2022年6月の記事一覧
疑問ストック(大学の勉強用)
戦場における「氏文よみ」
「源平合戦期までの戦場では、自らの出自を名乗るのが戦いの作法であったが、そこでは先祖以来の武勲が高らかに誇示されていた。」
『中世史講義』ちくま新書、p17
この部分、『保元物語』の引用を言及しているが、あくまでも物語の世界の話であって、本当に名乗りを上げていたのか?
戦いの作法はどこに書いてある?
E.H.カー『歴史とは何か』岩波新書
“歴史は、紛失した部分が沢山ある大規模なピクチュア・パズルと呼ばれてきました。……私たちが知っている姿は、あらかじめ私たちのために選び出され決定されたものです”
“我々が読んでいる歴史は、確かに事実に基づいてはいるけれども、厳密に言うと、決して事実ではなく、むしろ、広く認められている幾つかの判断である”
“十九世紀の事実崇拝は、文書崇拝によって完成され弁明されておりました。……すべてこれらは、
神田千里『織田信長』ちくま新書、2014年
信長の革新性や天下統一の野望という通説を史料批判的に論じている。
・織田信長が革新的人物であるというイメージを早い時期に述べたのは、東京帝国大学の田中義成(1860~1919年)。幕府を廃止し、天皇を擁立して天下統一の事業を行ったことが「一大革新」であったという指摘がなされているが、明治時代に生きた田中にとって、勤王=革新であった。
・『尋常小学国史』にも「信長もとより勤王の志深く…」と述べられ
金子拓『織田信長<天下人>の実像』講談社現代新書、2014年
・信長は将軍義昭から天下を任されていると認識していたが、この「天下」とは京師と同じ意味、もしくは五畿内程度でしかない。つまり、信長は軍事的指揮権を中心に天下の静謐を維持する役割を負っており、それを乱そうとしている相手を軍事的に制圧することになる。結果的に、信長が領土を拡大していったかのように見えた。
・信長の場合、「天下」の外にある友好的な大名たちを、自分の秩序に組み入れようとはしていなかった。そ
『山本七平ライブラリー⑥ 徳川家康』文藝春秋、1997年
家康の特徴
本質的に武人であり、武勇に秀でていた。加藤清正も認める。
野戦の指揮が得意
1 指揮官であること
2 統治能力と統率力
3 財政能力
武家諸法度
一 文武弓馬の道、専ら相嗜むべきこと。
文武弓馬之道専可相嗜事、左文右武、古之法也、不可不兼備矣、弓馬是武家之要枢也、号兵為凶器、不得已而用之、治不忘乱、何不励修練乎
【外交】
家康は朝鮮との講和に熱心であったが、それは朝鮮の仲介で明と貿
細川重男『執権』講談社学術文庫、2019年
第1章、第2章
・頼朝挙兵の兵力は90騎ほど。山賊の殴り込みレベル。北条氏も最大で30騎。
・北条泰時は『吾妻鏡』では一度も北条と呼ばれていない。義時は北条氏庶家の江間氏。
・頼朝親衛隊。養和元年4月7日。武勇に優れ忠誠心ある者11人を「御寝所の近辺に候ずべきの由」。江間四郎(北条義時)を筆頭。葛西清重・下河辺行平・結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝・三浦義連・千葉胤正・八田知重
町田明広『攘夷の幕末史』講談社現代新書、2010年
・江戸時代とは、徳川公儀体制のもとで、東アジア華夷思想に基づく、「東夷の小帝国」を形成し、「鎖国」(海禁)政策を貫いていた時代。明や清のシステムの枠外に日本を位置づけ、接近する外国船を追い払う。
・日本と朝鮮とは対等な関係であるはずが、徳川幕府は朝鮮と琉球を朝貢国と認識していた。このため、幕末から明治期の征韓論の元になり、朝鮮をめぐる覇権争いによって日露戦争が生じた。
・海禁とは、私的な海外渡航や