死後の世界(一)

    人の死後はどうなるかということは、誰しもが知りたいと願っていることであるが、この世界だけは全く神秘の扉にとざされてあって、人智の立ち入ることの許されない特殊な世界である。たまたま死後の世界をみてきたと証言する人があるが、それは厳密にいうならば仮死状態にあったのであるから、その真偽についての判定は、疑問の余地が常に残されている。人の五感と推理によるのでは、到底知ることの不可能なこの世界は、ただ神さまのご教示を得ることだけが、真理を把握できるただ一つの開かれている道だと云い得る。
    それによると、身魂(みたま)と名づけられている死後の霊魂は、魂を与えてくれた親なる神の下へ直行するのである。仏教で説くように、二十九日間は棟木の上にと止まって、家族の動静を見るなどの呑気なことはできることではない。他郷に住む子供に逢いたいから、孫が見たいからとて、勝手に中空を飛んで遊んでゆくなどは、神力の支配下にあるので、不可能なのである。では人の死後、人魂(ひとだま)が訪ねてくることをよく耳にするが、あれは一体どうゆうことですかと当然疑問が湧くでしょうが、あれは神か魔が、その人の意志を受けついで、姿を見せたり、音を立てたりするからである。だからたとえそのように人魂がきたと思われる奇蹟に接しても、正神のなし給うた場合には、決して恐怖におののくということはないことになっている。
    さて霊界に直行した身魂は、途中、中有界(ちゅうゆうかい)又の名、中途界(ちゅうとかい)を通過する。通過する距離が仏教では十万億土とかあると申している。これについての里程は別に示されてはいないが、これを通過して、霊魂界に入る手前に、審きの庭である中分界という役所を必ず通過しなければならない。中分界は別名八岐(やちまた)ともいわれている。四方八方から亡くなった魂がここに集まってくるからである。
    中分界に到着した身魂のうちには、直に審きの席につくことを、ためらう者が多数見受けられる。それらは、生前誤った行跡を数々重ねたがために、不幸な結果に裁かれることを恐れている者の群れである。彼等は中分界の門前の石に腰を掛け、腕をこまぬき首をうなだれて、悄然として来し方の罪をため息をしながらざんげしている。然しこうしてちゅうちょできる期間はせいぜい一週間で、それが過ぎると霊界のおきてによって、これ以上とどまることができないので、勇をこして門をくぐることになる。勿論善人は、何も恐れる色なく、直に入ることである。
    そこにはご三体の神が、裁判官としてお勤めなされている。おん名は、嗅鼻菩薩(かぐはなぼさつ)見目菩薩(みるめぼさつ)聞耳菩薩(きくみみぼさつ)と名づけられる。嗅鼻菩薩は裁判長の格で、見目、聞耳両菩薩は、補佐される陪席判事の格である。見目菩薩は嘘をつかないかを見定め、罪の軽重を見分けることができる。聞耳菩薩はよく生前の行為を、ききただすことができる。嗅鼻菩薩は嗅ぐだけで直に一切を知り最後の判決を下すことができる。ご三体の菩薩さまの後には浄玻璃の鏡が飾られてあって、若し身魂が嘘をつけば直に真実の行為がそのまま鏡に再現され、虚偽が直に露見される仕組みになっている。又人は霊魂が肉体を離れると、悪魔が直に離れてしまうので、生まれたばかりの神の子の本性に帰り、嘘などは申さぬことになるのである。生前如何に嘘八百を並べた詐欺師でも、正直そのものに帰り、ありのまますらすら申し述べることになる。それ故裁判も人間の世界のように一審二審に審議され手間どることなく、次々に鮮やかに公平に解決される。ここは仏教でいう、えん魔の庁にあたるわけだが、ここで教えられる三人の裁判官は、えん魔大王のような怒った恐ろしい形相でなく、慈悲の面影をたたえた、お情け深いみ仏となっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?