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魔法少女の系譜、その129~『王家の紋章』と口承文芸~


 今回も、前回に続き、『王家の紋章』を取り上げます。伝統的な口承文芸と、『王家の紋章』と、比較してみます。

 ここまで、『王家の紋章』について書いてきたことで、この作品の構造が、だいぶわかってきましたね。長大な作品だけあって、多くの要素があります。それが、四十年以上もの間、読者を惹きつけてきた理由でしょう。
 『王家の紋章』は、時間旅行ものであり、歴史ものであり、恋愛ものであり、冒険ものであり、おおぜいの王族が登場するきらびやかな宮廷ものであり、そこに多くの思惑が交錯する宮廷陰謀ものであり、メンフィスを中心にしたハーレムものであり、キャロルを中心にした逆ハーレムものでもあります。そして、魔法少女ものでもあり、アイシスを中心にした「悪役令嬢」ものでもあります。

 これほど多くの要素を詰め込んだ作品は、一般的な口承文芸とは、比べものになりません。比べられるとすれば、叙事詩ですね。古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』や『オデュッセイアー』、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』といった大物口承文芸でないと、比較対象になりません。
 とはいえ、叙事詩クラスになると、比較すべき要素が多過ぎて、いちいち比較していられません。膨大な時間をかけて、細かく比較をするのは、あまり意味がないと思います。

 あえて、大ざっぱに比較するならば、『王家の紋章』は、古代の叙事詩の中では、『ラーマーヤナ』に似ています。『ラーマーヤナ』も、運命的に結ばれた男女が中心の話で、しかも、中心人物が王族だからです。『ラーマーヤナ』が成立したのは、紀元三世紀くらいとされるので、今から千八百年くらい昔に作られた話です。

 『ラーマーヤナ』の主人公は、古代インドのコーサラ国の王子、ラーマです。彼は、同じ古代インドのミティラー国の王の娘、シーターを見染めて、結婚します。
 コーサラ国の宮廷でいざこざがあって、ラーマとシーターと、ラーマの異母兄弟であるラクシュマナとが、そろって宮廷を出ます。彼らは、森で暮らし始めます。
 森で起こった出来事のために、ラークシャサ(羅刹)の王ラーヴァナが、ラーマに恨みを抱きます。復讐のため、ラーヴァナは、シーターをさらって、自分の居城がある島、ランカーへと連れ去ります。
 ラーマとラクシュマナは、さまざまな助力を得て、ラーヴァナに対して戦争を仕掛けます。シーターを奪還するためです。大戦争になりましたが、ラーマ側が勝ち、ラーマはシーターを連れ戻して、宮廷へ凱旋します。
 ここで終わればハッピーエンドなのですが、『ラーマーヤナ』には、まだ、続きがあります。

 ラーマは、ラーヴァナのもとに囚われていたシーターの貞潔を疑って、彼女を追放してしまいます。シーターは、聖者のもとへ身を寄せ、そこでラーマの子クシャとラヴァとを産みます(双子なんですね)。そののち、シーターの貞潔が証明されますが、シーターは大地の中に呑みこまれ、戻ってきませんでした。ラーマは嘆き悲しみ、後妻を迎えないまま世を去ります。

 ヒロインがさらわれるところや、主人公が武力に優れているところ、ヒーローとヒロインとが結婚するまでより、結婚してからのほうが苦難が多いところなどが、『王家の紋章』と共通しますね。王族の男性が、運命的に女性と結ばれるところは、もちろん、同じです。
 ヒロインのシーター視点で見ると、ラーマとラクシュマナという「いい男」二人に囲まれ、そのうえにラーヴァナにさらわれて、「逆ハーレム」構造になっているところも、キャロルと似ています。約千八百年も前から、逆ハーレムという仕組みがあったんですね。
 逆ハーレムでも、シーター自身は、決してラーマ以外の男に心を動かさないのも、キャロルと同じです。ラーマのほうも、メンフィスと同じく、シーター以外の女性には、まるで目を向けません。
 このあたりは、本当に古代からある要素です。ということは、人類が普遍的に「面白い」と感じる要素なのでしょう。

 『ラーマーヤナ』も長大な叙事詩なので、たくさんの要素が詰め込まれています。古代の叙事詩ながら、二〇二〇年の今、読んでも、面白いです(^^) 描写がくどくて、だれる部分はありますが(^^;

