群星
「すっかり夜だな……」
――――午後休で所用を済ませたら、直帰のはずだっただけどなぁ……。
誤って資料を鞄に入れ忘れた。
まぁ、別に月曜に作っても良かったが、出来れば早めに終わらせておきたい。
時計で確認すると、時刻は夜の6時半。
午後休で会社を出て、移動時間を含めても結構な時間を拘束された。
今回はだいぶ説得されたな……。
――――数時間前
「白木、頼むから監督になってくれないか。ウチでお前以上の卒業生はいないんだ」
「萱島(かやしま)先生。僕はもう会社員ですよ。社内の立場も家庭もあります。何度もお答えした通りです。申し訳ありませんが、僕の意志は変わりません」
卒業して20年程の時間が経った母校は、もう強豪校ではなくなっていた。
「せめて後輩たちの練習を見てくれないか。少しで良いから」
かつて担任だった萱島先生の眼差しには、訴えるものがあった。
教頭に昇進されて、色々な「しがらみ」に巻き込まれているのだろうか。
その表情は「助けてくれ」「解ってくれ」という言葉に満ちていた。
体育館では、後輩たちが名も知らない老年の監督の指示を受けていた。
「そこ、ドリブルがブレている。ちゃんとやれ!」
「そっちはシュートの高さが足りない。膝のバネを使え!」
「おい、お前!ちゃんと相手の動きを観ろよ!なんだそのパスは!!」
体育館の2階から眺めて、5分と掛からずにその理由は分かった。
実用性、論理性、計画性。そのどれもが欠けている指導方法だった。
こうした指揮官は社内にもいた。おおよそ業務や個人に対する偏見と「かつての成功経験」、そして最後は根性論で上から責め立てる手法だ。
――――結果を求めておきながら、合理性、生産性を失い、本質から遥かに遠い選択を選んでいる矛盾に気が付いていない。
こういう人間に振り回されて壊れる人間を嫌というほど見てきた。
しかも彼らは、好きなだけ振り回して、壊れたら「根性がない」「身体が弱い」のひと言で終わらせることが出来るヒトだ。
あぁ、忘れていた。テンプレのような仮面を付けて「大丈夫か」と歩みより、そのまま穏便に退職を促す手もあった。
どちらせにせよ、他人を蹴落とすこと。
部下を使い捨てることに躊躇がない部類の人間。
光善寺先生とは真逆のタイプだ。
「……あの監督が原因ですね。結果だけを見て、すべてを理解した気でいる。選手の身体が持ちません」
「やっぱりか……」ため息をつきながら、萱島先生は肩を落とした。
「光善寺先生が亡くなって代わりに入ってきたのが、あの北浜先生でな……。何人か、怪我で引退した生徒もいるんだ」
「事情はわかりました。――――ただ、僕は先ほどの事情があります。後輩たちに当たってみます。北浜先生には、くれぐれも根性論を押し付けないよう伝えて貰えますか?」
わかった、と頷いて、彼はバスケットボールがひとつ入ったケースを僕に渡した。
「昨日、体育館からくすねてきた。誰にせよ、ブランクがあると思ってな。少し触ってからの方が教えやすいだろ」
「わかりました。適任者が見つかったら渡します。では、私はこれで」
相変わらず、生徒想いの先生だと思った。
僕が踵を返して歩き出すと、最後に声がした。
「待ってるよ、白木」
学校でのやり取りを思い出しながら、ふとケースに眼を向けた。
――――先生の表情、辛そうだったな。
助かりたいじゃなくて、助けたい。
昔も退部した生徒たちに寄り添っていた。
とはいえ、後輩たちも良い歳だ。受け入れてくれる者がいるかどうか。
渡辺橋駅で降り、堂島にあるオフィスビルへ向かう。
駅から歩いて10分足らずのところにある高層ビル。
テナントの多くは、誰もが聴いたことのある企業ばかりが入っている。
ウチのような中規模の文房具輸入販売会社が入るにしては、随分と見栄を張ったものだと今でも思う。
ビルに入ると、1階のフロアでテーブル席に座って、少年が教科書らしき本を眺めながら勉強していた。おそらく小学3~4年生くらいだろうか。
――――この周辺に小学校はなかったはず……。親を待っているのか。
近くに警備員がいるかを確認した。幸い、付き合いの長い千林さんがいた。
彼の眼のある所に少年はいる。
問題ないだろう。そう思って、通り過ぎようとしたときだった。
少年のため息が聴こえた。勉強に疲れたのか。
それとも誰かを待つことに疲れたのか。あるいは、他のなにか……。
「君、お父さんか、お母さんを待っているの?」
好奇心が勝って、思わず声を掛けてしまった。
少年は少し考えてから口を開いた。
「……はい。母を待ってます」
彼の口ぶりで母子家庭か、あるいは複雑な家庭なのだとわかった。
「そっか。じゃあ、お母さんが来るまで勉強してたんだ。偉いね。あ、僕は変な人じゃないからね。あの警備員さんとも知り合いだから安心して」
愛想笑いをしながら社員証を見せた。
