見出し画像

観察日記1420

観察日記1420
おはようようございます?
『〈現実〉とは何か』をまとめ中です✋

■置き換え可能性と倫理
・「殺すな」という倫理的命令
 ・「殺人をしてはいけない」は一種の置き換えかの普遍性に関係しているように思われる
  ・その「普遍性」の捉え方には注意
  ・「もし殺人をしてもよいということになると、全面的な殺し合いになる」という理由から発生?
  ・「社会規範」のレベルの理由づけとしてはその通り
   ・社会規範では、社会全体や人類全体が思い浮かべられている
  ・しかし、「倫理的命令」を根拠づけているわけではない
   ・倫理的命令では、人類全体を思い浮かべて殺人の帰結を計算しているわけではない
 ・「普遍的」と「個体的」とを対立的に捉えているかぎり、倫理的命令の性格を捉えることはできない
  ・私と他人という主体の複数性が、個を寄せ集めてた集合として捉えられているのではない
  ・私と他人の「置き換え可能性」が、ここで問題になっている「普遍性」を意味する
   ・「この私」がいて、はじめて他人との置き換え可能性が問題になる
   ・「目の前の他人」も、置き換え可能性ゆえに「殺してはならない他人」として出会われている
  ・この意味で、他人を殺すことは、自分を殺すことに等しい
 ・「自分が殺されたくないから他人も殺さない」ということなのか?
  ・この考え方は、「自分」というものを大事にするがゆえに、自分の生命を保全する必要があり、それゆえ他人から殺されるリスクリスクを減少させるために、他人を殺さない、と言う意味にも読める
   ・これは「置き換え可能性」とは正反対の考え
    ・自分という個人を固定的に捉え、その固定的な対象を保存していこうとするような考え方
  ・この命題を自分と他人の「置き換え可能性」を表現したものとして解釈してみる
   ・ 自分を他人の「置き換え」として捉えると、「置き換え」を通じて他人でもあるような自分(他人)は、決して殺されたくないということになる
   ・「自分が殺されたくない」という思いを個体的/事実的に生き抜いているということが、「置き換え」を通じて普遍的な倫理的命令につながっている
   ・「殺されたくない」という思いをまったく持たない第三者(機械?)にとっては「置き換え可能性」は成り立たない
   ・ここでの「置き換え可能性」が成り立つには、「殺されたくない」という個人的な事実が不可欠
    ・目の前の他人と、そして考えられうるすべての他人と置き換え可能な仕方で捉えられている
   ・個体的なあり方と、置き換えの普遍性は表裏一体
(「私」-「自己」の問題)

今日は久々に朝起きてモーニングページを書き、そのまま朝食を食べて仕事に出て、日記の投稿のことが頭からすっぽり抜けていたポンコツです\(^o^)/

#実験 #観察 #日記 #読書 #自然 #教育 #子育て #学校 #遊び #学び #勉強 #人間 #哲学 #科学 #常識 #思い込み #自由 #責任 #現実 #バイク #旅 #ぽんマス自省録 #ゆっくり考える #たたき台


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?