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僕の日常は亡き祖父とともに

僕が生まれるよりずっと前、母方の家系は、都会のとても良い場所に二つの土地を持っていたらしい。
じいちゃんの父、つまり僕にとってのひいおじいちゃんが生きていた頃の話だ(ちなみにじいちゃんは養子だった)。
今その土地を買おうとすると、多くの人が手を出せないような、結構な金額になる。

ひいおじいちゃんは、東京で植木職人をやっていた。
会ったことはないけれど、どうやらだらしないところがあったらしい。
お酒で失敗して、二つあった土地のうちの一つを失った。
母から「ここに持ってたのよ」と説明を受けたその場所には、大手企業の立派なオフィスビルが建っている。
その土地を失っていなかったら、母も僕も生まれていなかったかもしれないが、「何してくれてんだ」と思ってしまうような場所だ。

しかし、ひいおじいちゃんの名誉のために言っておく。
ひいおじいちゃんはその土地のそばにある由緒あるお寺に眠っていて、墓地の中でもとても良い場所が与えられている。
植木職人だったひいおじいちゃんが、お客さんだったお寺の住職からとても可愛がられていたからだと言う。
飲兵衛だったけど、仕事自体はとても真面目で、人望があったんだろう(多分)。

ちなみにもう一つの土地は、ひいおじいちゃんが亡くなったタイミングで、じいちゃんが親戚に「あげるよー」と譲ってしまったらしい。
ひいおじいちゃんの失態に引き続き、「何してくれてんだ」案件である。
じいちゃんのお人好し過ぎる性格が目に浮かび、なんとも言えない気持ちになる。

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お人好しのじいちゃんは、とても優しくて、陽気で、愛されている人だった。
記憶を辿ってみても、笑っている顔だけが思い出される。
嫌うような人は滅多にいなかっただろう。僕が物心ついたときには横浜の相鉄沿線沿いの街で一人暮らしをしていたじいちゃんは、ご近所さんにもとても愛されていた。
小さい頃から外見に強いコンプレックスがあって写真に写りたがらなかった僕は、じいちゃんにカメラを向けられた時だけ、自然と笑顔になった。
本人が笑っているだけではなくて、周りの人を笑顔にしていた。

対照的に、怒るのは下手くそだった。
じいちゃんが僕に何かを注意するときは、ふざけてるのか真面目なのかよくわからなくて、いつも笑ってしまう。
小学生の頃、親戚にじいちゃんが説教しているのも見たことがあるけれど、頭に血が昇ってしまっているのか、何を言ってるのかわからなくて、聞いていた家族はみんな困惑していた。
優しすぎて、人に対して厳しい言葉が発せないような人だった。

そんなじいちゃんだけど、頑固ジジイなところもあった。
晩年は、脚を悪くしてしまって、一人暮らしが難しくなった。駅からバスに乗らないといけない、お年寄りが一人で住むには不便な場所に住んでいたからだ。
東京からも結構距離が離れた街だったので、母が生活を助けようにも難しい部分があり、我が家の悩みの種になっていた。
何度か家に連れてきたこともあったし、東京の施設を見学に行ったこともあったけれど、じいちゃんは引っ越すことに対して首を縦に振らなかった。
近所に好くしてくれる人がたくさんいるから大丈夫だと譲らないのだ。

この件で、僕は一度じいちゃんと電話で言い争った。
母が電話で何度も説得しても埒が明かない様子を見かねて、ある日僕は電話を変わってもらった。
開口一番、じいちゃんは今まで聞いたことのない暗いトーンで「俺の人生なんだよ、太」と言った。
母が何度も説得していた内容を、改めて自分の口から説明しても一向に態度が変わらないのに痺れを切らした僕は、思わずじいちゃんのことを「あんた」呼ばわりした。
21歳そこそこのくせに、年長者に対して生意気なガキである。

「人に迷惑かけてることわかんないのか、あんた」
「おい、太。太にあんた呼ばわりされる覚えはないぞ」

もうここからは平行線だった。
じいちゃんはあんた呼ばわりされたことにこだわって、当初の話に戻そうと思っても、戻すことはできなかった。
頭に血が昇りきった僕は、「あんたなんか大嫌いだ!」と最低な捨て台詞を吐いて、母に受話器を戻した。