「その社員証……。母が同じものを持ってました。同じ会社の人だったんですね。知らない人には気を付けるよう言われてて……ごめんなさい」
「いや、それが当たり前だから良いんだよ。そっか。ウチの会社のお子さんかぁ……その、お名前を聴いていいかな?」
「ぼくは麻生亮二。小学4年生です」
「麻生……あぁ、麻生舞衣さんのお子さんか。そうか、君が……」
――――麻生さんの子供か。彼女の妊娠報告はいきなりだった。
相手のいない出産と解ったとき、社内では色々な憶測が産まれた。
彼女は、その中で息子を出産をした。
当時、僕は彼女のために待遇面で可能な限りの便宜を図った。
産むことも、産まれることも罪はないと思ったから。
復帰した彼女の変化は、すぐに仕事に現れた。
仕事を投げ出さず、向き合うようになったのだ。仕事と、現実と向き合う日々を積み重ねて、彼女は今では「頼られる側」にいる。
この子が、彼女を強くさせたのか。
「おじさんの名前を聴いても良いですか?」
「あぁ……ごめん。僕は白木悠介です。君のお母さんにはいつもお世話になってます。あと、お兄さんって言ってくれると嬉しいな」
4年生の割には、しっかりしている印象だ。
麻生さんの仕事を引き継いで、すぐに返してあげた方がいいか。
――――でもなんだろう。引っ掛かる。
「ねぇ、亮二君。ここでよく勉強してたりするの?」
「はい。母が金曜日は外で食べようって。だから仕事が終わるまで、いつもここで勉強しながら待ってます」
「そうなんだ。凄いね。お兄さん、ちょっと気になったんだけど。さっき、ため息付いてなかった?待つの疲れちゃった?」
「え?あぁ……いえ。母を待つのはいつものことなので。ただ、なにか面白いことないかなって。教科書読むと疲れるし、友達とも遊べないから」
なるほど、と思いながら、ボールケースの感触を思い出した。
「亮二君さ。荷物はここ置いて、僕と遊ばない?警備員のお兄さんが荷物見てくれるだろうし、お母さん来たら教えてくれると思うから。入口のところでさ」
ケースから出したボールを見せ、次に警備員の千林さんの方に眼を配った。
少年は少し考えた後、疑いの眼差しを向けて頷いた。
――――まだ警戒は解けてないか。まぁ、普通はそうだよな。
入口に促して、先を歩いていると彼から声を掛けてきた。
「あの……いいんですか?」
「え?あー良いの良いの。どうせ、今日仕事休みだったから」
「おじさん。ホントにお母さんと同じ会社の人なんですよね?」
「お兄さんね。同じも何も上司……えーっと上級生みたいなものだよ。それと会社はね。土日以外もたまに休んでいいんだよ」
「じゃあ、なんで会社に来たんですか?」
「忘れ物を取りにね。それで来てみたら、エントランスで退屈そうにしている君を見かけた。不思議に思って声を掛けたんだ。そしたら君が暇だっていうじゃないか。子供に世界の面白さを伝えるのは、大人の務めだからね」
ダンッ!と地面にボールを叩き付け、跳ね返ったそれをまた手に納めてから繰り返す。
「というわけで、これがドリブルです」
「片手で出来るだけ真っ直ぐ地面にぶつけるようにやってごらん。それで跳ね返ったボールをまた片手で捕まえる。また地面にぶつける。最初は、力の加減が分からなくて変な方向に行ったり、手が痛くなったりする。その辺は慣れだ。ほら、やってごらん」
ボールを受け取った彼は、怖々とボールを地面に落とした。
ただ重力に吸い寄せられて落下するボールは、当然反発しない。
――――うーん。
彼は慎重なタイプか、運動音痴か。やり方替えてみるか……。
「おっけい。じゃあ、一緒にやってみよう。手を貸して。行くよ」
彼の手に重ねてドリブルをする。彼の手が痛まない程度の力でゆっくり動作を繰り返す。
慣れてきたら、自然と自分の手を放して、彼のリズムで弾ませる。
「ほら、出来た。今度は少し高くドリブルしてみたり、小刻みにやってごらん」言われるままに、彼の意識がボールに向いていくのが分かった。
「そのまま動けるかな?前に進んだり、下がったり……」
はじめの一歩こそ、ゆっくりだったがすぐに慣れて歩きながらドリブルをするようになった。
――――うん、間違いない。
慎重なだけで優秀な子だ。飲み込みが早い。
その後の動きを観る限り、失敗が怖いわけじゃなさそうだ。
経験のないことをするのが怖いタイプってところかな……。
「皆がいうドリブルは大体、動きながらやる方だよ。貸してごらん。そのドリブルが上手くなるとね、こんなことが出来るようになる」
大きく左右へボールを切り替え、ターン、緩急をつけて踏み込んでみた。
昔のような難しいことは出来ないが、これくらいならまだ出来る。
「すごい!」彼は大きく反応して見てくれた。
曇りのない眼差し。そこに在るのは、好奇心だろうか。
