見出し画像

note開始50回記念【特別版】2024年6月24日(月) DeNA三浦大輔監督を嫌いになりそうな時、また好きになるnote.【前半】 (No.50)


交流戦を11勝7敗で終え、見事に12球団中3位で終えた我らの横浜DeNAベイスターズ。
セリーグに戻っても対阪神タイガースを1勝1敗で切り抜け、新エース・才木投手を回避できたことで、まあまあ良い感じですね。

今はまだ勢いに乗っていますが、それでも今後は胃が痛くなるような戦いが続きます!

そして、今後も 絶対に!間違いなく!そう遠くない未来に三浦監督の解せない采配が出てくるだろう!

そうするとメンタルが弱い私は、ものすごく腹がたちますよ!

そんな時に三浦大輔とホエールズ〜ベイスターズ(マルハ時代〜TBS時代〜DeNA時代)の歴史を簡単にまとめたこのnoteを見直せば…

こんな怒り心頭になるだろう私でも三浦監督を嫌いにならずに、再び好きになりポジティブな気持ちで野球観戦できるかもしれない!という思いで作りました。

私と同じような方がいたら是非、活用ください。

若き日の三浦大輔投手。そう!襟足は長かったのだ!
98年から背番号18をつける (宜野湾にて)

え?新人の井上選手に似ている??


全2回に分けていきます。

まず、最近特にDeNAになってからのベイスターズファンの方は三浦大輔投手というのも知らないですよね。
そんな方に三浦大輔の投球スタイルから…

大洋ホエールズ時代 まだ自慢の下半身は走り込みが少なかったからか細かった
2000年まではスパイクは青色。三浦大輔の契約メーカーは一貫してミズノ!
最近はパーツごとにコロコロ変える選手が多い中、
男の中の男らしい一貫してミズノ!
2001年からは当時の森監督の発案でスパイクは足元を軽く見せるために白に!

⭐︎三浦大輔の投球スタイル⭐︎

ストレートは若い頃は平均140キロくらい(時代的には平均的か、少し遅いかも)
2000年代には平均145キロ前後(全盛期はまあまあの速さ)とスピードアップ。

変化球はスライダーとフォークを中心にカーブ・シュート。

どの球種も一定以上のレベルで使える球でした。内外の出し入れがポイント!

2000年代からはカットボールを得意球に加えて更にレベルアップ!
(私の記憶では誰も最初のうちはカットボールって言ってなかった)
打たせて打ち取る投手だった三浦投手だがストレートの球速アップもあり、三振が取れるように。

だが、1番の武器はコントロールの良さ&マウンド度胸の良さ!
特にコーナーをズバッと攻めるストレートが2000年代では光った。
打者に向かっていく気持ちが強い投手。
ピンチでも強気に攻める姿勢もファンに人気の要因の1つ。
更にスタミナも抜群でした。


Q.三浦大輔投手に似ている現在の投手は?

A.今ならば2軍含めて5試合しか見てないけど、石田裕太郎投手かと思います。

丁寧にコーナー(ゾーンよりもっと細かい角を狙える)を攻められるコントロール。
変化球もスライダー・シュート・落ちる球(シンカー)を同レベルで駆使している。
でもストレートでもグイグイ攻められる。
ピンチでも打者に向かう気持ちが強い投手。
スタミナは石田裕投手は、まだ足りないが三浦投手要素が多い。絶対に三浦監督も石田裕投手はお気に入りのはず!

⭐︎『ハマの番長』三浦大輔とベイスターズ(大洋ホエールズ)の歴史⭐︎


1991年、横浜大洋ホエールズのドラフト6位で指名される。
同年のドラフト1位は昨年までのチーフ投手コーチでメジャーリーガーの斎藤隆氏。

プロ入り2〜3年くらいは渡部投手・加藤投手など同世代投手と先発枠を争うことが多かった。

今や当たり前の2段モーションの先駆者・三浦大輔!

1994年の宜野湾キャンプ(だったはず)のキャッチボール中に偶然、良い感じで投げられる事をつかんだ。
それが2段モーション!

