渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』中公新書、2012年

【三国時代】
魏:曹氏、司馬氏 VS 呉:孫氏 VS 蜀:劉氏、諸葛氏

【三国志の基本的スタンス】
曹魏の正統性とそれを受け継いだ西晋の司馬氏を賛美するという目的がある
・打倒孫呉

・史学は儒教の中にある。夷狄伝は中華思想を展開する場
・「中国の史書において、夷狄伝は、中華の栄光を示すために書かれる部分である。南蛮や倭人のために、事実を記録しているわけではない」


【邪馬台国の位置】
・孫呉の背後でなければならない
(異民族が蜀漢に呼応しないよう、背後にある大月氏国を魏に朝貢させた)
・魏と対立する呉は海上支配してて、魏は呉の背後から倭国という「大国」によって挟み撃ちしたい。なので、倭国は「大国」として記述される
・位置としても、倭国は呉の背後となる場所、つまり東南でなければならない
・具体的には、会稽郡東冶県の東(倭人伝には「まさに会稽の東冶の東にあるべし」と書かれている。ここでの「べし」は推量)
・呉を挟み撃ちできる場所として、倭国は福建省のさらに南に位置するのが適当

・中国は自らの世界の大きさも儒教経典の解釈で定めていたので、帯方郡から邪馬台国までの距離もそれに基づいて示されている
・なぜ帯方郡から邪馬台国まで一万二千里なのかというと、昼間ツイったもう一つの親魏○王である大月氏国との距離が関係してる
・洛陽から大月氏国まで一万七千里。つまり、洛陽から邪馬台国までも一万七千里にならなければならない。洛陽から帯方郡まで五千里。それを引いたら、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里になる

【倭国の記述】
・司馬氏が遼東の公孫氏を滅ぼしたことを顕彰する意図があり、卑弥呼の朝貢は司馬氏の大きな功績として記述されるべきもの
・景初二年八月に終わった公孫氏征伐の結果、司馬の徳を慕って卑弥呼が使者を派遣した、という認識
・倭国は中国のように礼が備わり、教化されている国として好意的に描かれている

【狗奴国について】
・曹魏は狗奴国の背後に敵対する孫呉の影を見ている

【女性の嫉妬について】
・ 倭国の女性は嫉妬しないと書かれてるのは、中国では女性が嫉妬しないことが美徳(家の存続に影響する)だから、倭国も中国と同じようなまともな国だと褒めている
・他方、東夷伝高句麗条では「その風俗は淫乱」と書かれるが、実際に乱れてたわけではなく、そういう風に描く必要があった

【親魏○○王】
・三国志の中で「親魏○○王」の称号をもらったのは、倭国と大月氏国(インド・クシャーナ朝)の2つのみ
・魏にとってこの2国は同じ重さだったということ

【倭国の官制】
・中国と類似:徴税制度、貯蓄倉庫、市を監督する官僚(大倭)、刺史に似た監察官(大率)
・大率を一人、伊都国に置き、諸国を監察させている。これは中国でいう刺史に似ている
※刺史は地方の州に置かれた機関。他方、首都には司隷校尉が置かれた。
→つまり、福岡県にあったとされる伊都国は首都圏から外れている
→首都の邪馬台国は九州ではないことが類推される


【邪馬台国の外交】
・司馬懿が公孫氏を滅ぼし、その徳を宣揚するためには、夷狄の使者をタイミングよく派遣しなければならない
・帯方郡の意図を明確に理解し、卑弥呼に高度な外交を行わせたのは「渡来人」



・「現実の邪馬台国の位置とは関係なく、そこになければならない国際関係があった。……一次史料がありながらも、三国時代の世界観が擦り込まれた。この結果、倭人伝は、理念と事実が混淆する記録となったのである」
・逆に考えると、経典や『漢書』などに依拠してない記述は、実際の使者の報告を基づいてるから、それが倭国のリアルと考えることもできる

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