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幸せになりたい。今日の写真はにんじんパン。

幸せの形は個人個人で異なるのです。わたしの幸せ、あなたの幸せは同じようで同じでないのです。あなたが幸せだとわたしも幸せに感じるということは、幸せは伝わるのです。

悲しみも同じです。あなたが悲しんでいたらわたしも悲しいのです。
苦しみも、怒りも、愛する気持ちも伝わってくるのです。

苦しいことや悲しいことの先には怒りがあります。
その先の幸せは怒りに隠れて見えないのです。

感情を論理的に伝えるのが文学であり、芸術だと思うのです。

初めて自分の意思で言葉を発して自分の気持ちが伝わったと感じた時に、知性と感情と身体が融合して嬉しいと感動するのです。

同じように文章を書いて、絵やイラストを描いて、又感動した風景、景色を写して、自分の気持ちが伝わったと感じることができた時に嬉しいと思うのです。

楽しいのはそのような自分の気持ちを伝える手段がわかって創作活動をしている時です。自分が感動した事実を伝えても感動は通じません。感動を伝えるには相手を感動させなければいけないのです。

例えば、「わたしがあなたを幸せにします」と伝えても幸せは伝わらないのですが、「わたしはあなたの幸せを願っています」と言えば願っているのはわたしで「幸せを願っている」という事実が伝わるのです。

あなたの幸せのためにわたしは身を引きます。
わたしの不幸があなたに伝わってあなたを不幸にするから身を引くのです。
親の呪縛、地域の呪縛、社会の呪縛に巻き込まないために孤独になるのです。

家族の呪縛とは、家族という関係性によって、自分の意思や感情を抑圧させられる状態を指します。家族は、私たちにとって最も身近な存在であり、私たちの人生に大きな影響を与えます。しかし、家族の期待や要求に応えるために、自分の人生を犠牲にしてしまう人もいます。家族の呪縛に縛られている人は、自分の本当の自分を表現することができず、生きづらさを感じています。

家族の呪縛は、さまざまな要因によって引き起こされます。例えば、家族が虐待的であったり、支配的であったりすると、家族の呪縛に陥る可能性があります。また、家族が経済的に困窮していたり、精神疾患を患っていたりする場合も、家族の呪縛に陥る可能性があります。

家族の呪縛に陥ると、さまざまな問題が生じます。例えば、自分の人生を自由に生きることができない、自分の感情を抑圧する、精神的な問題を抱える、などです。家族の呪縛に陥っている場合は、一人で悩まずに、専門家の助けを求めることが大切です。

家族の呪縛から解放されるためには、自分の意思や感情を大切にすることが大切です。自分の人生を自由に生きることを恐れず、自分の幸せを追求することが大切です。

地域の呪縛とは、ある地域が抱える課題や問題が、その地域を成長させることができず、むしろ停滞させる原因となることを指す言葉です。具体的には、以下のようなものが挙げられます。

  • 少子高齢化

  • 人口減少

  • 産業の空洞化

  • 自然災害のリスク

  • 交通の不便さ

  • 治安の悪さ

これらの課題や問題は、企業や個人がその地域に移住したり、投資したりすることを難しくさせます。そのため、地域の経済成長が鈍化し、さらに課題や問題が深刻化するという悪循環に陥ることがあります。

地域の呪縛を解くためには、これらの課題や問題を解決し、地域の魅力を高めることが重要です。そのためには、地域の住民や企業が協力して、地域の将来について話し合い、解決策を模索していく必要があります。

社会の呪縛とは、社会が私たちに課す制約や束縛のことです。私たちは、社会の期待や規範に縛られて、自分の思うように自由に生きることができないことがあります。例えば、私たちは、社会から「良い子」でなければならないとか、「勉強を頑張らなければならない」とか、「お金持ちでなければならない」といった期待をされています。これらの期待に応えるために、私たちは、自分の本当の思いや欲求を抑え込んで、社会の規範に沿った生き方をしてしまうことがあります。これが、社会の呪縛です。

社会の呪縛は、私たちの人生に大きな影響を与えます。私たちが自分の本当の思いや欲求を抑え込んで生きていると、生きづらさや息苦しさを感じるようになってしまいます。また、社会の呪縛に縛られていると、自分の可能性を最大限に活かすことができなくなってしまいます。

社会の呪縛から解放されるためには、まず、社会から課せられている制約や束縛に気づく必要があります。そして、自分が本当に大切にしているもの、自分が本当にやりたいことを明確にする必要があります。自分の価値観や信念を明確にすることで、社会の呪縛に負けずに、自分の思うように自由に生きることができるようになります。

幸せになるには、他人の期待に応える力が必要です。自分にその力がない時に他人に期待をするのです。「わたしはあなたの幸せを願っているのだから幸せになってください」と自分の夢を他人に託すのです。

自分が応援する側に回ることで自分の力を使わずに他人の力を利用する事にならないでしょうか?

援助、援軍、応援、助成、助けるは、自分の力不足を他人の力を使って達成させているだけで褒められたことでは無いように思えてきたのです。

半分、援助しますと援助するのは受ける側から見ると半分の負担で済んだと思い、援助した側も半分の負担で住んだと思うのでしょうか?

半分の負担をした側は、条件をつけないでしょうか?
半分の援助を受ける側は残り半分の負担をどのようにして準備したのでしょうか?

本当に困っている人を助ける手段では無いように思うのです。本当の応援、援助は、経済と精神のバランスをとることだと思うのです。足らない分を補うのです。100%足りないのなら100パーセント援助して応援するのです。

足らない部分を知らなければ援助はできないのですが、それを知ろうとはせずに援助することが先にあるのはおかしなことです。

幸せになりたいけれど、幸せの正体をわたしは知りません。

#たぬきのポッさん #エッセイ #スキしてみて


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