小谷正勝コーチ(現在もDeNAのコーチングアドバイザー)に相談して試合でも使うようになって、2段モーションの先駆者となった。

翌年の1995年、故・近藤昭仁監督時代にローテーションに入るようになって活躍し始める。

1997年、初の10勝をあげた。
97年は8月末までは王者・スワローズを追い込み初優勝も見えたが、9月に石井一久投手のノーヒットノーランで選手もファンも完全に気持ちが折れた。 

ただベイスターズ史上最高の2位で終わる。(まだCS自体が存在してない)


1998年、背番号が46→18になる。 
シーズン中に肝機能障害などもありましたが、10連勝など12勝をあげ2年連続10勝!

  98年9月にはベイスターズの優勝を祈願して、
横浜駅東口地下街にハマの大魔神社ができる!
御神体はもちろん佐々木主浩氏のフォークの握りの右腕を型取りしたもの。

年初めから、神奈川大学箱根駅伝優勝!横浜高校、松坂大輔を擁して春夏連覇!
そして、横浜ベイスターズ38年ぶりのセ・リーグ優勝に横浜中が沸きに沸く!!

が、日本シリーズでは不調…

1998年日本シリーズ第3戦 西武ドーム 三浦大輔投手 先発試合

国歌斉唱・渡辺美里(歌手) 始球式・里谷多英(長野五輪金メダリスト)  解説・野村克也(ヤクルトスワローズ監督)

当時、16号線を北上してひたすら横浜から西武ドームが遠くて車の運転しんどかったですね。
まだ免許取り立てみたいな感じでしたが西武ドームの駐車場で車内で泊まった記録があります。


オールドファンの方は、あの第6戦の駒田選手のタイムリー2塁打で、もう優勝を確信しましたよね。
駒田選手タイムリー場面のみを見たい方は1時間16分53秒〜見るといいですよ

1998年、日本シリーズも4勝2敗で38年ぶりの日本一に!!!!!

1999年、自身初の開幕投手に。
この時から三浦大輔の開幕投手の呪いが始まる事になる…

が、ここら辺の時は三浦大輔監督がまさか!今のような球団レジェンドになる気配は全くと言っていいほどなかった…

(球団レジェンドになりえた選手たち)

98年優勝メンバーからは早々に高年俸を求めたR・ローズ選手が結果として引退し、起用法に不満を持った駒田選手も引退しました。

FAで佐々木主浩投手・谷繁捕手・斎藤隆投手などが抜け、トレードで波留選手・進藤選手・多村選手らが去り
野村弘投手・鈴木尚選手・佐伯選手らは力が徐々にピークからは落ち、

石井琢朗選手こそは球団レジェンドとして将来は監督になるかと思ったが2008年オフに戦力外…そして広島カープへ!

こうして球団生え抜き(駒田選手・ローズ選手以外)のスター選手がことごとくチームを去りました!

2004年にはアテネ五輪に今の侍ジャパン(当時はそんな名前はない)として、主に中継ぎ担当として出場!銅メダルを獲得!

アテネ五輪での三浦大輔 背番号はな、なんと17番!
担当は中継ぎだった。

18番は松坂大輔が着用した。



2005年、4度目の開幕投手に再び選ばれる!それまで開幕戦3連敗の三浦投手だったが…

2005年開幕戦は悲劇のスタートだった…

ナゴヤドームでの1戦は 相手は中日のエース・川上憲伸投手。

9回表終了時までエース同士の力投で0対0。

三浦投手は8回終了時まで2安打無失点。9回裏のマウンドへ!

先頭の立浪選手(現・中日監督)にレフト前ヒット!と思ったらレフト鈴木尚典選手(DeNA打撃コーチ)が突っ込んで後逸…その間に立浪選手はスリーベース!

ノーアウト3塁!!
次はベイスターズから移籍した主砲・タイロンウッズ選手!敬遠!
その次の福留選手も敬遠…
2敬遠でノーアウト満塁で6番はセンターを守るどちらかというと守備と走塁の人・アレックス=オチョア選手。

2ストライク3ボール(※当時はこの順番で読む)のフルカウントから7球も
ファウルで粘る アレックス選手

13球目…渾身のストレートを左中間にサヨナラ満塁ホームランを打たれる!!!!!
0-4× 力投報われず!!サヨナラ負け!

