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美術展を楽しむヒント×スコットランド国立美術館展

“美術展に行くのが好き。
でも、美術展をちゃんと鑑賞できているのか自信がない…”

今回の記事では、そんな悩みを抱える方のために、西洋美術史を研究する私が、美術展を楽しむヒントを紹介します。

東京都美術館で開催されている「スコットランド国立美術館〈THE GRATES 美の巨匠たち〉」(現在開催中〜7/3・東京、7/16〜9/25・神戸)の鑑賞メモをもとに、実際の展覧会では、私が何を思いながら鑑賞しているのか、どんなところに注目すると美術展がより面白く感じられるのかをお伝えします。


この展覧会を観に行く予定の方や、観に行くか迷っている方はもちろん、展覧会の楽しみ方を知りたいという方に、オススメの内容です。

とはいえ、美術展の楽しみ方に正解はありません。
こんな見方・楽しみ方もあるのか、という一つの例として読んでいただければと思います。


1  できる限り近づいて見る


私は、美術展に行ったらまず、できるかぎり作品に近づいてみます。

できるだけ近づくことで、絵を描いていた画家の視点に立つことができます。

そして、写真では、はっきりとわからない筆のタッチや、細部の表現にまで目を凝らします。

例として、今回の展覧会に展示されているパリス・ボルドーネの作品をとりあげてみます。(以下、貼っているリンクは、スコットランド国立美術館の公式サイトです。詳細な画像が見られますので、お家で美術館気分を味わってみてください)


この作品に対する、私の鑑賞メモには、こう書いてあります。

①ティツィアーノの《鏡の前の女》に似ている
②胸の上部がずいぶんと赤い
③胸の下あたりに細い金色の帯のようなもの

①は、パッと見て思ったこと、②、③は、作品をじっと見ていて気づいたことです(とくに③)。

①のような感想が思いつかないからと言って、焦る必要はまったくありません。たくさんの作品に触れていくと、知識は自然と身についてきます。好きな作品が増えるにつれて、比較対象も増えていくのです。

②、③のようなことは、作品をじっくり見ていれば、たとえ知識がなくても気づけるのではないかと思います。

けれども、こうした感想をもったところで、どうしたらよいのでしょう。

私は、こういうことに気づいたとき、とりあえず、なんでだろう?と考えるようにしています。

なんで、赤いんだろう?
なんで、金色の帯が描かれているのだろう?と。

答えがその場で見つかることもあるし、見つからないこともあります。
もっと言うと、正解があるときもあれば、ないときもあります。

この疑問に対して、私が立てた仮説はこうです。
(間違っているかもしれません)

この紅潮している部分や、金色の帯があるために、エロティックさが増しているのではないか、と私は考えました。

赤くなっているあたりは、常に表に出ている部分なので日焼けをします。けれども、服がはだけている胸の部分は真っ白。この赤と白のコントラストによって、普段は見せていない無垢の部分が晒されている、という感じが強まっているような気がします。(首元が赤い理由は、日焼けではなく、この絵の描かれる前の時間に、この女性は体を火照らせてしまうような振る舞いをしたのかもしれません。)

金色の帯は、よく見ないとわからないほど、うっすらと描かれています。
こんなに薄いのなら、描かなくてもいいのではないか、と思うほどです。
けれども、これを描くことによって、彼女の胸のあたりが強調されます。

「一糸まとわぬ」という表現がありますが、ここでは一糸まとっているからこそ、余計に裸体であることが強調されているように感じるのです。

ちなみに、この帯の表現に関して、最近読んでいた本の中に、気になる描写がありました。
この絵が描かれた時代(1550年頃)よりも少し後の時代になりますが、タッソの『エルサレム解放』(1575年)という叙事詩の中で、魅惑的な魔女アルミーダについて、裸体のときにも彼女が帯を締めていると描写されています。
女神ウェヌスも、裸体に帯をつけた姿で描かれているのを見かけます(ロレンツォ・ロットの《クピドとウェヌス》など)。
これらの描写の因果関係や典拠は調べていませんが、このうっすらと描かれた帯が、魅惑的な女性の描写として、かなり意図的に描かれたものであったと言うことはできそうです。


2  本来の姿に思いを馳せる

私たちは、美術館で作品を見ることに慣れていますが、美術館という制度ができたのは最近のことです。

それまで、絵画は、教会や個人の邸宅などに展示されるために描かれていました。

作品が、いま展示されている状態ではなく、もともとはどんなふうに展示されていたのだろう、と考えてみると、より面白く見えてくることがあります。

たとえば、パオロ・ヴェロネーゼ《聖アントニウスと跪く寄進者》を見てみましょう。

この絵画は、聖人と寄進者が描かれているので、もともとは教会に飾られていた祭壇画だろうな、という予想ができます。

私の鑑賞メモには、

左の天使が見切れている→切断されているか?

