マガジンのカバー画像

歴史読書記録、歴史メモ

29
運営しているクリエイター

2022年6月の記事一覧

歴史的事象に関するメモ(随時追記)

歴史的事象に関するメモ(随時追記)

転載・流用禁止

【縄文時代】
・縄文時代とは、土器の出現から灌漑水田稲作が開始されるまでの日本列島域において、狩猟採集漁労を主な生業とし、本格的な定住生活を始めた人々が残した文化群の総称。この時期を指す。p8
・「戦争」を「集団間による激しい争い」と定義するのであれば、東日本の中期以降のように人口が集中し定住性の強い地域には「戦争」があった可能性がある。p21
・縄文時代・文化は戦後の新しい歴史

もっとみる
疑問ストック(大学の勉強用)

疑問ストック(大学の勉強用)

戦場における「氏文よみ」
「源平合戦期までの戦場では、自らの出自を名乗るのが戦いの作法であったが、そこでは先祖以来の武勲が高らかに誇示されていた。」
『中世史講義』ちくま新書、p17

この部分、『保元物語』の引用を言及しているが、あくまでも物語の世界の話であって、本当に名乗りを上げていたのか?

戦いの作法はどこに書いてある?

E.H.カー『歴史とは何か』岩波新書

“歴史は、紛失した部分が沢山ある大規模なピクチュア・パズルと呼ばれてきました。……私たちが知っている姿は、あらかじめ私たちのために選び出され決定されたものです”

“我々が読んでいる歴史は、確かに事実に基づいてはいるけれども、厳密に言うと、決して事実ではなく、むしろ、広く認められている幾つかの判断である”

“十九世紀の事実崇拝は、文書崇拝によって完成され弁明されておりました。……すべてこれらは、

もっとみる

渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』中公新書、2012年

【三国時代】
魏:曹氏、司馬氏 VS 呉:孫氏 VS 蜀:劉氏、諸葛氏

【三国志の基本的スタンス】
・曹魏の正統性とそれを受け継いだ西晋の司馬氏を賛美するという目的がある
・打倒孫呉

・史学は儒教の中にある。夷狄伝は中華思想を展開する場
・「中国の史書において、夷狄伝は、中華の栄光を示すために書かれる部分である。南蛮や倭人のために、事実を記録しているわけではない」

【邪馬台国の位置】
・孫呉

もっとみる

義江明子『つくられた卑弥呼――<女>のと国家』筑摩書房、2005年

・「卑弥呼=神秘的巫女」「政治は弟が行った」というイメージ、男女聖俗二元論に対する疑問。古代の女性のあり方と、卑弥呼像はかけ離れている。
・「魏志倭人伝」における「会同」は単なる宴会ではなく、政治的意味合いを持つ共同体的集会だった。そこでは着席順やふるまいに「父子男女」で区別がなかった。
・ほぼ8世紀ころまでの日本は、男女がゆるやかに結びついて簡単に離合する社会だった。流動的な家族関係は戸籍ではな

もっとみる

義江明子『古代王権論』岩波書店、2011年

・地位継承次第系譜において、「A――子(児)B」と書かれていても、AとBが親子関係にあるとは限らない。
・一つの血統による世襲王権の成立が6世紀の継体~欽明以降であることは、研究者の間ではほぼ共通認識となってきている。欽明から推古について、『上宮聖徳法王帝説』は、「右五天皇、他人を雑える無く天下を治すなり」としている。逆に言えば、これ以前は非血縁継承が普通に行われていたということが言える。王族の形

もっとみる

神田千里『織田信長』ちくま新書、2014年

信長の革新性や天下統一の野望という通説を史料批判的に論じている。

・織田信長が革新的人物であるというイメージを早い時期に述べたのは、東京帝国大学の田中義成(1860~1919年)。幕府を廃止し、天皇を擁立して天下統一の事業を行ったことが「一大革新」であったという指摘がなされているが、明治時代に生きた田中にとって、勤王=革新であった。
・『尋常小学国史』にも「信長もとより勤王の志深く…」と述べられ

