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勉強について

 久しぶりのコラムです。

 書き方ってどうだったっけ?爆

 さて、今回のテーマは「勉強について」です。


 先日、Twitterを眺めているとプチ炎上しているツイートが流れてきました。
内容を要約すると

・勉強が楽しいと思っている子を見ると、まだそこまで勉強していないと思ってしまう。

・自分が1日19時間勉強していた時は苦痛でしかなかった。

・そのうち、その苦痛こそ生きている実感を覚えるくらいまで疲弊して、そこまで行くと解脱に向かう(おそらく、ハイになる?)気がする。

といった感じのことをツイートしたことが発端でした。

発信者の方は、東大在学中に司法試験を合格。後にハーバード大学のロースクールを卒業されるほどの才媛であり、人一倍、いや少なくとも四倍くらいは努力されているだろうことは想像に難くありません。


 ですが、私が最初に感じたのは、「一面的な意見」という印象でした。
「勉強」って、大きな枠であって、ひと括りに断ずることは結構なリスク(語弊)のある行為なんですよね。

私が多くのリプライの中で目に付いたのは、
「あなたの勉強は試験勉強」という言葉でした。

これはなかなか的を射ているな、と。


結論から言えば、
発信者のいう勉強は、試験勉強としてはひとつの「解」。
ただ、それ以外の意味での勉強の定義としては必ずしも一致しない。
故に、彼女は「試験勉強」と書けば、大きな話にならなかったのだろう。
※その試験勉強についても、それぞれの目標があり、定義があるのだが……



 この話は勉強の定義が多面的であり、人や状況によって勉強の意味が変化する好例のように思います。
今回の件で「勉強にそのものに対する考察」を多くの人が共有しました。
それだけでも彼女のツイートには意味があったのではないでしょうか。

私自身、今回のコラムで取り上げたいと思うほど興味が湧いたテーマでした。


さて、本題に移ろうと思います。

あなたにとって勉強とはなんですか?


 難しい問いかけだと思います。
 私自身も明確な答えは出ていません。
 ですが、自分の経験してきたことから敢えて「共通するひとつ」を抽出、限りなく包括的、本質的な解答を考えたいと思います。


私は、プロフィールにあるようにあまり勉強せずに大学へ行きました。
試験勉強に意味を見出せなかったというのが正直なところでした。

文脈から推測、内容から要点を導き出す訓練の国語。
異なる言語を日本語へ変換して読み解き、相手を理解する英語。
公式というフレームを駆使して、答えを論理的に証明をする数学。

それぞれの教科が持つ意図は、自分なりにわかっていたつもりです。

しかし、それらを解くことに面白さを見出せませんでした。
そうなると「なぜ?」が遠ざかり、「わからない」が増えていく。
その連鎖に溺れて、次第に机を離れていくようになりました。

転機が訪れたのは、大学に入ってからでした。
経済学の授業で学んだ内容が日常に溢れていることを実感しました。
そこで漸く、私は学問に対する興味を持つようになりました。

貨幣とは、銀行とは、労働とは……。
個人の経済活動、その動機は何か……。
生活のなかにある「当たり前」に疑問を持つようになりました。

こうした考え方は、現在の経済学では基礎中の基礎であり、大学の中では必修単位ではあるもののメインとして扱われることはありません。
(所謂、「古典派経済学」と言われる分野に相当します。)

今の主流は、個人や企業を主体で考えるミクロ経済学や自国の経済、世界経済を対象とするマクロ経済が中心で、その他に労働経済学や行動経済学、経済政策などへ広がります。※どれも面白い学問です。

私の興味は、近代的な経済学よりも「古典派経済学」にありました。
※このことについては別のコラムで詳しく書こうと思います。


 今回のテーマ「勉強とは」ということですが、私の答えはシンプルなものです。


「勉強とは知らないことを『知る』ということ」


 これが私にとっての勉強の定義になります。
私は、大学生になってから少しずつ本を読むようになりました。
人との関わり合いで学ぶことも多くありました。
挑戦すること、失敗したこと、上手くいったこと。人に教えること。
それぞれで知らなかったことを『知る』ことが出来ました。

これらは、すべてが状況や性質が異なります。
しかし、それぞれが『勉強』と言えるのではないでしょうか?

私にとって、多くの場合における勉強の共通項は『知る』ということ。


 『知る』ことを通して、自分の視野を広げ、問題や話題の本質を考え、相手のイイタイコトを理解しようとする姿勢が身に付きました。
状況や相手に応じて対応を変化させる(合わせる)柔軟性や、固執せず、相手の意見を受け入れる余裕も少しずつですが、生まれてきました。
やる前に想定すること、実際はどうだったかを検証することも覚えました。

 そして、目標に対して何が必要になり、準備をして(事前に勉強をして)、どう実行していくべきかを考えるようになりました。

 私の経験において、『知る』ということは、自分が知らないことを自覚して、学んでいくこと(蓄積すること)でした。

 勉強をするというのは、そのための行為であり、根底にあるのは『知る』ということなのだと思います。勉強そのものは、目的ではないのです。

そういう意味では、『ソクラテスの弁明』にある「無知の知」というのは、ひとつの答えなのでしょう。
彼のいうところでは「知らないということを自覚すること」に重きを置かれていました。
※個人的には、「面倒臭いジジイ」だと思ってます。

 試験についても同様でしょう。
何を聴きたいのか。なぜ、そのテーマを選んだのか。
これらを解くためには、やはり勉強をして蓄積した(知った)ことを土台に出題者の意図を理解することが必要になります。

 また『知る』ということは、『相手を知ること』にもなるでしょう。
相手の意見を聴き、背景や感情を読み取ることは事態の理解を深めます。
これもまたひとつの勉強と言えるのではないかと思います。
言い換えれば、『知ること』は共生の可能性を見出す萌芽なのでしょう。


 残念ながら、すべての人々が相手を理解しようと歩み寄るわけではありません。知識を善意や道徳的にではなく、悪徳や独裁、排除という形で悪用してしまう人がいることは、多くの歴史が証明しているところだと思います。

 それでも私は言いたいのです。
『知る』ことで、人は相手に優しくなれる、と。
それが現在も、これから先も必要なことだと信じたい。


知識とは『知ることの蓄積』であり、『知識の扱い方』を知恵と呼ぶのではないでしょうか。

「勉強とは『知る』ということ」


これが私にとっての「勉強について」の本質的な解とせていただきます。



 今回の話は、とても難しい話だったかもしれません。
ですが、私たちは暮らしの中で多くのことを学び、生きています。
ときに反省もあるでしょう。ときに憤り、ツラいこともあるでしょう。
ときに喜びもあるでしょう。報われることもあるでしょう。

日々、私たちが体験する、それらすべてが『知る』ことのように思います。



あなたにとって勉強とはなんですか?


内容もさることながら、翻訳の考察もかなり分かりやすく、かつ一般的な論説の他に翻訳者の解釈も載せていて、なかなかに楽しめる作品になっています。

私は、光文社古典新訳文庫にはかなりお世話になっていて、論文制作の他、社会人になってからも大半はこちらの出版社から発刊されたものを選んで読むようにしています。
理由は「現代人にわかりやすく伝えようという努力」が伝わってくるからです。

個人的にはオススメな作品が多いので、またどこかの機会で紹介出来たらと思います。

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