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堀江敏幸さんの『雪沼とその周辺』を読んで、この物語が「朽ちていく世界」から逃げ出してしまった僕の気持ちを静かに揺さぶるのは何故だろうと考えた。

僕がまだ書店員だった頃、売れた本のスリップを一枚一枚、じっくり見るのが好きだった。

スリップというのは、販売前の本に挟まっている短冊のことで、当時僕が勤めていた書店は販売時にレジでそれを抜き取り、売場ごとに分けて、それを売場担当者が確認して発注するという流れだった。

まだパソコンによる管理が浸透していない時代だったから、何が何冊入荷したかをノートに記入し、スリップを数えて販売数を把握し、そのスリップに番線印と呼ばれるハンコを押して送付することで注文書の代わりとしていた。

やがてPOSシステムの普及とともに、販売データはスリップを確認しなくても、画面上から一目で分かるようになり、発注もパソコンの同画面でできるようになり、業界的にも社内的にもスリップの重要性は急速に薄れていった。

それでも、僕は、スリップを一枚一枚、めくりながら、その本が買われた瞬間を想像することをやめられなかった。

たとえばハリーポッターの新刊が1日に500冊売れたとして、その500冊には、それぞれ、それを買った人たちのストーリーがあるわけで、それを想像するのが僕は好きだった。

スリップを眺めるという作業は僕に、「この本はどういう人がどういう理由で買ってくれたんだろう」ということを想像する時間を創ってくれた。

売れた本を確認するだけなら、分析という観点から言えば、スリップを一枚一枚確認するなんて、非効率もいいところだ。

だけど、僕はその非効率な作業が、スリップを一枚一枚めくりながらその本が買われた瞬間を想像することの積み重ねが、書店員としてのセンスと閃きを生むと信じていた。

でも、それは「非科学的」な考えであって、厳しい業界の動向と経営状況の中、「売れる本」しか売場に並べるなと迫ってくる会社からしてみれば、僕の信念なんて「いや、それ、なんか根拠あんの?」くらいの話でしかなかった。

そして、何より、僕を絶望させたのは、会社での僕の立場だったのかもしれない。

売場の担当者だったときは1日に100枚程度だったスリップを、店長になるとすべての売場となるからその10倍以上、さらに店長を兼任しながら7店舗をマネジメントするエリア長となれば…。

なんだかえらそうに「スリップを一枚一枚めくりながらじゃないと見えてこないものがある」なんていいながら、一応はスリップを手に取るけど、あの頃の僕はもはやスリップから何かの物語を読み取ることはとうに放棄してしまっていたのだと思う。

そんな自分に失望し、僕は書店員を辞めてしまったのかもしれない。

そんな「小さなこだわり」さえなければ僕は書店員を続けられていただろうかということを、ふと思った。



堀江敏幸さんの『雪沼とその周辺』を読んだ。

今年最後に読む本はこれと決めていたけど、その選択は間違えてばかりの僕にしては珍しく正しかった。

とにかく、毎日毎日、過剰なまでのインプットとアウトプットの繰り返しで、年末くらいはそれはいったん、フラットな状態にしたいという僕の思いは見事に叶えられた。

ともすれば、僕は「感情を激しくかきみだす」作品ばかりに近づこうとしてしまう。

だけど、本書のような、静かな物語にも、当たり前だが「人間の感情」は蠢いているのだということを再確認した。

本書の舞台となるのは、閉店前日の無人のボウリング場だったり、店主を失ったレストラン兼料理教室だったり、小さな店主が営む小さなレコード店だったりで、そこでは、頑ななまでの「小さなこだわり」を捨てきれない人たちがどう現実と向き合っていくのかが描かれる。

こだわりを捨てきれずに、でも、その「職」にも留まり続ける登場人物たちの姿は、決して僕の「憧れ」にはなりえなかった。

ある意味、ファンタジーじゃないか、と拗ねた気持ちを抱えながら、しかし僕は一方で、この物語が愛しくてたまらない。

おそらく、彼らの「世界」は滅びていく、朽ちていく一方なのだろう。

そして、彼らもまた、それを知りつつ、それでもその「世界」で生きていくことを選ぶ。

雪沼の地では何も起こらないし、何も生まれない。

だけど、いや、だからこそ、この短編集は、「朽ちていく世界」から逃げ出してしまった僕の気持ちを静かに揺さぶるのだろうと、そんなことを思った。



僕が書店員を辞めた理由は、実際はもっと現実的で、もっと打算的なものだ。

スリップの件は「積み重ね」のひとつかもしれないけど、それが理由ではないはずだ。

なのに、なんで本書を読み終えて、冒頭の「物語」が浮かんできたのか、今の僕は説明できずにいる。

何年か前に、ある小説を読んで「僕はなんで書店員を辞めてしまったんだろう」と涙が止まらなかったことがあったんだけど、この作品はそんな感傷を一切抱かせることなく、たけど、それ以上の何かを僕に残してくれたことは確かで、そのことで、まだ二冊しか著作を読んでいないこの堀江敏幸という作家を一気に信頼してしまった。

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