エッセイ、一人称の小説、三人称の小説
今回は、古井由吉のエッセイと小説を紹介します。
前回の記事でお知らせしましたように、しばらくnoteでの活動をお休みして読書に専念するつもりでいたのですが、気になる下書きが複数あるので、ペースをうんと落として投稿する方向に気持ちが傾いてきました。ふらふらして申し訳ありません。
◆雪の描写
古井由吉が金沢大学の教員として金沢に住んでいたころを回想した文章を読んでいて、感動したことがあります。昭和三十八年の大雪と雪おろしの様子が書かれていたのですが、その描写力にぶったまげました。
よく見ていたなあ、よく聞いていたなあ、よく覚えているなあ、こういう言葉と言い回しがよく出るなあ。そして何よりも、よく感じたなあ。
戦災を受けずに残っている金沢の「小路」に面した印房(はんこや)に、古井は下宿していたのですが、その店舗兼住まいである家屋の描写が正確で、そこに住みながらよく観察していたことがうかがわれる文章なのです。
私は雪の降る地方で生まれ育ち、古井の描いたような家屋が軒を並べる小路の風景にはなじみがあります。読んでいて懐かしさでいっぱいになりました。数ある見事な描写の中で一箇所だけ紹介します。
最初の太文字の箇所は比喩をつかっていますが、まさに大雪はこんなふうに落ちてくるのです。もちろん雪質や風の強さや向きによっても違いますが、小雪だと小さな蜘蛛のようにふわふわと落ちてくることがあります。
頭や服にまとわりつく蜘蛛を初めのうちは払っていますが、そのうちに諦めるしかなくなります。気がつくとまわりの誰もが真っ白です。蜘蛛はとめどもなく落ちてきます。
後者の太文字の部分では、屋根の雪の重みが、まるで得体の知れない小さな虫の大群のように家の隅々に潜み巣くっている気配を思いだしました。地虫はジーと鳴く気配がするといいますが、積もった雪はかすかにキーと鳴くのです。
屋根という上からかかってくる「重み」を、身体の下である「足の感触」へと転じた古井の巧みさに唸ります。そのリアリティにぞくっとします。
*
雪は生きています。人はその生き物に戦いを挑むのです。生き物同士の戦いになりますが、人はつねに劣勢に立たされています。空から落ちてきた白い生き物たちが、結託して次から次へと巣を広げていくからです。
溶けるか解けるのを待つしかありません。一時的に溶けるか、春になって解けるかです。
◆雪の降り方と雪の圧力
*小説
上で紹介したのはエッセイでした。今度は、小説で雪の描写を見てみましょう。
重要な部分なので長く引用してしまいました。申し訳ありません。
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前後関係から、上のエッセイと同じ体験に基づく文章だと考えられます。私が太文字をほどこした部分の前半は、雪の降り方を描写したものです。後半では、雪が家屋にどのような圧力をおよぼしているかが描かれています。
*エッセイと小説
引用したエッセイと小説の文を並べてみましょう。まず、雪の降り方の描写です。
・エッセイ:「大きな雪片がばさりばさりと、脚をひろげた蜘蛛のように落ちて来るのを、」
・小説:「灰色の空から、ほとんど黒みがかって見える雪片がもわもわと蠢めきあって落ちてくる。」
両方とも視覚的な描写です。
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エッセイでは、「大きな」(大きさ)と「脚をひろげた蜘蛛のように」(視覚的な比喩)と「落ちて来る」(動き)が、目で見たさまの描写です。
「ばさりばさりと」は擬態でしょうが、擬音とも言っていい表現であり、「蜘蛛のように」という比喩と呼応しています。雪が降って来るのではなく、「落ちて来る」とあるために生き物じみた印象がします。
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小説では、「蜘蛛」という比喩は出てきませんが、「ほとんど黒みがかって見える雪片」の「黒」に蜘蛛っぽさが感じられなくもありません。白いはずの雪が「黒みがかって見える」様子は私の記憶の中にもあります。
大雪の場合には、落ちてくる大きな雪片に厚みが感じられて、下から見上げると雪片の下の部分が上の部分の影や陰になるためか、黒っぽく見えるのです。雪は必ずしも白ではありません。
「もわもわと蠢めきあって落ちてくる。」は、「蜘蛛」という語こそないもものの、蜘蛛が落ちてくるさまを連想させます。「蠢」という漢字に見える「虫」が、虫のイメージをいや増しているかのようです。気のせいか、「春」も春(はる・しゅん)という意味と音をともなった文字ではなく虫の形に見えます。
*
ところで、蜘蛛の姿は蟹に似ていませんか?
