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"どこでも英語"は、少し高慢かもしれない。
フランス・イギリス旅に行ったときのこと。
私は夫に仕事に付き添ってフランスのある町を訪れることになりました。
(こちらで記事にした町です)
フランスを訪れるのは初めてだし、言葉という武器をほぼ持たない私は完全にアウェイです。
夫も英語を話すし、夫とやり取りをしていた日本からくる方々も基本英語を話すを聞いていたので、英語が話せない私は完全に劣勢。かなり焦りを感じていました。
好奇心のままに快諾した数ヶ月前の自分をちょっと恨んですらいました。(笑)
しかし実際にフランスへ行ってみると想定外のことが起こりました。
英語が通じないのです。
夫とともに行った展示会では90%以上の人がフランス語でやりとりしていて、展示会中に開催される講演会もほぼフランス語。ヨーロッパや世界中から人が来ると聞いていたのに、英語で行われている講演会はほとんどないに等しかったのです。
私たちや日本から来た人たちに話しかけてくれる人たちは英語を使ってくれるのですが、英語を話せる人はかなり限られているようでした。
そして一番驚いたのは、ホテルの受付の人も英語があまり話せなかったこと。その町にある2箇所のホテルのフロントの方と話す機会がありましたが、チェックアウトについての質問など、よく聞かれそうなやりとりすらままならなかったのです。
「フランスの人は、英語を学んでいても英語を話さない(それだけフランス語を大事にしている)」なんて話も聞いたことがあったので、最初は英語で話しかける私たちにそういう態度を取っているのかと思っていたのです。
しかし、受付にいた2人がスマホの翻訳機を使ってコミュニケーションをとるところを見て、「 話さない 」のではなくて「 話せないのだ 」と気づきました。
驚きと同時に、私はふとあることに気づきました。
なぜ私は、英語を話せれば大丈夫だと思っていたのだろうと。
だってここはフランスで、公用語はフランス語です。
それなのになぜ、私はフランスで英語が通じるもので、それが当然だと思っていたのでしょう。
私は日本人で公用語は日本語。
そして英語はまともに話せません。
国と公用語は違えど、状況としては私も彼らと同じなのです。
パリみたいな世界的な観光地であれば、英語が使える人が多いでしょう。
それは観光業として海外の人を受け入れる機会が多いからで、言葉を話せることでビジネスチャンスが広がるからです。ある種のサービスです。
日本のホテルのフロントも英語が話せる人が多いですが、あれもおもてなしの一環であって、あれが「 普通 」でも「 当然 」でもないのです。
つまり英語圏ではない国の人が英語を話してくれるのは、特別なことであって、それを当然と思うのは少し高慢かもしれないと思ったのです。
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英語と同じアルファベットを使っている言語だとしても、だから勉強が簡単になるわけではないことは、今ドイツ語を学ぶ私にはわかります。
発音が違うだけで似たような字面の単語がまったく違う言葉のように聞こえますし、文法だって異なります。
それは日本語を話す人間に、同じ漢字を使っているからと中国語ならをすぐに習得できるよね?と言っているのとほとんど変わりません。私は中国語も少しだけかじったことがありますが、そんなあっさり話せるようにはなりませんでした。
別の言語を習得することは、どの国の人でも、どの言語を話す人にとっても大変なことには変わりはないのです。
私はこれまで、日本のビックサイトなどで開催される展示会に色々と参加してきました。海外の企業も受け入れ新しいビジネスを生もうとする展示会と銘打っていても、会場では日本語が飛び交い、講演会もほとんどが日本語で行われていることが多かったです。
英語で話す講演者には、大体通訳や字幕等がつくし、英語で話しかけてくる人には、企業ブースの中にいる数少ない英語の話せる人がついて相手をする。それが一般的です。(もちろん、業界などでも違うのでしょうが)
その光景から考えればむしろ、最初は「英語通じないな…」と思っていた展示会も、英語がよく通じる展示会のように見えました。
むしろフランス語が話せないこちらに合わせて、英語で話そうとしてくれる人たちに感謝したくなりました。
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英語は地球上で20億人以上が話す言葉だと言われています。
地球の人口が今80億人くらいと言われているので、総人口の4分の1が英語が話せるということになります。
4人に1人が英語を話せるのはすごいことだけれど、4人に3人が英語を話せないというのもまた事実なのです。
そしてなにより、話す人の割合に関係なく、
その国の言葉を少しでも話せるようにしておくのは、
その国やその国に住む人に対して敬意を示すことになります。
社会人になりたての頃、私は海外旅行によく行っていました。
アジア圏が多かったのですが、行く度にその国の挨拶やちょっとした言葉を覚えていました。
それはカタコトでも現地の言葉で話をすると、相手をしてくれた人が喜んでくれることが多かったから。ときにはおまけをしてくれたり、その国の色々な情報をお話してくれることもあって、旅行をより楽しむことができました。
当時はあまり意識していなかったけれど、あれは相手の文化や言語を尊重しているという「 敬意 」の姿勢を見せることになっていたのですね。
流暢に話せないとしても、少しでも話そうとする気持ちが大事。そういう努力はちゃんとその国の人に伝わると私は信じています。
そういう試みをバカにする人はその国にも、日本人の中にもいるでしょう。日本人丸出しの変な発音だとか、変な喋り方だとか。SNSでもそういうコメントをよく見かけます。
現地の人に通じないほどの発音や文法なのは努力したほうがいいでしょうが、変な喋り方でもまず通じてるならすごいことだと思うのです。そこが言語習得の第一歩だし、一歩を踏み出せないで他人を笑っている人よりもよっぽどマシです。
私はこの旅で後ほど遭遇する出来事で、そういうことに囚われすぎることの無意味さに気付かされたので、今は迷わずそう思うことができます。
観光だろうと仕事だろうと、そこで暮らすことになろうと、外国にいるときは「 言葉を話すという形での敬意 」も忘れてはいけないと、強く思ったのでした。
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