命いくばくもないことを彼ら自身が好く知っているので最後のあがきをなし、あらん限りに暴れているのである。現在の世相益々混乱し、悪はばっこして悪質の犯罪が増加しているが、これは霊的にみると末法の世の当然の帰結となると思っている。
  さてこの悪魔は何処に居住しているかとなると、魂がないために天界に住むことができず現界のこの地上の然も人体を宿としているのである。そしてその人に終始つきまとってあって悪の道へそそのかすために、人が悪の行為を好んでなすようになっている。
  では人が悪事をなすあれはすべての人に悪魔が宿っているのかという疑問も生まれるが、必ずしもそのようなものではなく、軽い悪事を働いている段階では、悪魔の発する悪気によって人の心が曇っている程度と見てよいであろう。又罪悪深重の人の場合は、ときには酒を好む魔も色を好む魔もとばくを好む魔もという具合に、一人で三つ四つの魔をも宿らしている人もなかにはあることでもある。
  この悪魔にはいろいろな種類があって、そのなす悪の性質も果す役割も異なっていて、その上、人を害ねる方法もいちようではない。悪魔と云えば誰しも心に浮んでくる形相は、馬のように長い耳をして、目玉をぎょろぎょろさせ口が耳元までわれている姿を想像するが、そのような悪の形相をもって正面きって人に恐怖心をいだかせるものもあるが、なかにはやさしく笑みかけて、人を色じかけなどで籠絡する羊の皮をかぶって狼のような手段を使う魔もあるわけである。時には学問の仮面をかぶって学者ぶり、偽りの理論をもって誤った思想を伝え、正義の名のもとに戦慄すべき行為に走らせ、人命を害ねたり人を堕落させて社会を混乱におてし入れる場合もあるわけである。
  およそ人が悪事をなし、自らも苦しみ人をも害ね、この世に悲しみと苦しみの修羅の巷を現出する悪という悪のすべては、悪魔のなす業なのである。それ故地上の天国を建設するには、この悪を地上より掃滅しなければ、折角の努力も賽の河原の石積みのように足許から空しくくずれることになる。人の力だけでは、到底理想郷は建設できるものではない。
  そこで人類の宿敵である悪魔を如何にして滅亡させるかが問題になるが、これだけは、如何に武術にすぐれた人が刀で切り払っても、霊であるために切り殺すことの不可能なもので、たとえ斬られたふりをしたとしても、それは実質的には斬られていないのである。科学と技術の力によって、如何に強大な力で攻撃しても、これによって亡ぼすことは不可能な事なのである。ただこれを滅し得るのは、正神のみ手に俟つより外ないのである。時いたれば正神は、草木わけても、根掘り葉掘り一魔をも残さず撲滅することになっている。地上天国の建設はこのあとはじめて招来されるのが、神の経綸となっている。
  これが宿ると獣の如く極悪非道魔ものとなり、己も人も滅びの道にいたらしめるほど怖るべき力をもつ悪魔であるが、その人が気に入ったからとて、勝手にその人には宿れないことになっている。なぜなら悪魔が人体の中に入るのは、鼻の穴からでも、耳の穴からでもない。就寝中に口の中から入るものでもないのである。心の油断からで、心の扉のすき間から入るのである。又如何に悪魔がその人を狙っても、その個人が承諾しなければ悪魔はむりやりに強引には入れないのである。人間の自由意思は本来神から授けられたもので、悪魔を祓いのけるだけの貴い力が備わっている一事をよくよく考えてみるべきである。
  だから悪魔に宿られて悪事をなした場合は、飽く迄その個人の責任となる。人間は自由に生きる道徳的高貴な存在であって、人の尊厳な所以をここにみるべきでありますが、然し半面において人は、悪魔の誘いに心を許して、獣にも勝る鬼畜の行為にも走れる可能性を含むものである。
  自由の腐敗は、人間の悲惨な機会ともなっている。
  それ故人が悪から救われるには、常に心を養育し、油断なく心の戸締りをして意志を鞏固にもつことが一番大切である。又み教えを聞いて正しい智恵の目を開いて真偽を分別する力を養い、浄らかな情緒をも啓培すべきである。神と共に歩んで、み教えに精進する人はいつとはなしに、このような諸徳目を会得する人となる。なぜならば、良い友を得ることによってその人の品性が高まるように、神を我が心の友、心の師と仰ぐことによって、その人柄が自然に陶治されるからである。
  神典に、人の最大の敵は悪魔と心の油断であると教えられてある。信仰の道は悪魔に乗じられない精神的な健康と強さを与える最高の道であるから、人はだれでも正法を信じ、正法を聴き、正法に帰依しなければならないと常に思うところである。


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