もっとみる

金子拓『織田信長<天下人>の実像』講談社現代新書、2014年

・信長は将軍義昭から天下を任されていると認識していたが、この「天下」とは京師と同じ意味、もしくは五畿内程度でしかない。つまり、信長は軍事的指揮権を中心に天下の静謐を維持する役割を負っており、それを乱そうとしている相手を軍事的に制圧することになる。結果的に、信長が領土を拡大していったかのように見えた。
・信長の場合、「天下」の外にある友好的な大名たちを、自分の秩序に組み入れようとはしていなかった。そ

もっとみる

『山本七平ライブラリー⑥ 徳川家康』文藝春秋、1997年

家康の特徴
本質的に武人であり、武勇に秀でていた。加藤清正も認める。
野戦の指揮が得意
1 指揮官であること
2 統治能力と統率力
3 財政能力

武家諸法度
一 文武弓馬の道、専ら相嗜むべきこと。
文武弓馬之道専可相嗜事、左文右武、古之法也、不可不兼備矣、弓馬是武家之要枢也、号兵為凶器、不得已而用之、治不忘乱、何不励修練乎

【外交】
家康は朝鮮との講和に熱心であったが、それは朝鮮の仲介で明と貿

もっとみる

荒野泰典編『日本の時代史14 江戸幕府と東アジア』吉川弘文館、2003年

7~181ページ部分からのメモ

・明や朝鮮との講和の重要性を理解し、実践していったのが家康。他の五大老は自国の経営に専念しようとし、外交の意識がなかったのではないか。
・東南アジア諸国への書簡が送られた目的は
①正式なルートで紛争を外交的に解決すること
②私的な貿易に公的な性格を持たせ、貿易ルートを安定化させる
→朱印船制度の創設

・当時の国際社会が日本に求めたことは、倭寇などの禁圧や統制。徳

もっとみる

仁藤敦史『女帝の世紀 皇位継承と政争』角川選書、2006年

本書は女帝中継ぎ論と藤原氏陰謀史観へ疑問を呈し、個別の権力争いではなく、奈良時代を通じた政策的課題を追求するもの。

・光明子立后の意義は、皇后執政権による天皇補佐にあった。(女性太上天皇の役割に等しい)

・広嗣は軍団兵士制を廃止するなど、対外的防衛を怠った聖武天皇を批判している。大宰府の実質的な責任者として、聖武天皇の弱腰を批判したといえる。橘諸兄に対する権力闘争ではなく、新羅との緊張関係を背

もっとみる

細川重男『執権』講談社学術文庫、2019年

第1章、第2章

・頼朝挙兵の兵力は90騎ほど。山賊の殴り込みレベル。北条氏も最大で30騎。
・北条泰時は『吾妻鏡』では一度も北条と呼ばれていない。義時は北条氏庶家の江間氏。
・頼朝親衛隊。養和元年4月7日。武勇に優れ忠誠心ある者11人を「御寝所の近辺に候ずべきの由」。江間四郎(北条義時)を筆頭。葛西清重・下河辺行平・結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝・三浦義連・千葉胤正・八田知重

もっとみる

町田明広『攘夷の幕末史』講談社現代新書、2010年

・江戸時代とは、徳川公儀体制のもとで、東アジア華夷思想に基づく、「東夷の小帝国」を形成し、「鎖国」(海禁)政策を貫いていた時代。明や清のシステムの枠外に日本を位置づけ、接近する外国船を追い払う。
・日本と朝鮮とは対等な関係であるはずが、徳川幕府は朝鮮と琉球を朝貢国と認識していた。このため、幕末から明治期の征韓論の元になり、朝鮮をめぐる覇権争いによって日露戦争が生じた。
・海禁とは、私的な海外渡航や

もっとみる

樋口健太郎『九条兼実』戎光祥出版、2018年

・摂関家は院政が開始された後も国家の最高意思決定に関与。
・平清盛の一族は、清盛以前から朝廷に仕え、五位の位階を保持していた。武芸や軍事を専門とする軍事貴族。
・摂関家では、藤原道長以来、摂関とは別に、引退した前摂関が「大殿」と称して家の実権を持つことが多かった。清盛は後白河の院宣によって、この「大殿」の地位についたと考えられる。
・清盛が摂関家の家長であったとすれば、娘を入内させて天皇の外戚にな

もっとみる