*雪の圧
・エッセイ:「かなりの重力が家にかかっていることは、建具の開け閉てばかりでなく、床や階段を踏む足の感触からも伝わった。家じゅうにひずみが行き渡っている。」
・小説:「部屋を出るとき、襖も手に重く抵抗した。急な階段を降りるときも、踏み板が私の体重を何時もより剛い弾力で支えた。雪の重みが屋根の傾きにそって滑ろうとして梁をじりじりと圧しているさまを、私は全身で感じ取った。家中の物がその圧力に感応して、静かに緊張している。タンスや柱時計までがそんな風に見えた。」
エッセイと小説ではセンテンスの数と語数に差はありますが、描写されている対象に顕著な類似が見られます。細部を並べてみましょう。
・エッセイ:重力、建具の開け閉たて、床や階段、家じゅう、ひずみ
・小説:襖、重く抵抗、階段、踏み板、重み、家中の物、圧力、緊張
以上の言葉に私の言葉を重ねてみます。
*視覚的描写と感覚的描写
描かれているのは雪の圧です。屋根に積もった大量の雪の重みが、家全体にかかっている様子が、感覚的に描写されています。
落ちてきて屋根に積もった雪 ⇒ 重み ⇒ 家中の物のひずみ
雪の降り方の描写との大きな違いは、視覚的なものではない点です。力や圧を描くのに視覚的な表現は適さないからでしょう。
目に見えない圧は身体が受け止めるものだからです。圧は、それを受けた身体の動きと皮膚的な感触として表現されます。
エッセイでは、雪の圧力が、「建具の開け閉て」という動作として、そして「床や階段を踏む足の感触」という触感・触覚に転じています。力が身体の動きと足の感触に転換されているのです。
「家じゅうにひずみが行き渡っている。」には俯瞰が感じられるので、やや説明に傾いた感覚的な描写だという気がします。いずれにせよ、視覚的な描写はありません。
ところが、「タンスや柱時計までがそんな風に見えた。」ではいきなり視覚に転じ――唐突な印象も受けないわけではありませんが――、その異化効果に、はっとしないではいられません。見えないはずの圧がとつぜん視覚化されているからです(書かれているのは描写というよりも印象の記述ですが、それでも読者は視覚化として取ってしまいます)。
このように緻密に組み立てられた描写が私は好きです。自分にはぜったいにできない書き方だからでしょう。
*論理的な作りの文章
エッセイで簡潔に描かれていることが、小説ではずっと細かく密になっているのです。細密に書けば書くほど古井の筆致は冴える。そんな気がします。次の箇所をご覧ください。
・「部屋を出るとき、襖も手に重く抵抗した。急な階段を降りるときも、踏み板が私の体重を何時もより剛い弾力で支えた。」
屋根に積もった多量の雪の圧力が、「部屋を出る」と「階段を降りる」という動作から生じる、「手に重く抵抗した」と「(踏み板が)剛い弾力で支えた。」という反作用によって、感覚的に言葉にされています。
人の動作・作用・目に見える ⇒ 物の反作用・目に見えない・人が身体で感じる
*
人と物(屋内の物)とのともぶれ(共振)が起きています。そのともぶれの中心に、巨大な物と化した雪があるのです。なお、古井の小説における「ともぶれ」については、「まばらにまだらに『杳子』を読む(05)」をお読み願います。
つまり、作用と反作用で力を感覚的に描写しているという理屈なのですが、この描写には論理が感じられます。古井の描写は感覚であっても理屈っぽいのです。そのため論理的に突きつめれば論理的に得心できる文章になっています。
ややこしそうでも、論理的な作りの文章なので、しっかり読めば曖昧なところはありません。とはいえ、しっかり読むのに骨が折れる文章であるのは確かでしょう。
*力を感じ取る
・「雪の重みが屋根の傾きにそって滑ろうとして梁をじりじりと圧しているさまを、私は全身で感じ取った。」
この箇所を読むと、はっとします。既視感を覚えるからにほかなりません。
私は「似ている」に敏感に反応します。これは読むときの私の癖であり、作品を論じるさいの限界でもあります。
