【エッセイ】"子供"が巣立つとき
"わたし"という対象から巣立つとき、"言葉"はすでに一回性を逸している。
史実、ノンフィクション、私が執筆の主にしているエッセイや散文詩すら、一歩外へ飛び出してしまえばある意味でフィクションに変わってしまう。
わたしのなかにある思考や感情を創作に落とし込む際、輪郭のないそれらを「見せる」つもりで書いていても、「魅せて」書かれているように受け取られることの方が多いからだ。
鼻毛が伸びていないかチェックしたり、唇にすべらせたリップが歯についたら綺麗に拭いたりと、出かける前に身なりを整える行為は誰もが経験済みだろう。
こうした影の努力(というか、気配り)も露知らず「あの人はいつ見ても素敵ねー」と完成された表面のみをチラ見するように、作品ないし言葉に触れる層も一定数いるようだ。
これはあくまでもわたしが客観的事実として捉えていることであり、それが良いとか悪いとかの話ではない。むしろ人間のごく自然な姿だとも感じている。
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執筆活動を始める前から、「作品は製作者の子供である」と感じて生きてきた。
これまで愛してきた映像作品や物語の制作背景を知ったこと、敬愛するアーティストが産みの苦しみに悶えながらも作品に生命を吹き込むシーンを目にしたことがきっかけだ。
実際、わたしも言葉を編むにあたり未熟なまま産み落とした"子供"や、息吹を感じさせる間もなく失ってしまった"子供"もいた。
創作においても、決して「かわいい」だけでは"子供"を生み育てられないという、究極の現実を突きつけられたようだった。
それでも、ぼやけた輪郭に陰影を付け、推敲を重ねた末にわたしは何人かの"子供"を生み出してきた。
今こうして紡いでいるこの文章も、数時間後にはわたしの末子として広いインターネットの海へと旅立ってゆく。
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誰かにとって、"子供"は音楽かもしれない。
世界にひとつだけのドレス、ロケットの部品、新種のコーヒー豆、今を切り取った写真、ケチャップの効いたオムライス……。
色んな"子供"を、誰もが生み出している。
中には実際に親になることを選び、ひとりの人間──子供を育てる者もいることだろう。
わたしにとって生み育て、見返りを求めず愛を与え、ときには言葉や表現を選んで厳しさを諭し、それでも寄り添い背中を押したいと思える対象は、やはり「言葉・文章」だ。
わたしは、「筆を執り、対象から受け取った感情や事象を言葉・文章にしていくひと=執筆家」であることを主として生きてゆきたい。
うまれたての小鹿のように、まだ足元がおぼつかない状態でも、瞬く間に子供たちはひとりでに広い世界へと歩み始めてゆく。
辿り着いた先でどこを切り取られるかを知ることもなく、軽い足取りでたったかたーと進み続ける。
「親」であるわたしは、刻々と迫りゆく子の巣立ちに一抹の寂しさと心配、生み育てることを決意させてくれた事象へのありがたみが入り交じった感情を抱くしかなくとも。
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多様な視点に触れられることを前提として、わたしはわたしの一部を作品にしている。
自分が読者に伝えたい部分ではない部分を切り取られてもどかしい気持ちになったこともあるが、それも含めて作品の一部だと思うことにした。
大変ありがたいことに、わたしが表し伝えたい「輪郭のない思考や感情」を汲み取って、芯の部分を見つめてくださる方も中にはいるようだ。
筆者の意図をひとかけらでも汲んでくれる人がいることは、書き手──親にとってどれほど嬉しく心強いことか。
もうすぐ親元を巣立つ大事な子供が必要なときに必要な方と出逢えるよう、まっすぐな意図が少しでもそのまま誰かに伝わるよう、祈りながら信じて、わたしは旅立ちを見届けることにする。
この生命が果てるまで、わたしは文章を書き続け、完成した作品を大海原へと送り出すことを何度も繰り返すことだろう。
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