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幻の焼き物「古高取焼」とは?福岡藩黒田官兵衛・黒田長政が手掛けた「古高取焼」の謎を解明し、名品を発掘しよう!

こんにちは。古陶磁鑑定美術館です。

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みなさんは、「高取焼」という焼き物をご存知でしょうか?

高取焼は、1600年頃に、福岡県直方市付近で作られ始めた焼き物です。

豊臣秀吉の命で行われた朝鮮出兵の際に、黒田長政によって日本に連れてこられた陶工「高取八山」が開窯し、筑前福岡藩の藩窯として発展したと言われています。

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そんな高取焼ですが、実は、近年まで「唐津焼」や「萩焼」に紛れてしまって、その存在すら知られていなかった、『幻の焼き物』でもあるのです。

美術館や博物館の研究員やプロの鑑定士ですら、高取焼の判別は大変むずかしいと言われています。なぜなら、未だにコンセンサスが得られていない、未研究の焼き物だからです。

しかし、だからこそ、国宝級の『新発見』のチャンスが残っています。

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そう、高取焼は、未だに『謎』だらけの焼き物なのです。

今回のコラムでは、そんな幻の焼き物「高取焼」について、未解決の謎や最前線の研究成果を紹介します。

博物館や美術館よりも早く高取焼を発見し、国宝級の名品を手に入れてしまいましょう!

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古高取焼とは?

高取焼(古高取焼)は、文禄慶長の役の際に、朝鮮半島に渡った黒田長政によって連れてこられた陶工八山(高取八蔵)が作った焼き物です。

最初の窯は、永満寺宅間窯と呼ばれる窯で、慶長前期の1600年頃に始まり、1610年頃まで焼かれたと言われています。その次の窯は1614年に開窯した内ヶ磯窯で、この二つの窯で焼かれた高取焼が『古高取』と呼ばれています。

ちなみに、内ヶ磯窯以降は、小堀遠州の好みの茶道具を焼いた「遠州高取」と呼ばれる白旗山窯が1630年(寛永7年)に開窯しますので、寛永前半までの作品が『古高取焼』に該当します。

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なぜ、古高取焼は幻の焼き物と呼ばれるのか?

古高取焼は、以前は「唐津焼」や「萩焼」などの一部と考えられていたため、その存在がよく知られていませんでした。

しかし、近年の発掘調査によって、それらが高取の古窯跡から出土したため、高取で焼かれた物だと判明したのです。

古高取焼が注目された理由は、それまでに知られていた「遠州好み」の様式ではなく、いわゆる美濃焼や織部焼のような「織部好み」の意匠性だったからです。

織部好み(織部様式)の茶陶は、「へうげもの」と称される、歪みや箆目を施した造形が特徴的です。それらが古高取焼に施されているということは、慶長期のカリスマ茶人「古田織部」との関わりが意識されない筈がありません。

当時の高取焼を管理していたのは、52万石の大大名、黒田官兵衛や黒田長政です。また、黒田藩の御用商人には、大茶人の神谷宗湛や島井宗室がいました。

そのような大名や豪商達が関わって開発しであろう焼き物ですから、それは注目されない訳がないのです。

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古高取焼研究の最前線は?

古高取焼は、とにかく「伝来品の数が少ない」のが特徴です。

そのため、本物の伝世品自体が、非常に貴重な存在です。

特に最初期の「永満寺宅間窯」の作品は、数個しか伝来が確認されていない程貴重です。

研究論文などでも、永満寺宅間窯時代は、茶道具の生産はほとんどされていないとしか書かれておらず、1614年の内ヶ磯窯以降の作品を古高取焼の中心として扱っています。

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しかし、かの古田織部は、1615年の大阪夏の陣の後に裏切りを疑われて切腹させられてしまいますので、内ヶ磯窯には僅か晩年の1年程度しか関われなかったのが現実です。

ということは、現在織部好みと考えられている内ヶ磯窯の伝来品の多くは、織部の死後の作である可能性が高いということになります。

つまり、本当の「古田織部好みの古高取焼」とは、永満寺宅間窯時代の茶陶のことなのです。永満寺宅間窯の茶陶を明らかにしなければ、真の織部好みの正体は見えてきません。

と言う事で、「永満寺宅間窯」の古高取焼を通じて、織部好みの正体に迫ってみましょう。

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気になる続きは、後編のコラム記事でご覧ください。

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