 


この状況からスタートも

2005年 セ・リーグ最優秀防御率!最多奪三振!をW受賞!!

(最多奪三振はチームメイトで同学年の門倉健投手と分け合う)


左肩に輝くTBSロゴが懐かしい!
そうだった!昔はガラガラだったなあ〜
牛島監督時代は3位で楽しかった!


このくらいの時期は1番ピークで、ストレートが速い時で148キロ出る時もあり、コントロール抜群の速球でも押せる投手でした。


そんな中、2008年オフ(石井琢朗選手がベイスターズを戦力外になった時)に
三浦大輔投手がFA宣言をした!!!!!

⭐︎2008年オフ三浦大輔投手はFA宣言!⭐︎

苦渋のFA宣言!全ベイが泣いたのだ!!
琢朗も番長もいなくなってしまったら、このチームに何が残るのか?


三浦大輔の父は岡田彰布氏の後援会の幹部

子供の頃から大のタイガースファンの三浦大輔投手がFA宣言をした際に
多くのファンは『間違いなく阪神タイガースに行くだろう』と思った

当時は残留する際にはFA宣言しないで残留するのが主流だったから

しかも、

横浜ベイスターズより阪神タイガースの方が契約条件が上だった

と言われております。

2008年の阪神タイガースは、あの大ファンだった岡田彰布監督でした。
次の年からは真弓明信監督に決まっておりましたが。

もう普通に考えたら阪神タイガースに移籍すると思います
私もそう思ってましたから。


それを踏まえて…FA宣言後のファン感謝デーです。
↓↓↓を見てください!!

⭐︎2008年オフ FA宣言後の横浜スタジアムでのファン感謝デー⭐︎
(※ファンの声と三浦投手の応対に注目)

特に『番長行かないで〜〜!』『番長!阪神行くなあ!』の声を聞くと
今でも涙が出てきますね。

(※特に3分01秒以降が見どころです)


この後に…

⭐︎NHK緊急速報! 横浜・三浦大輔投手がまさかの残留へ!!⭐︎

ホ、ホンマかいな?
番長も番長も父ちゃんもあんなにタイガースが好きだったのに…
いや、まだ信じないぞ!


画面はNHKニュース。
NHKで最初は緊急速報でテロップで出ました(笑)

これは泣きました!マジか!!???って泣きました。

TVの前で正座してみました!

そして、三浦大輔投手の残留会見ですが、Youtubeにはなかったです。

が、山本昌さんのインタビューでFA残留時の心境について答えてます。
↓↓↓↓


三浦大輔投手は『僕の野球人生は弱いチームにいて強いチームを倒す人生。これからも横浜でお世話になります』

このインタビュー以外のインタビューですが、
当時、三浦大輔投手の雑誌インタビューで

『このFA宣言してから、どこに行っても番長!横浜に残ってください!と言っていただきました。親父のためにも…自分も阪神ファンでしたから、気持ちが傾く事はありましたが横浜ファンの皆様の声が残留するのに、とても大きかったです。』

と、コメントしてました。

もう当時は三浦大輔に一生ついていこう!!と思いましたね。
人間の意思なんて薄情なものですが…

◾️三浦大輔 ベイスターズファンの心を掴んだ3つ◾️
①強くて契約条件の良かった阪神より横浜でのFA残留を選んだ事
②当時『史上最弱』といわれたTBSベイスターズに残った事
③ファンの声でFA移籍を翻意して横浜に残留した事(ファンを大切にしてくれた事)

この3つの三浦大輔投手の漢気でガッチリとベイスターズファンの心を掴んだのでした。

石井琢朗選手もいなくなって、今まで以上に球団のアイコンとして『横浜・三浦大輔』として世の中で注目されるようになりました。


前半は2008年オフまで。
以上です。


この記事が参加している募集

#noteでよかったこと

48,415件

#振り返りnote

85,359件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?