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【3303字】2024.06.17(月)|四度寝

一度目はアラーム前に起きた。時刻は忘れてしまったが、確か、2時間前ぐらいだったと思う。夢でふと目が覚めたことは覚えているのだが、内容も忘れてしまった。二度寝、三度寝と、連続して眠ると、夢の内容は忘れるようにプログラミングされているのだと思う。新たな夢で書き換えられたら「あぁなるほど」とも思うが、夢を見た感覚が無くとも、次に起きたら忘れてしまっている。それが夢の不可思議なところであり、興味が尽きないところでもある。僕は得体のしれないものほど好きになる傾向がある。逆に、自分なりにメカニズムが把握出来てしまったと感じたら、急速に興味を失うこともある。我ながら罪深いことだ。

過去に付き合った恋人に「なんか付き合ったら扱い雑になったよね?」と言われたことを思い出す。胸がキリリと痛む。人間関係だけには持ち込んではならないと、今一度、心に刻み込む。「この人のことが分かった」と感じた途端に、認識能力が鈍ってゆく。過去に付き合った恋人(「扱い雑に~」と言われた恋人とは異なる)との同棲経験で僕はそのことを学んだ。一緒に居る時間が長くなればなるほど、「もうこの人のことを僕は十分知ることが出来た」ではなく「また一つ新たな一面を知ることが出来て嬉しい」という心持ちで付き合っていかなければならないことを。

結果的に僕は。彼女の”心のSOS”に気付くことが出来なかった。いつもそう。別れてから気付く。「あぁ、あの時、確か、あの子は、あんなことを…。」と思い至る。我ながら情けない。一つずつ紐解いていけば、自分の至らなさが原因で、この事態を招いてしまったのだと分からされる。しかし、時すでに遅し。あとに残るのは「今ならもっと上手くやれたはずなのに…。」という悔恨の念のみ。リベンジの機会がおとずれることはない。これからもおそらくおとずれないだろう。自らその機会を手放してしまうだけの所業を働いていたのだから。自業自得である。

「今ならもっと上手く…。」という悔恨の念は、これまでお付き合いしてきた恋人全てに当てはまる感情だ。タイミングは、決まって、絶縁状態になってからである。恋人と過ごす時間がポッカリ空いた分を、一人、元恋人を想うことで、時間の隙間を埋めていく。気が済むまでそれを続ける。出会って、交際に発展して、別れに至る。一連の流れを、時系列順に追って行く。毎回毎回、不思議なほどに、鮮明に思い出せてしまうのはなぜなんだろう。「走馬灯のように~」という表現が適しているのかもしれない。

「死を悟った時に人は走馬灯を見るものだ」

こんな言い伝えがあるが、僕はいつも、疑問に思う。「死を悟った人が見るものなのに、なぜ、伝承として残っているのだろう?」と。意味通りに解釈するならば、死の間際に走馬灯を見た人は、そのまま死を迎えて、”死人に口なし”の状態になるのではないか。不思議でならない。”死を悟って走馬灯を見たが結果的に亡くならなかった”という人が、「実はさぁ、死を覚悟した瞬間に、過去の出来事が、バ~ッて、脳裏を駆け巡るような感覚を覚えたんだよねぇ…。」などと話したのだろうか。だとしたら、実に滑稽な話だ。真相が気になるところである。


プロ野球は、昨日、6月16日(日)をもって、交流戦が終わった。厳密に言えば、明日、6月18日(火)に、雨天中止分の振り替え試合として、【阪神-日本ハム】のカードが組まれているが、事実上の閉幕、と言っても差し支えないだろう。そして、今日、6月17日(月)から、6月21日(木)の4日間は、交流戦終わりのブレイクタイムとして、カードは組まれていない。いわば、プロ野球に携わる人々にとっては、小休止みたいなところか。

僕も「野球好き」を公言している以上、プロ野球に携わる”端くれ”ではあると自負しているのだが、こういう、”シーズン中の小休止期間”は、上手く身体が動きにくくなる。これは毎年そうだ。何をやればいいのか分からなくなる。結果、無為に過ごしてしまうことが非常に多い。実にもったいない。有効活用出来ていない。

