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【 わたしはペシミスト 】

◆ ペシミスト=悲観主義者ではない

 社会的に不利なので、公言してる人は少ないかもしれませんが、潜在的にペシミストはたくさんいらっしゃると思います。ペシミストを日本語に訳すと悲観主義者ですが、その訳し方には多少違和感があります。わたしはペシミストですが、悲観主義者ではありません。変に聞こえるかもしれませんが、これは言葉のニュアンスの問題。主義者ではないのです

 ペシミストという呼称は、もっと広義に用いられてもいいと思うのですが、哲学用語というやつはどうしても硬く訳されがち。主義者と勘違いされても仕方ないのですが、他に適したコトバもみあたりませんので 便宜上ペシミストと名乗っている次第です。

 それでは主義者とペシミスト(悲観者)と何が違うのか、ですが それは第三者に対し声高に主張するかどうかにあると思います。元来わたしは臆病で気弱な人間ですから、ニーチェみたいに「悲観せよ!」「悲観主義者たれ!」みたく大仰に掲げてるつもりはないのです。ただ どんな人間ですか? と問われたら、そっと 呟くように「ぺ、ぺ、ペシミストです。」みたいな(苦笑

◆「楽観する」と「悲観する」 どっちが楽?

 むかしTVの過剰な元気さについていけず「元気のない時代の元気すぎるTVの弊害」について考察をまとめたことありましたけど、TVって正直しんどいんですよね; 無理からテンション上げてる感が、観ている側も疲れる。業界ノリというんでしょうか。そういうものをこちらに強要されてる気がして非常に疲れる。

 元気のある時代はそれで良かったのかもしれない。景気がノリを後押ししてくれてましたしね。でも今はそんな悠長な時代でもないでしょう。若い子だとシラケ世代と言われたりもしますが(これって死語?)そういうリアルさに敏感なんだと思う。

 コッチはプロでやってんだ!と関係者の方からはお叱りくらいそうですが、面白ければ それで何も問題ないわけで ただ何にも面白いこと言ってないやってないシーンまで パーティーのノリで 進行されてしまっては実際パーティーに参加させられてしまってる感覚に陥るのです。

(こうした点でみますと、芸能人で唯一安定して司会を観れたのは「タモリさん」くらいです)

◆ 集団で会話するのが苦手

 この感覚に共通する人が、わたしに言わせるところの「ペシミスト」です。(わからない人には、この先何を言ってもわからないままと思うので、わたしのノートを閉じていただいて構いません。あくまで共通のペシミストら救済のために書いてます)

 学生の頃、学食を食べるのが酷く苦痛でした。集団といても一人で沈んじゃうし、かといって一人で食べるのも「ぼっち感」があり緊張する。もちろんパーティーなんか地獄です。幾度かエンジョイしようと無理してコンパやら参加しましたが、いいことなんてひとつもなかった。「何やってんだ、オレ」みたいな自責感情しかなかった。

 わたしは関西出身で 大学も大阪なもので、それも災いしたかもしれません。関西といえばお笑いみたいなノリの潜在意識を 自他共みんな持ってて、決してオモロくなくても、みんなボケるしツッコミ入れる。かえってそれが自分のオモロなさを露呈しているとも気づかずに。

(その後、こうした自意識過剰を克服すべく演劇の世界に足を踏み入れ、役として殻を打ち破る神技学んだのですが、その話はまたいつか。)

◆ ペシミストはお嫌いですか?

 じつはこう見えて わたしは自分のネクラな性格を 好んでいるところがあります。自分らしいと感じるし、この性格なしに生きるなんて いうことが どうしても わたしには考えられない。

 そりゃもちろん いろいろ損もする。こちらにその気がなくても周囲の人までネガディブ思考に引きずりこむし、別に怒ってもないのに、何怒ってるの?と周囲を不安にさせたりもする。

 でも いいことだって たくさんあります。裏を返せば 落ち着いている 慎重派ってことだから失敗のリスクを減らすことができる。周りが緊張で慌ただしくなり、落ち着かなくなると、逆にこちらの沈着を見て、ホッとされたりもする。

 何かの本で読んだけれども、「もしかしたら〜なことになるかもしれない」というネガティブシンキングの逆転が、「じゃあこうしたら うまくいくんじゃないか」という発想に生まれ変わり、アイデア商品化につながることもある。(ネガティブはあくまで起点であって それをポジティブに切り替える発想もいるけどね。つまりずっとネガ→ネガじゃ負の連鎖しかないってこと)

 暗い性格の人ほど、そんな自分を悪く思い、「こんな自分はダメだ」「自分を変えなくちゃならない」みたいに思いがち。それでほんとうに変えれるものなら変えてしまって楽なんだろうけど、わたしみたいに「何の不安も感じたくない」「たくはないけどやっぱりどうしても感じてしまう」ような不器用な性格の人(ほぼ十中八九こういうタイプと思う)は、ぜったい 自己啓発しても (無駄とは言いませんが)無理なわけで洗脳はいづれ解けちゃうんですね。

 楽観はある意味、忘れることで、逃げでもあるんです。だから楽なんだけど。でもきっと後から思い出すんです。「あの時ちゃんと見て考えとけばよかった」って。そんなとき、いったい誰が手を差し伸べるというんでしょう。そう、ここからがペシミストの出番です。

 悲観を拒み、いっしょになって楽観走っていたとすれば もう誰も救える人はいません。自分の悲観も肯定できないようじゃ相手の悲観も肯定できませんから。寄り添うっていうのは  いっしょに笑うこともそうだけど 泣くことも含まれてるんだよね 見過ごしがちだけど。

 あるがまま 全部受け入れてこそなんです。

 ほんとうに必要な寄り添いは

 泣くな じゃなくて
 泣きなさい なんだ 。

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