 『王家の紋章』を『ラーマーヤナ』と比べると、メンフィスがキャロルと結婚するまでにも、だいぶ苦労がありますね。『ラーマーヤナ』では、ラーマとシーターとの結婚は、結婚するまでは、スムーズに進みます。
 さらに、キャロルは現代の米国人で、古代エジプトの王族とは、本来、縁もゆかりもない「平民」です。『ラーマーヤナ』のシーターは、ラーマと同じ古代インドの王族です。時代も場所も身分も隔たった二人が結びつくほうが、劇的ですね。
 むろん、『ラーマーヤナ』には、タイムスリップという要素や、「現代の知識を古代で使う」といった要素は、ありません。このあたりは、科学が発達した現代でなければ、入れられない要素です。時代が進んだぶん、物語を面白くできる要素が、増えました(^^)

 キャロルが、一回ではなく、二十回ほどもさらわれたり、イズミルなど、複数の他国の王族に思いを寄せられ、求愛されたりするところも、『ラーマーヤナ』とは、違います。
 たぶん、これは、古代インドの「貞操」概念が、現代とは違うことから、来ているのでしょう。

 『ラーマーヤナ』のあらすじを見ればわかるとおり、ラーマは、一回、ラーヴァナにさらわれただけのシーターの貞潔を疑って、宮廷から追い出すことまでしています。すごく厳しい「貞操」概念があったのですね。叙事詩のヒロインになるような、高貴で善良な女性は、厳しい「貞操」概念に合致する人でなければなりませんでした。
 古代インド的「貞操」概念を追求すれば、二十回もさらわれたり、他の男に求愛されたりしているキャロルは、不倫をしたと見なされて、メンフィスに殺されてもおかしくありません。むしろ、殺されるべきだといわれるでしょう(^^;
 さすがに、それは、現代日本の感性とは、合いませんね。何回さらわれようと、他の男に求愛されようと、メンフィスはキャロルを信じて、愛し続けます。現代日本のロマンティックな神話といえます。

 現代日本には、古代インドのような厳しい「貞操」概念は、ありません。あったら、キャロルが何回もさらわれるといった危機は、物語に作れません。ヒロインの危機があるから、話が盛り上がるんですよね(^^)
 タイムスリップして時代が隔てられようと、他の男に求愛されて不倫と疑わしいことがあろうと、運命的に結びついたキャロルとメンフィスとの絆は、揺るぎません。これは、『王家の紋章』における絶対正義です。

 じつは、『ラーマーヤナ』には、現代日本の物語と比べて、非常に興味深い要素があります。「悪役令嬢」の原型となりそうな人物が、登場するのです。
 それは、コーサラ国の宮廷にいる妃の一人、カイケーイーです。ラーマの父親であるダシャラタ王の妾妃の一人です。ラーマから見れば、義理の母と言える立場の人です。ラーマを産んだ母親は、ダシャラタ王の第一王妃のカウサリヤーです。

 カイケーイーは、もとは、善良な人でした。自分が産んだのではない義理の子、ラーマが立派に成長したことを、喜びます。ところが、性悪な侍女のマンタラーにそそのかされて、ラーマに不信感を抱くようになります。ダシャラタ王に願って、ラーマを森に追放させてしまいます。
 人望あついラーマに対して、ひどい仕打ちをしたことで、カイケーイーは、王国の人々から恨みを買います。彼女自身が産んだ息子、バラタさえ、彼女を非難します。
 高貴な女性で、最初は善良だったのに、国の人々からも不評を買うほどになってしまった点が、アイシスと似ていますね。約千八百年も前に、「悪役令嬢」の種子がありました。

 ただ、カイケーイーを「悪役令嬢」だとすると、現代日本の作品とは、大きく違う点が、二つあります。
 一つは、「令嬢」ではなく、「令夫人」であることです。つまり、未婚の娘ではなく、既婚女性であることです。
 もう一つは、恋敵であるカウサリヤーを、直接いじめるのではなく、彼女の息子のラーマに対して、ひどい仕打ちをすることです。

 これらは、やはり、古代インドの社会と、現代日本の社会との違いを、反映しているのでしょう。
 古代インドでは、「高貴な身分の未婚の女性が、自分の意思で気軽に外を出歩く」などということは、できませんでした。行動範囲がひどく狭かったのですね。そのうえ、自分の意思で結婚相手を決めることも、できませんでした。結婚とは、すべからく、親が決める政略結婚でした。それが、倫理的に正しい結婚でした。
 こんな状態では、「高貴な身分の未婚の女性同士が、結婚したい男性をめぐって、恋のさや当て」なんて、できようがありません。
 その代わり、高貴な身分の男性が、一夫多妻であることで、同じ男性を夫に持つ女性が、多数、存在することになります。妻同士の間で、「夫の愛の奪い合い」は、大いに起こり得ます。

