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「ねぇ、天才って一体なんだと思う?」
「ん? 急にどした」
運ばれてきたぶどうジュースを嬉しそうに飲んでいる瀬奈が、きょとんとした顔でこちらを見た。
「実は最近こんなものを書いているんだけどさ」
丁寧にクリアファイルに入れてきた原稿用紙を、重厚だけど優しさも感じる、切り出された木のテーブルに置く。
「おー、もしかして小説書いてるの?」
「うん、よくわかったね」
「だって夕香、本読むの好きでしょ」
「まぁね、一応……。 で、だけどこれ、まだ数千字しか書いていないし、タイトルも何も決めてないんだ。どこかの誰かに渡すわけでもないし。でも、なんか書き始めたらやめることができなくなってなんか少しづつ書いてる」
自分でもなんでこの話をし始めたのかわからないけど、気がつけば喋り始めていた。
「不思議な夢を見たんだ。『君たちだけの素晴らしい物語を紡いでいってくれ』って、一冊の本を渡された。その本の内容はわからないんだけど、本だったってことは、何かを書けばいいのかなと思って」
「夢かー、不思議なお話だ。それで実際に書き始めるのも夕香らしいね」
「まぁ、わたしらしいか…… なんか恥ずかしいけど……! ええと、それでさ、物語を書くなんてやったことがないから、とりあえず好きなものについて書いてみたんだ。本を渡してきた人も『君の大好きなものを』って言ってたし。文章のつながりもよくわからないし全然上手く書けていないんだけど、でも続けてる」
瀬奈が続けて、と表情で促す。
「この文章を書いているうちに、言葉たちがわたしをどこか知らないところへ連れていってくれるんじゃないかな、なんて思って。わたしも知らないわたしを、見つけてくれるんじゃないかなって」
「……ねえ、すっごく素敵だね、それ」
「え、ほんとに?」
「うん、とってもいいと思う。私、夕香がつくるその世界を見てみたい。どんなわくわくするものが待っているのか、その終わりには何があるのか、知りたい」
「……ではこれを……」
どきどきしながら原稿を渡した。その数分はこれまでに経験したことがないほど長く感じて。額には汗が滲み、前髪がやや崩れたけどそんなことを気にする余裕はなかった。
「ど、どうだった?」
「夕香、こんなこと考えてたんだ…… うーん、なんか、すごい、ね。なんだろな、闇? というか、ダークサイド? ものすごく重いというか、私にはちょっと難しいというか、なんか、ごめん。思ってたのと違いすぎて。あ、いい意味で、ね」
「あ、謝らなくていいよ、わたしの方こそなんかごめん、変なもの読ませちゃって」
以前と同じ光景で、いつのまにか瀬奈のぶどうジュースは、底にわずかに溜まるそれと氷だけになっていた。浮力を失ったストローはおとなしくしている。
「いや、変じゃないよ。うん、だいじょぶ」
すっかり役目を終えたと思っていたストローは少し驚いたそぶりをしながら、ほとんどないそれをズゾゾ、と吸い上げた。ちょっと大きな音が鳴ってしまったことに少しだけ顔を赤めながら、瀬奈が言う。
「でもさ、これは本当に夕香が描きたかった世界なの? その、夢で見たっていう人は、大好きな世界を、って言ってたんでしょ?」
「うん……。そうなんだけど、こんなものしか思いつかなかったんだ。なんかさ、もっとこう、明るくて楽しくて、嬉しくなるようなものを書きたかったんだけど、なんか、こうなっちゃった、あーあ……」
「なるほどなるほど、まぁ、ね。やっぱりいきなり何かを書くっていうのは難しいよね、でも、すごいと思う。私なんて何も書けないから」
「ありがとう、でも、やっぱりわたしは才能がないのかもしれないなー、あー、天才がうらやましいよ」
机に突っ伏して、見上げる。自然上目遣いになり、目が合った瀬奈が少し慌てたような顔をしてすぐ目を逸らしたのが気になったけれど、それよりもわたしは自分がこれを上手く書き切ることができなかったことが悔しくて、そしてそこまでの感情になっている自分に驚いていた。今までこんな気持ちになったことはなかったから。何かで失敗して嫌だな、とか、大きなことに挑戦するなんか、したことがなかったからなのかな。しかも気がついた時には、確かに瀬奈の言う通り暗いストーリーになってしまっていたし。