神田千里『織田信長』ちくま新書、2014年

信長の革新性や天下統一の野望という通説を史料批判的に論じている。


・織田信長が革新的人物であるというイメージを早い時期に述べたのは、東京帝国大学の田中義成(1860~1919年)。幕府を廃止し、天皇を擁立して天下統一の事業を行ったことが「一大革新」であったという指摘がなされているが、明治時代に生きた田中にとって、勤王=革新であった。
・『尋常小学国史』にも「信長もとより勤王の志深く…」と述べられている。
・敗戦によって「勤王」は単純に革新的と賛美できなくなったが、信長の「革新性」は再検討の対象にならず今に至る。
・また、「天下統一」の野望を持っていたという根拠も学術的に示すことは困難。


将軍との関係:
義昭は主君であり、信長は一貫して臣下としてふるまっている。将軍は信長に「天下」を委任

天皇との関係:
伝統的権威である天皇を重んじた。信長にとってあるべき朝廷の姿は、天皇の権威が保たれ、下から敬われる存在であること。信長はないがしろにするどころか、かなり気を遣っていた

天下布武:
当時の「天下」は将軍に関連することを示すのが通例。従って、この意味は「日本全国の武力による統一」ではなく、「将軍が統治する京都の静謐」ということ。五畿内における将軍秩序樹立のスローガン。ルイス・フロイスも「五畿内の君主となるものを天下の主君」と認識。そして、徳川家康が将軍になり領有した「天下」も五畿内

諸国との戦:
国境に関する紛争から戦になった(国郡境目相論)。必ずしも信長から戦を仕掛けたわけではなく、巻き込まれたものも多い。結果として領地を拡大していったように見える。和睦の可能性も追求

宗教との関係:
本願寺も幕府の政治勢力の一つ。そのため勢力争いが発生する。信長とは何度も和睦しており、殲滅の対象ではない。比叡山については、仏教者としてふさわしくないため制裁が加えられたもの。仏教の否定ではなく、仏教のあるべき姿を求めている。法華宗に宗論を禁じたのも、宗論によって他宗派に喧嘩をふっかけないようにするため。戦国時代になると、自己の主張を通すために決闘に訴えることはできなくなっている。訴訟による救済でなければならない


信長は諸大名との共存を目指し、合議により天下を治めると宣言している。この時代は、世論や評判が重要であり、信長も民衆の動向などをかなり気にしている。将軍のあるべき姿や天下人としてのあるべき姿を念頭に置いて行動。
信長は、誰よりも常識人で老獪な政治家だったと筆者は位置づけている。

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