 カイケーイーが、カウサリヤーをいじめるのではなくて、彼女の息子のラーマを標的にするのは、自分が産んだ息子のバラタを、ラーマに代わって、王位に就けるためです。
 古代インドの既婚女性にとって、最高の栄誉は、自分が産んだ息子が出世することでした。ですから、貶【おとし】めたい既婚女性がいるならば、彼女の息子を貶めることが、彼女自身をも、最も貶めることになります。カイケーイーは、最も効果的な手を使ったのでした。

 古代インドに限らず、古代の世界では、高貴な男性が一夫多妻を採用するのが、常識でした。古代エジプトでも、古代ヨーロッパでも、古代中国でも、古代日本でも、そうですね。
 そうなると、妻同士での夫の愛の奪い合いという現象が、おそらく、頻繁に起こったでしょう。「高貴な男性の妻同士の争い」は、口承文芸や、古い創作文芸の中に、よく登場します。

 例えば、日本の文芸では、『源氏物語』が、その様子を活写していますね。
 主人公、光源氏の母親の桐壺更衣【きりつぼのこうい】は、身分は低い女性でしたが、時の帝【みかど】に、とても愛されていました。桐壺が産んだ息子、光源氏も、帝はかわいがります。
 それがゆえに、桐壺は、他の妃たちから嫉妬され、いじめられます。特に激しかったのは、弘徽殿女御【こきでんのにょうご】と呼ばれる妃でした。
 桐壺が亡くなった後も、弘徽殿女御は、宮廷で権勢をふるい、何かと光源氏の邪魔をします。

 弘徽殿女御は、桐壺更衣と違って、実家が名門です。これは、平安時代には、絶対的に有利なことです。これだけで、人生チートです(笑) 
 加えて、彼女自身も息子を産んで、のちに、その息子が、帝(朱雀帝)になります。弘徽殿女御は、弘徽殿大后【こきでんのおおきさき】―大后=皇太后―となり、国母として、絶大な権力を持つことになります。
 弘徽殿女御も、桐壺が産んだ息子、光源氏を、自分の産んだ息子のライバルと見なしていました。彼女は、桐壺自身もいじめますが、桐壺が死んだ後も、のちのちまで、光源氏を目の敵にします。それは、光源氏を排除して、自分の息子を、帝位に就けたいからです。カイケーイーと共通しますね。

 弘徽殿女御は、日本における「悪役令嬢」(悪役令夫人)の原型かも知れません。名門の出身で、いち早く帝に輿入れし、誰もが正妃になるだろうと目していたのに、身分の低い、ぽっと出の桐壺更衣に、帝の寵愛を奪われてしまうのですから。
 でも、『源氏物語』の世界では、悪役の弘徽殿女御のほうが、勝ってしまいます。桐壺は早死にしてしまい、光源氏は臣籍降下して、帝位に就ける身分ではなくなります。

 現代日本では、一夫多妻という制度はなくなりました。加えて、未婚女性が、自由に恋をし、自分の結婚相手を、自分で選べる社会になりました。
 これにともなって、「悪役令夫人」が、「悪役令嬢」に変化したのでしょう。

 『ラーマーヤナ』に話を戻しますと。
 『ラーマーヤナ』では、悪役として、カイケーイーが重要な役割を果たします。とはいえ、『ラーマーヤナ』での主な悪役は、圧倒的に、ラークシャサの王ラーヴァナです。ラーヴァナが強烈すぎるので、彼の前には、カイケーイーなど、霞んでしまいます。

 悪役令嬢つながりで言いますと。
 『王家の紋章』のアイシスは、ヨーロッパの伝承によく登場する、悪役の魔女を思わせますね。魔術の達人である点など、魔女そのものです。『ラーマーヤナ』には、魔女的な存在は、登場しません。
 ただし、アイシスは、ヨーロッパの民話によくいる、単純な悪役の魔女ではありませんね。魔術の達人であっても、普段から魔術を悪いことに使って、古代エジプトの民を苦しめたりはしませんでした。王族の女性であり、神殿の祭司として、むしろ尊敬される女性でした。
 やむにやまれず、キャロルを古代エジプトへ連れてきてしまったことで、彼女の運命は狂い始めます。アイシスが極端な行動をするのは、メンフィスの愛を得たいがため、ただそれだけです。

 アイシスは、ヨーロッパの一般的な民話の魔女よりも、もっと大物感があります。インドネシアの古い口承文芸に登場する「魔女」を思わせます。

 長くなってしまったので、今回は、ここまでとします。
 次回も、『王家の紋章』を取り上げます。



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