その後、僕からじいちゃんに電話することもや会いに行くこともしなくなり、じいちゃんからもそのときのことを咎めたり詫びたりするような申し出もなかった。

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次に会って会話をしたのは、それから二年ほど経ってからのことだ。
脚だけではなくて、肺も悪くしてしまったじいちゃんは一人で暮らすことが困難になり、母が面倒を見に行ける東京の施設に入居していた。
言い争ったとき大学生だった僕は社会人になり、転勤で東京を離れていた。

施設で再会すると、じいちゃんは電話越しの喧嘩なんてなかったかのように、僕の顔を見れたことを喜んでいた。
しかし、もうそのときには会話をするのが辛そうな状態だった。
会わなかった時間の長さを痛感しながらも、ゆっくりと、少しずつ、僕は昔会っていた時みたいに近況報告を始めた。
じいちゃんは嬉しそうに聞いてくれて、少しずつ自分の話もしてくれた。

僕が当時住んでいた県に、昔じいちゃんは仕事で行ったことがあると言う。
台風で大きな被害を受けた地域の応援に駆けつけたらしい。
その時、僕はじいちゃんがどんな仕事をやっていたのか、またじいちゃん自身がそもそもどんなことを経験してきたか、あまり知らないことに気付いた。
太平洋戦争の話とか、若い人に受け継ぐべきことは教えてくれていたけれど、じいちゃん自身の個人的な話はほとんど聞いてこなかった。
社会人になって悩みまくっていた自分にとって、ためになる話もあっただろうにと、もっと話を聞いてこなかったことをその場で後悔した。
今まで、じいちゃんは僕の話ばかり聞いてくれていたのだ。

話の流れで、「今どんな仕事やってるんだ?」とも聞かれる。当時自分の仕事内容が不服だった僕は少し躊躇ったけれど、「総務とか、経理やってるよ」と答えた。就職が決まった時に、「イベントの企画とかをするんだよ」って伝えていたから、がっかりさせてしまうかもと卑屈な思いになりながら。
希望してなかった仕事でさ、と添えようすると、じいちゃんは目を輝かせていた。
「太、すごいなあ。偉いなあ」
とても嬉しそうにする様子を見て、それ以上は言わなかった。
僕が帰った後、母にも「経理やってるんだなあ。偉くなるぞ太は」と言っていたらしい。
働いていた時にじいちゃんが大切にしていたこと、考えていたことが垣間見えた気がして、僕の後悔は重なった。
この歳になったからこそ、もっともっとじいちゃんと話す時間が欲しかった。
そしてこの日が、僕が生きているじいちゃんと会って話した最後の日だった。

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6年前に亡くなったじいちゃんは、ひいおじいちゃんとともに、前述した都会の由緒あるお寺の中で、眠っている。
今年の5月、じいちゃんは七回忌を迎えた。

僕は法事がなんだか苦手だ。
故人への思いを馳せる場所なのに、いつもなんだかよくわからない気分のまま終わってしまう。
朝から緊張するし、喪服を着ていると窮屈で息苦しい。
どういう表情をしたら良いのかわからなくなって、お経を聞いている間はいつも姿勢がしっくりこない。なんか腰痛えなあ、と変な表情をしている。今年はマスクで隠れていてよかった。

ちなみに、ひいおじいちゃんを可愛がっていたお寺の住職の、孫に当たる人が現住職である。
この現住職が、結構な曲者というか、なんか適当な人なのだ。
会うたびに「この寺、大丈夫か?」という気分になる。

いつも気遣いの言葉より先に「先払いでお願いします!」とかお金の事ばかりを口にする。
その時点で不信感が募るし、お経もかなり胡散臭く聴こえる。
他のお寺と比べてふにゃふにゃもごもご言っていて、わかる人が検証したら適当なことを言ってる気さえしてくる。
さらに鼻をしょっちゅうずるずるしていてうるさいから、木魚を叩く棒を借りて頭叩いて「いいから鼻をかんでからお経読めよ坊主」と言ってやろうかと思ったことも二度や三度ではない(失礼)。
じいちゃんの戒名も、「陽気な人で、、」と説明したら、そのまんま「陽気」という言葉が使われた。なんか、適当じゃない?

