死後の世界(二)

    全能の神さまの公平な裁定にって、罪の少ない人ほどに無事平穏に調べは進み、死後の世界の場所が決定される。善悪差し引き勘定されて、悪のないものは極楽界に廻され、差し引き五分五分のものは、特別極楽界の最下等席に廻される。善の多いものは更に等級の上のところにゆくことになる。地獄も極楽も、その善悪の深浅によって、ゆくべきいくつかの段階がある。
    さて、地獄に落ちた魂は如何なる苦しみをなめねばならぬかというと、すべて良心の呵責の苦しみを深刻に受けることになっている。嘘をついたからとて、鬼のため釘抜きで舌を抜かれ、放火したからとて、ほのおの中に投じられるというものではない。針の山や釜で煮られる焦熱の地獄があるわけでもない。すべて生前の悪事を深く悔い、それと共に良心に責めたてられる劇しい心の苦痛の場なのである。丁度、心配事のため幾夜も寝ずに苦悶するように、絶え間ない嘆きの連続だと思えば良い。地獄を又の名は、罪補界(ざいほかい)と神さまは仰せられる。良心の鬼に責められその苦しみによって罪が洗われ、補われるからである。だから地獄には、角を生やし、虎の皮の褌をしめた赤鬼、青鬼はいないのである。仏教で説く地獄は、感覚的で現世的であるのは当時の無智蒙昧の民を善に導き教化するための方便だと見ればよろしいかと思う。地獄において、己が魂を浄めて無事刑期をつとめ終えたものは、極楽の門に入ることが出来る。そこに到達するまでの道程と苦痛の度合いは、背中に氷を背負って旅する人にたとえられる。罪の氷が重いほど苦しく、又道のりも長いわけで、背負った氷が少しずつ自然に融けて無くなったときが、極楽にたどりついた時である。漸くたどりついた憧れの極楽界は、精神的な深い悦びの世界である。
    誰でも善事を為し終えたあとは、心の底から清々しい悦びを経験するものだが、ああした清純な深い喜びに常時住む身となると思えば良い。極楽界は、現世で疲れた魂の安息の場であり慰めの地、楽しみの庭である。花の咲く美しの園に囲まれながら魂は喜びのうちに営みをなすのである。具体的に、それでは如何なる営みをなすかについては、別に神示はないが、神界では神さまも歌行書行、水行と、即ち歌を詠まれ、書を習われ、水行に励まれて無限の向上に努められてあるときかされているのからすれば、極楽の生活も、それに似た営みがなされていると私は思っている。
    さて現代人が死亡したとして、真直ぐに極楽の世界にゆける人は千人のうち何人の割合になるかというに、神典には、僅か一人しかゆけぬと誌されている。あとの九百九十九人は、ひとまず地獄行になる。昔はもっと比率が良かったのだが、今は殊にもひどくなって、地獄が繁昌するばかりだと神さまは憤慨なされておられる。人類は、道義の面では、必ずしも進歩したのではなく、遺憾ながら退歩したと申されている。今の世は金と物とによって幸福と平安が得られると妄信して、それを得ることに汲汲として、魂を養育することをなおざりにしているからである。物の世界には限界があるから、それによって幸を得んとしても、行き詰るのは明白な事実である。物と金だけにたよる道には救いがないことを、人類はもはや知るべきである。
 
  神歌  けがれなる四辻に迷う身なりせば  めぐみの神に身は救はれん

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