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観察日記1084

観察日記1084
おはようございます。
西洋哲学史をまとめ中です✋

・16-17世紀ごろ
 ・ケプラー、コペルニクス、ガリレイによって、火星などの惑星に関する新発見が相次ぐ
 ・アリストテレスやプトレマイオスによって提唱され、キリスト教会の公式見解でもあった天動説が否定される
・デカルト(1596-1650)
 ・法服貴族を親に持ち、キリスト教の学校で教育をうける
 ・30年戦争に従軍
 ・やがて、学校で教えられた、キリスト教をベースにした知識に疑いをもつ
 ・「なにも信じられない」という状態に陥る
・方法的懐疑
 ・なにも信じられない、という状態において、デカルトは「これこそは確実」と言えるものを自分の力で発見しなければならないことになる
 ・不可疑なものを発見するために、考えられるあらゆるものをまず疑ってみようとする
 ・疑いの余地のあるものは、それだけですでに確実とは言えない
 ・疑う余地の一切ないもの(不可疑なもの)があれば、それこそ確実と言える
 ・このような方法を、〈確実なものを見いだす方法としての懐疑〉という意味で「方法的懐疑」とよぶ
・「疑わしい」ではなく「疑う余地がある」かを検討
 ・感覚について
・感覚によって知られることがら(音や色など)は、われわれにとって最も確実なものであるかに見える
  ・しかし、夢を見ているときは、この上なくリアルな感覚がありながら、それが現実ではない
  ・それが夢であることに気づくのは目覚めてから
  ・いま現にこの上なく確かと思われる現在の知覚もすべて夢かもしれない
  ・すべてが夢であることもありうるので、生まれてから現在に至る自分の記憶や経験、名前、身体も夢かもしれない
  ・次の瞬間に目が覚めたら、違う惑星の生物かもしれない
 ・数学的知識はどうか?
  ・数学は夢の中でも真理を変えない
  ・「3+5=8」は夢の中でも「3+5=8」
  ・だが、われわれは計算間違いを犯す
  ・「3+5=7」と計算しても、その最中には気づかないが、後になってはじめてそれが間違いと気づく(覚醒の事後性)
  ・その点で、計算間違いは夢に似ている
  ・さらに、われわれが計算や証明をするたびに、気づくことなく計算間違いをさせる「悪意の魔人」がいないとは言い切れない
  ・これのやり方はムチャな因縁にも思える
 ・注意すべきは、デカルトの懐疑は、あるものが「疑わしい」かどうかではなく、「疑う余地があるか」どうかを検討するもの
  ・魔人の存在も「疑う余地がある(可能である)」と述べているにすぎない
・「われ思う、ゆえに我あり」
 ・すべては疑いうことができ、確実なものはどこにもない
 ・しかし、そのように疑っているということそれ自体はどうか?
 ・夢かもしれないし、悪意の大魔神に騙されているかもしれないと考えるときわたしは何をしているのか?
  ・疑っている
 ・疑っているかどうか、それを疑えば疑うほど、疑いが繰り返される
 ・疑っていることを疑いによって否定することは不可能
 ・疑うこと=わたしが考えていることは不可疑
 ・ゆえに、わたしが考えていることは確かであり、そのように考えているわたしは存在する
  ・「コギト・エルゴ・スム」(われ思う、ゆえに我あり)
(「確実なわたし」)

『哲学マップ』からです。

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