*感じ取る杳子
とりわけ頭に浮ぶのは小説『杳子』に見られる「感じ取る」描写です。たとえば、次の箇所です。
・「河原に立ったとき、彼女は谷底にのしかかる圧力を軀にじかに感じ取ったという。」
「という」からわかるように、ここは『杳子』という小説の視点的人物である「彼」(S)の視点から、杳子の言葉を伝聞として記述している部分です。
*
両小説の細部を見てみましょう。
*『雪の下の蟹』:
・1)圧しているさまを、私は全身で感じ取った。
・2)家じゅうにひずみが行き渡っている。
・3)踏み板が私の体重を何時もより剛い弾力で支えた。
・4)家中の物がその圧力に感応して、静かに緊張している。
*『杳子』:
・1)彼女は谷底にのしかかる圧力を軀にじかに感じ取った
・2)両側からずり落ちようとする山の重みにひずんで、
・3)河原の地面が尾根や平地とは違った弾力で彼女の歩みを受け止めた。
・4)その力は地面だけではなくて、空間にもみなぎっていた。
*
細部を対照して私なりに整理してみます。
1)屋根の雪の圧力を全身で感じ取る。
谷底にのしかかる圧力を軀に感じ取る。
2)家じゅうにひずみが行き渡る。
山の重みにひずむ河原の地面。
3)屋根の雪のひずみが階段の踏み板におよんで、体重を弾力で支える。
山の重みにひずむ河原の地面が、他所とは違った弾力で歩みを受け止める。
4)家中の物が屋根の雪の圧力に感応して緊張している。
土の中にこもる力が地面だけでなく空間にもみなぎっている。
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次のように、まとめることができるのではないでしょうか。
*『雪の下の蟹』:屋根に積もる雪の重み(圧力)が、家中の物におよぶ。その力を「私」は家中の物の感応と緊張として感じ取っている。
*『杳子』:山の重みが谷底にのしかかり地面におよぶ。その力が岩を押し上げていると杳子は感じ取っている。
*
なお、力を感じ取る杳子については、以下の「まばらにまだらに『杳子』を読む(10)」と「まばらにまだらに『杳子』を読む(06)」で触れています。お読みいただければうれしいです。
*力を感じ取る、感じ取る力
単純化してまとめると、以上のように私には感じられます。
注目したいのは、
・古井由吉作のエッセイ「雪の下で」の「私」、
・古井由吉作の小説『雪の下の蟹』の話者である「私」、
・古井由吉作の小説『杳子』の視点的人物である「彼(S)」の視点から記述された杳子、
この三者が共通して、力を感じ取る存在として描かれていることです。
その力を感じ取るさまが、エッセイと二編の小説において、よく似た「言葉の身振り」として演じられているのです。というか、私にはそのように感じられます。
◆古井由吉的「存在」
・古井由吉作のエッセイ「雪の下で」の「私」
・古井由吉作の小説『雪の下の蟹』の話者である「私」
・古井由吉作の小説『杳子』の視点的人物である「彼(S)」の視点から記述された杳子
上に並べた「私」、「私」、「彼(S)」、「杳子」――とは言葉であり文字です。これは確かです。人間でないことも確かです。
とはいうものの、私たちはそれらの言葉と文字を人だと見なすことで、文章を読んでいることもまた確かだと言えるでしょう。
生きていない物(文字)に生きている人や物の身振りを見る。さらにその身振りに触れて自分も振れる(場合によっては狂れる)。これが読むという行為ではないでしょうか。
*
エッセイにおける「私」は、その作者といわば「等身大」の存在として見なされるのが普通です。
小説で一人称の「私」とあり、その書かれた「私」が作者に似ているとなれば、これまた作者の分身のように見られがちです。
小説が三人称で書かれ、作者とは別の性の登場人物となると、作者と重ねて読まれることはあまりないと思われます。たとえば、ギュスターヴ・フローベール作の『ボヴァリー夫人』のように。