と、書いてあります。

目録には特に何の記載もありませんでしたが、上のスコットランド国立美術館のホームページには、この絵が祭壇画の断片であると書かれています。

画家は、見切れた天使を描こうとした訳ではないのですね。

現在展示されている姿が制作当時の状態ではない可能性があるということを念頭に置きながら鑑賞することで、作品本来の姿に迫ることができるかもしれません。

この作品のように切断されているだけでなく、経年劣化している可能性や、後世の補修が加わっている可能性もあります。


また、エル・グレコの作品に対して、私はこんなメモを残しています。

青白い。なんとなく白々しい感じ。
蝋燭の光に当てて見てみたい。

血色の良いヴェネツィア派の絵と並んであったせいか、エル・グレコの作品の青白さが際立っていました。

この青白さは、一般の人々とは異なるキリストの神々しさを表現しようとした結果なのかもしれませんが、キリスト教徒ではない私にとって、グレコの表現は白々しいというか、仰々しい感じがしてしまいます。

ただし、この絵が本来展示されていた当時は、今のような一定の光のもとで見ていたわけではありません。

現代の光の下では、仰々しく見えてしまう表現も、本来の場所で薄暗い教会の中、揺らめく蝋燭の光の中ではもっと効果的に映る可能性もあるなぁと思いました。


3 変なところを探す

美術作品は「美」という字が入っていますから、「美術作品とはうくしいものである」という前提で見ている方も多いかもしれません。

素直に、綺麗だな、美しいなと思うことも、もちろん素敵なことです。
どうしてこの作品を美しいと感じるのか、その理由を考えるてみるのも面白いと思います。

けれど、「うくしいものだ」というフィルターを一旦外してみることで、見えてくることもあります。

私が美術作品を見るときには、「変なところ」を探します。

ベラスケスの《卵を料理する老婆》を例に見てみましょう。

この絵を写真で見ても、それほど違和感がないのですが、展覧会の会場で実物を見ているとき、私は少し変な感じがしました。

その「変な感じ」がどこから来ているのか突き止めようとじっと作品を見ていると、特に画面の下部に「変な感じ」がするのです。

その違和感の正体は、「視点」でした。
画面と、自分の目の高さが、合っていないように感じたのです。画面下部に描かれた器は上から見下ろしているように描かれているのに、それを横から見ているので違和感がありました。この違和感は作品の前に立たないと感じないものかもしれません。

おそらくベラスケスは、この老婆の手元を見下ろすような視点で描いているのではないかと思います。真横からの視点で描くよりも、この覗き込むような視点をもつことで、スナップショットのような、より臨場感のある作品になっているのではないか、と私は思いました。

蛇足になりますが、この作品の器の描写に目を凝らしていたのは、以前読んだ、ベラスケスの《バッカスの勝利》(下図)に関する論文の記述が念頭にあったからです。神の足元にはガラスが、農民の足元には土製の器が描かれており、
酒神バッカスの神聖さを、足元に転がる器によっても表現しているのではないか、とその論文の筆者は語っていました(Aneta Georgievska‐Shine, 2012)。
この老婆の調理する卵の足元に転がる鍋の位置が若干不自然な気もします(ここに立てかける必要があるのか?)。
描いた順で言うと、《卵を調理する老婆》が先ですが、こういう描写を練習していくことで、のちに《バッカスの勝利》の描写を思いついたのかもしれません。



私は、このルーベンスの絵にも違和感を覚えました。

私以外にも、この絵に違和感のある人は、その違和感の正体を探ってみてください。



4 注文主の気持ちになってみる

現代では、芸術家というと、自分の好きなものを好きなように制作しているイメージが強いかもしれません。

けれども、過去の美術家たちは、自分の好きなように、というよりも、注文主に依頼されたものを制作するのが主でした。

私が、美術作品を見るときには、画家の視点だけでなく、注文主の視点も考慮してみることにしています。

注文主、というとそんな昔の人のことなんてわからないよ、と思う方もいらっしゃるかもしれません。(美術史を学ぶ私も、昔の人のことはよくわからないので、当時書かれた本などをもとに、昔の人の感情を想像するしかありません)。

もちろん、時代が違えば、考えることが違う面もあります。
でも、たぶん、時代が違っても、同じこともあります。

たとえば、ヴァン・ダイクの《アンブロージョ・スピノーラ侯爵の肖像》を見ながら、私はこんなメモを取りました。

私も、肖像画を描いてもらうんだったら、ヴァン・ダイクに頼みたい…!

美術史を学ぶ者としてはどうかとも思う感想ですが、こんな素直な感想も載せておきます。

写真で見る以上に、実物は優美で繊細な描き方です。当時の人々がヴァン・ダイクに肖像画を依頼した理由を、私は容易に想像できました。

「なんでこの画家に依頼しようと思ったのかな」とか、「自分の部屋に飾るならどの絵がいいかな」という視点で見てみると、またちがった見方ができるかもしれません。

この絵についても、ちょっと美術史っぽい話をしておきます。
こういう肖像画はたいてい左側から、光が当たっていますが、それはなぜでしょう。
それは、画家が絵筆を右手で持つときに右から光が差していると絵が影になってしまうために、左から光が当たるように描くことが原則とされていたからです。東京都美術館の展示室で、この絵に、ほんのり左寄りから光を当てていたのは、この絵を効果的に見せるためかな、と想像しました。

※絵画の中には、設置する場所の窓からの光を考慮して、右から光が差しているものもあります。


私の鑑賞メモには、他にもいろんなことを書いているのですが、あまり語りすぎると、かえってみなさんの鑑賞の楽しみを奪ってしまう気もするのでこの辺にしておきます。

この記事で紹介したのは、展覧会で展示されている作品のごく一部にすぎません。

ぜひ、みなさんも、好きな作品を会場で見つけてみてください。


さて、今回は、久しぶりに美術の話をしてみました(修士論文で頭がいっぱいで美術の話を避けていましたが論文が煮詰まってきたので、息抜きに書いてみました)。

今回の記事が、みなさんが美術展を楽しむきっかけのひとつとなったらうれしいです。

みなさんが、「美術って楽しい!」と心から思えるように、これからも美術の楽しさを発信していきたいなと思っています。