そういう現住職に対して僕の家族は大いに不満を持っているものの、物申すことができたことはなく、いつも丁重に接している。
そこはじいちゃん譲りで、理路整然と人に怒るのが苦手なのである。

今年も相変わらず鼻をずるずるする音が気になる住職の様子を観察し、タイミングを間違えて焼香に行った母に「何やってんの」とか、腰痛えとか思っていたら、いつの間にかお経の時間は終わっていた。

お寺を出てお墓に向かうために外に出ると、雨が降っていた。
雨に打たれながらせっせと掃除し、お線香に火を点け、お供え物をして、手を合わせる。
そそくさと傘を取り出してお墓を後にしたとき、「あ、もっとちゃんと近況報告すればよかったな」とふと思う。
しかし、母が近所の公園にあった珍しいオブジェに夢中になって写真を撮っているのを眺めていると、そんなことも忘れてしまった。

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法事が不完全燃焼に終わってしまう僕に取って、じいちゃんのことをゆっくり考えられるのは、どんな瞬間だろうと考えると、実は日常のふとした瞬間がきっかけだったりする。

季節が変わり、スーパーの野菜売り場で枝豆を見つけたとき。
アマゾンプライムで観る映画を探しているときに、「男はつらいよ」が目に入ったとき。
出張で移動する途中、上野駅で乗り換えをしたとき。

じいちゃんの大好物や好きだったもの、よく一緒に行った場所に触れたとき、たびたびじいちゃんの顔が浮かぶ。

この前の土曜、サッカーを観に行くために横浜駅西口に降り立ったとき、じいちゃんに回転寿司へ連れて行ってもらったことを思い出した。高い皿を頼んで、「おじいちゃんお金ないからダメ!」と、理不尽に姉に怒られたのも一緒に。
おじいちゃん、あの時どんな顔してたっけ。
孫にお金ないって言われるの、なんとも言えなかっただろうな。

横浜でじいちゃんのことを思い出したのは、先週に限ったことではない。
行くたびに、いつもである。
畏まった場でどうしたら良いのかわからないまま過ごしてしまう僕にとって、ちゃんと故人を偲べるのは、そういう日常の隙間なのだ。
生活をしているいろんな場所で、じいちゃんは僕のそばに居てくれている、ということでもあるのかな。

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いまは、移動が制限されて里帰りもしづらいこともあって、亡くなった大切な人に会いに行けないという人が多いと聞く。死に目に会えない、そんなこともある。
大切な人と向き合う場が持てない、不可抗力な状況に置かれていても、僕たちは目の前にある自分の日常を生きていかないといけない。

その日常の中で大切な人を思い出す瞬間を、今は大事にするしかないのかもしれない。
思い出すということは、きっとそばに居てくれているということだ。
そう思えば、少しだけ気分が晴れてくる気がする。

そして、いつか御墓参りに行けた時には、「いつもありがとう、今はこんなことしてるよ」と、ゆっくりじっくり時間をかけて伝えるのだ。
僕も、法事でなくて御墓参りであれば、もう少し心を落ち着かせて、ゆっくり話せそうだ。
じいちゃんは、きっと僕の日常にこれから先もずっと寄り添い続けてくれる。思い出すたび、その瞬間を大切にしよう。

しかし、日常をともにする存在だからこそ、時には非難めいたことを思ってしまうこともある。
ひいおじいちゃんとじいちゃんが失った土地の地名を見るたびに、「何してくれてんだ」と、僕は口を尖らせる。

スピカ / スピッツ

<太・プロフィール> Twitterアカウント:@YFTheater
▽東京生まれ東京育ち。
▽小学校から高校まで公立育ち、サッカーをしながら平凡に過ごす。
▽文学好きの両親の影響で小説を読み漁り、大学時代はライブハウスや映画館で多くの時間を過ごす。
▽新卒で地方勤務、ベンチャー企業への転職失敗を経て、今は広告制作会社勤務。
▽週末に横浜F・マリノスの試合を観に行くことが生きがい。


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