ただし、「ボヴァリー夫人は私だ」と作者が言ったとか言わないとかという話があると、話は別ですけど、詳しいことは知りません。私はこの種の話題には興味がありません。
*
*
蓮實重彥著『「私小説」を読む』が出版され、上の部分を読んだときには衝撃を受けました。日本語で書かれた作品を対象にした「新しい批評」が日本でも登場したことに、わくわくぞくぞくしたのです。
「新しい批評」については、以下の拙文「知らないものについて読む」で書きましたので、よろしければお読みください。
『「私小説」を読む』で用いられた新しい批評の手法が、かつてどのような環境でどのように登場し、どのような受け止め方をされたかに関しては、阿部公彦氏が由良君美について論じた、以下の文章をお読みになると概観できます。
的を射た指摘に満ちた素晴らしい論考です。お薦めいたします。蓮實重彥の名も出てきます。
*
さきほども述べましたが、私は、書かれている言葉(文字)の身振りに見られる「似ている」に惹きつけられる読み手です。
そんな私には、引用箇所にある「そして読むとは、もっぱらその一瞬ごとの現在を生きようとする試みにほかならない。というのも、人は、いま、ここにある言葉しか読むことができないからである。」が、いまもなお刺激的に感じられます。私が文字と文字列と文章と書物を読むさいの基本的な姿勢でもあります。
なお、以下の拙文「影の薄い小説(小説の鑑賞・03)」は、作者と作品について、専門用語をつかわずにできるだけ分かりやすく書いたつもりの文章です。短い記事なので、よろしければご覧ください。
◆エッセイ、一人称の小説、三人称の小説
以上、古井由吉作の、エッセイと、一人称の小説と、三人称の小説で、私が「似ている」と感じた言葉の身振りのある部分を見てきました。
同じ作者の文章であれ、別の作者の文章であれ、「似ている」言葉の身振りを感じる細部があれば、私はたちまち惹きつけられます。
ここはあれに似ている――。これさえあれば、私はわくわくぞくぞくするのです。単純ですよね。
エッセイであれ、一人称の小説であれ、三人称の小説であれ、詩であれ、小説以外の文章であれ、対象はなんであってもかまいません。
節操のない読み方ですが、こんな自分の感覚を大切にしていきたいと思います。
◆古井由吉『雪の下の蟹』
古井由吉作の『雪の下の蟹』には優れた描写がたくさんあります。
以前に、ある人にこの短編(中編)を薦めたところ、とても読みやすかったという感想をもらいましたが、たしかに古井の小説としては取っつきやすい内容とストーリーであり、文体も読みやすいものだと思います。
あと、その人は『杳子』を書いた作家の小説とは思えないとも言っていました。
『雪の下の蟹』には、内容的にも書き方の上でも、さまざまなテーマと要素が盛りこまれてもいます。私がすごいと感じるのは、色の使い方です。
大雪に見舞われた北陸の都市という単調になりがちな設定なのに、じつに巧みに色をもちいています。また、直接的に色を出さずに色を感じさせている箇所も多々あるのです。
自分が小説を書くさいに見習いたい技巧の宝庫でもあります。とりわけ技を感じるのは、現実の描写から想像・幻想の描写に転じたさいに、前者に見られる比喩とそのイメージをそのまま後者に見事に移しかえている点です。
あと、上で触れた心象としての蟹の描写についても書きたいことがあります。
こうした点については別の記事としていつか書いてみたいと思っています。
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来る二月十八日は、古井由吉(1937ー2020)の命日です。ずっと気になっていた下書きを記事にできてうれしいです。
外に残る雪を見ていて下書きを完成させようという気持ちになりました。溶けない雪もいつかは解けます。
※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。
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