それとも憧れだろうか。そのどちらであっても構わない。
彼が喜んでいるということには変わりなかった。それが嬉しかった。
僕は、気が付いたときには、勝ち負けの世界の住人になっていた。
その中にも楽しさはあった。
強い相手との対戦、負けたら終わりの大会、苦労を共にした仲間。
結果を求めるために試行錯誤して努力する。その瞬間は楽しかった。
当然、挫折もあった。
3連覇が懸かった高校時代。
夏、冬ともに1年の鷹山を主軸にした朱ノ鳥高校に惨敗した。
努力や工夫だけでは、どうにもならない領域があることを知った。
その鷹山が、同じ大学に入学して来たときは驚いた。
僕とやりたいから、そう言ってくれた時は嬉しかった。
結局、その彼が自分の引き際を決めさせてくれた。
何事も終わりがある。
まるで人の命と同じように。
選手には、選手としての生命がある。
それは仕事だってなんだってそうだ。
僕は、サラリーマンとして生きようとした。
「第2の生命」を、新しい生きる意味をそこに求めた。
でも、かつてのような生きる満足感がないまま来てしまった。
選手としての未練はないのに、あの時の充足感だけは欲しい。
贅沢な時間を過ごしてしまったのかもしれない。
時々、そう思って虚しくなった。
先生、という声が聴こえて、我に返る。
「え?あぁ、ごめん。ぼーっとしてたかな。先生?」
「はい。ボール遊びが凄いし、教えてくれるから先生……ダメですか?」
恐る恐るこちらを伺っている彼を見る。
まぁ、それも悪くないか……。
「いいよ。オジサンより、ずっと良い。じゃあ、褒めてくれたお礼にシュートを教えてあげよう。そこに立って、両手を前に出して」
そんな風に言われることもあるんだな、と思いつつ、彼との距離を確認する。左手で支え、右手で照準を定めた。深く身体を沈ませてから飛ぶ。
腕のスナップを効かせたフォームは、フッ!という音とともに、ゆっくりと弧を描いた後、少年の両手へ静かにストンとボールを渡した。
「すごい!すごい!なんですか今の!?」
彼は眼を輝かせながら、歩み寄ってきた。
「今のは、シュート。本当はゴール。えーっとね。こんな感じの四角の板にリングが付いてるところに狙って打つんだ」
教えてください!という彼に基本的な動作を教える。
しゃがんで背中から彼に両手でボールを持たせ、脚の力を使って高く飛ぶジャンプするために深くしゃがむ動作をなぞらせた。
――――小学生だからこれくらいかな。
「動作は今言った通りだよ。構えたら最後に必ず見上げて目標を観るんだ。やってごらん」少し距離を取って、彼の正面に立った。
はい!、と言って、彼はダンッ!ダンッ!とドリブルを突いてから、両手でそれを捉え、深く身体を沈みこませた。その瞬間――――
「わぁ……」
彼の見た目標は、僕ではなかった。
僕より遥か遠く、高層ビルの隙間を覗き、それらに照らされた一面の――――宇宙(そら)だった。
彼の動きは止まっていた。
見惚れていた、という表現ではとても足りない。
彼の全身から、こちらにも「心のざわめき」が伝わってくる。
鳥肌が立ち、すべての感覚が開き、内部で大きな波が起こっている。
あぁ、この子はもう止まらないだろうな。
その事を知ってしまった。立ち会ってしまった。
同時に、選手としての生命を終えた僕の新しい生命も実感してしまった。
結局、人は何かと向き合い続ける人生になるのか。
僕の場合は、選手。その次は監督として。
まずはブランクを取り戻そう。同期や後輩たちに連絡して、それから……。
「綺麗な空だね。そのボールさ。よかったら君にあげるよ」
僕はそっと彼に歩み寄り、一緒に眺めた。
「いいんですか?」宙を見ていた彼は、こちらを向いた。
「いいよ。先生も良いものを貰ったからね」
「ぼく、何もあげてませんよ?」
「まだわからないだけだよ。それとね、亮二。このボール遊びは、実はゲームなんだ。興味あるかな?」
――――答えはもうわかっている。けど、聴かせて欲しい。
「はい。もっと知りたいです」
彼の言葉の中には、やはり大きなひとつの芯が通っていた。
彼の物語は、ここから始まる。
そして、僕の物語も今始まった。
人は、ひとつの命といくつかの生命を持つ。
これは人の特権だろう。何度も生きて、何度も死ぬ。残酷な世界だと思う。
でも、僕らはその世界に訪れる一瞬の輝きを見て、感動してしまった。
もう一度見たいと求め、さらにその先の景色を求めて、朽ちるまで生命を燃やすしかない。
多くの人が、同じように光を求め、生命を燃やして消えていく。
まるで星のように。
ようこそ、少年。
残酷な世界へ。
「このゲームの名前は――――」
Ⅱ章 彼女の場合-群星-
『セントレイ』byサカナクション
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