死後の世界 (三)

    前回に私は、地獄の苦痛は良心の呵責によるもので、赤鬼青鬼の責め苦でないと申したが、この良心は何人にもあって、善を奨め、又人間としての尊厳を持する役目を果しているのである。然し悪心がこうじてその人の意志を牛耳るようになれば、良心の声が少しも用いられなくなり、良心がその人に宿る存在の意味がなくなるので、創られた霊界に帰ってしまう。だが良心はその人を見捨てたからとて他人に宿替えなどはしない。飽く迄その人に所属するのでその人が帰魂するまでは、定められたところに保管されてまつものである。だから現世には良心がも抜けのからで、無い人もいる。
    やがてその人の死によって魂が霊界に帰ると、直に良心が元通りその人に納まる。それと同時に良心は、生前なした不義の行為を責めたてるが、その苦痛は鬼のため鉄の棒で叩かれるよりも、もっと激烈であると神さまは教えられる。なぜならば肉体の苦しみにはその限界があり又断続休息があるものだが、精神の苦しみは底無しの深さがあり、又間断なく続くからである。
    さて地獄の責苦を受ける刑期は最長三千年にも及ぶ。我々は刑期の長いのに一驚するが、然し霊界における一年は現世の一日に比適されるだけの実感しか覚えぬと神さまは申されているので、現界での三年の刑期の長さにしか感じられぬと思えば良い。次元の異なる世界であるからそうなることでもあろう。
    だがそれよりも重い無限不上界といわれる地獄がある。神道では根の国底の國と名づけているようだ。その名の示すごとくこの地獄におちれば永遠に上には浮かばれず、永遠の刑罰を受けねばならぬ最下等の地獄である。ここにおちた魂は、如何に罪を浄める道に励んでも、如何に子孫が供養回向をなしても、永遠に極楽にゆく道が断たれている。
    では如何なる人が無限不上界にゆくかというと、先づ自殺者だとある。自殺が神の前になぜ最大の罪悪だと問われるかというと、人がこの地上に生を享けたのは、その人が生まれたことによって、この世を少しでも明るく住み良くする使命を附与され、そのために一定の寿命も授けられてあるものなのに、自分勝手に命を早めることは、殺人者と同じく自己を殺害した害(そこ)ないの罪と断定され、又神の教、親の教に背いた反逆の罪に問われるからである。
    神は魂の親なる愛の神であると共に、人類を統治する義の神であるから、不義を審き給うの厳しき神の一面を知るならば、親の命に背いた反逆の罪の重く審かれることも知ることができる。だから神典の中に、人は如何に生きるに苦しいことがあっても、自殺の道を選んで永遠の滅びの道を歩んではいけないと、繰り返し繰り返し警告下さっている。
    それについで罪の重いものは人殺しである。貴い人命を害ねる罪が重く問われるのは勿論のことである。
    ここで当然問題になるまは、自殺者は、如何に慰霊しても浮かばれないのであれば、自殺者の慰霊は無意味ではないかということである。だが慰霊を慰霊を慰めることではその字義通り霊あって、ま心こめての願いは、教祖の徳と力によってみ神に届けられ、み神によって必ずみ神にそのま心が伝えられることになる。暗黒の無限地獄に喘ぐ仏には、神さまによってもたらされる血肉をわけた懐かしい人の消息は、深い慰めとなる。殊にも最高の喜悦を味わうのは、子孫が正法を信じて善を践み、一家が平和と繁栄のうちにあるとの便りであるという。信仰の力によって、自分と同じ失敗の生涯を繰り返さないでほしいとは、無限不上界にいる仏の共通の悲願なのだ。

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