自分で言うのもなんだが、僕がブレイクスルーするための最重要課題は、タイムマネジメントにあると思う。「時間管理術」みたいなカテゴリーの自己啓発本を、腐るほど読み続けていた時期がある。まぁもう、色々試した。トライ&エラーをひたすら繰り返した。身になっている感覚は、正直無かったけれども、試行回数をひたすら増やすことで、「このやり方は自分には合っていなかった…。」を積み上げることが、「散々試して自分に合うやり方が見つかった!」に出会えたり、「じゃあ自分に合いそうなやり方ってこうじゃないの?」という閃きに繋がると信じて疑わなかったからだ。

しかし、「反時間管理術」とでも言うべきタイトルの自己啓発本が認識に上がって来て、恐る恐る読んでみたら、そこには、「時間管理術を謳う書籍は小手先のテクニックに過ぎない」だとか「その方法を駆使したとしても細々としたタスクが延々と増え続けるだけで現状が改善するどころか悪化の一途を辿るだけだ」などと、辛辣な内容がビッシリと書き込まれており、心がポッキリと折れてしまう、といった苦い体験を通して、僕の、トライ&エラーの日々は、不完全燃焼(というか燃え尽き症候群に近いのか?)で、終焉を告げた。

今振り返ると、当時の僕が「反時間管理術」と解釈した書籍は「エッセンシャル思考」を謳っていたのだろうな、と思う。極論を言ってしまえば、当時の僕は、知識が無かった。「遮二無二」と「我武者羅」を携えて「猪突猛進」していただけだった。そこに、自分が信じて疑わなかったものを真っ向から否定してくるモノが、「SASUKE」の「反り立つ壁」の如く、僕の眼前にあらわれて、敢え無くリタイアした格好だ。


”反り立つ壁”

身長が低めのアスリートは、大体あのエリアでタイムアップになるイメージがある。もちろん、運動神経やジャンプ力等で、小柄な人でもカバーして、なんとかクリアして、前に進んでいくのが、聴衆の感動を惹き付けるという面は考慮しなければならないが、大柄な人が、ヒョイと簡単そうにクリアしていくのを見ると、「ウーム…。」と思案せざるを得ない。

断っておくが、僕は、「SASUKE」は、全くと言って良いほど詳しくない。知っているのは、「ステージ1」の終盤辺りに「反り立つ壁」という名物エリアが存在するということぐらいだ。もしかすると、小柄な人の方が有利になるエリアも、多数存在しているのかもしれない。「反り立つ壁」のみを切り取って論議を行なうのはフェアじゃないことは重々承知の上だ。

ただ、僕はこうも思うのだ。「ステージ1にあるのはなぜなんだ?」と。「SASUKE」のステージを制覇するのは並大抵のことではない。100人の参加者の内の大多数は「ステージ1をクリアしたい!」と意気込みを語っている気がする。「ステージ2」以降は、少数のベテラン勢やツワモノ勢のために存在していると言っても過言ではない。あくまでもイチ視聴者の意見に過ぎないが。

だとするならば、「ステージ1」の「反り立つ壁」は、大多数の「ステージ1をクリアしたい!」と意気込んでいるチャレンジャー達を、ふるいにかけるエリア、うがった見方をすると、やや過激な表現になってしまうが、「尺の都合上、ポンポンとクリアさせられないんで、ココで落ちてくれます?」というためのエリアなのではないかしら、とすら僕には思えてくる。これは単に深読みが過ぎるだけであろうか?

ただ、そう思わせるぐらい、「反り立つ壁」まで辿り着くも、その壁を登り切ることが出来ず、いたずらに時間だけが過ぎて行き、残り10秒を切ると「ブー!ブー!」という警告音が鳴り出し、心身は完全に疲弊して、もはやトライする気力も無くなり、「バァーン!」と、タイムアップを告げる爆発音が鳴り響き、精魂尽き果て、その場で崩れ落ちる・・・。そんな光景を、幾度となく見て来た気がする。これは単にショッキングなシーンだからこそ記憶に残りやすいだけであろうか?

要約すると、今日は、そんな一日だった。

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