大人にとってどんな子どもがいい子なのか
私の母は、「いい子」という言葉をよく使っていた。
「いい子にしてなさい」
「いい子になりなさい」
「いい子はこんなことしないよ」
「いい子だね」
私は承認欲求を満たすために、母の言ういい子になろうと努力してきた。
だが、残ったものは、母の満たされた心と私の満たされない心だけだ。
いい子という言葉は、子どもを殺す。
しかし、いつの時代も親は「いい子」という言葉を使うものだ。
大人の言う「いい子」とは、どんな子どもだろうか。
親の言ういい子は、(自分にとって都合が)いい子のこと
私の母を含め、親の言ういい子は「自分にとって都合がいい」という意味で間違いないだろう。
親も人間だ。
恥はかきたくない。
その場に相応しい態度を子どもに求めるだろうし、そういったしつけも親の責任のうちだろう。
だが、自分の保身のために子どもを傷付けていることには、誰も気付いていないのだ。
公共の場で騒がないように教えるのは、誰のためだろうか。
親のためではないはずだ。
だが、自分が恥ずかしい思いをしたくないから、公共の場で騒いではいけないと教える親が多すぎる。
そう教えていないつもりでも、子どもは日常からそう感じ取っている。
私の母もよく否定していたが、子どもには見え透けている。
自分が恥をかきたくないから、都合のいいように子どもへ知識を植え付けていく。
そうして育った子どもが、他の子どもと同じように生きられると思うだろうか。
私は思わない。
親にとって都合のいい子は、自分にとって都合の悪いことばかりをする
これが所謂、自己犠牲の心理である。
親の言ういい子になるため、私は自分を犠牲にすることを厭わなかった。
自分が感じていること、自分がしたいと思うこと、それら「自分」というものに一切の蓋をして、親の言ういい子になるためだけに生きてきた。
仕方ないだろう。
子どもには親しかいない。
帰る場所は家しかないし、逃げる場所もなければ頼る人もいない。
親にいい子だと認めてもらえなければ、居場所はないのだ。
そんな状況で自己犠牲に走らない子どもはおらず、自然と私も自分という存在に蓋をして生きるようになった。
だが、親と子どもの「いい子」にはいずれ溝ができる。
認識自体が異なるのだから当然の結果だが、溝ができれば我が家のように親子関係に歪みが起こる。
そうなると関係修復までに時間を要し、私のような少年出院者が出来上がるわけだ。
私はとことん自分を追い込んできた。
嫌ってきたし、蓋をして押さえ付けてここまで生きてきた。
しかし、そんなことを親は望んでいなかったろう。
自分に都合よく育てたとしても、最終的には人生を楽しんでほしいと思っているはずだ。
だが、親に抑圧したという自覚はない。
だからこそ厄介で、面倒なのだ。
子どもがその点をつつけば、「お前に何が分かる!」と顔を真っ赤にする親ばかりだろう。
だが、時には子どもの方が多くを知っている。
謙虚に接する気持ちがなくなれば、いくら自分の子とはいえ呆れられても仕方ないのではないだろうか。
大人にとって都合の悪い子こそ、いい子である
大人にとって都合が悪い子の代表が、よく話すおませな女の子である。
言われたくない家庭の秘密もペラペラと話すし、幼稚園くらいになると数日前の適当な約束もありがた迷惑なほど覚えている。
親よりしっかりした娘が出来上がるのもこの頃で、生意気なんだかしっかりしているんだか分からない女の子は多い。
そんな子に「静かにしなさい」「余計なことを言うんじゃない」と教える親は多いが、彼女が悪いことをしているわけではない。
ただ自分たちにとって都合が悪いから、話してくれるなよと言いたいだけだろう。
それを頭ごなしに子どものせいにして叱るのは、正しいことだろうか?
いや、どう見ても間違いだろう。
大人にとって都合が悪い子が、いい子だ。
聞いたことを素直に話し、約束はしっかり覚えて、自分も約束したことのために精一杯準備をして待つ。
その約束を守れない理由は、大抵、大人側にある。
仕事だのお金だの他の兄弟だの、そんなものは子どもに何の関係もない。
だが、しばしそういった理由から子どもとの約束はなかったことにされる。
そんなときに泣いて騒ぐ子どもより「分かったよ」とふたつ返事で理解する子どもの方が、大人にとっては都合がいい。
だが、都合がいいだけだ。
その子どもが我慢していることも抑圧されていることも、無視である。
大人という生き物が、どれくらいいい加減か分かってもらえるだろうか。
少年よ!悪い子どもになれ!
今、悩みを抱えている少年がいるなら、思いっきり悪い子になれ。
数々の罪を犯し、親と先生を困らせろ。
そうして自分という存在を爆発させ、社会に中指立てて生きろ。
ヤンキー姉ちゃんの私が、君の責任を取ってもいい。
そうして多くを経験して、挫折を経て、色々な景色を見たらいい。
それでも自分は無くならないし、生きる道もある。
大丈夫、絶対にだ。
失敗しない人間はいない。傷付かない人間もいないし、挫折しない人生など存在しない。
悪いことをしなければ、良いことが何かなど分からないだろう。
良い思いをしなければ、嫌な思いをすることもない。
傷付かなければ、傷付いた人の気持ちなど理解することはできない。
だから、子どもという時間がある。
何をしても許される、許されないこともあると学ぶ時間が、子どもだ。
そんな子ども時代に、許されないことばかりだと抑圧し押さえ付ける必要はない。
大人になれば、許されないことは必然的に増えていく。
法律だけでなく、社会にはモラルや常識といった枠の中で縛られていることがたくさんあるだろう。
そういったことが関係ない子ども時代だからこそ、見れる景色がある。
その景色を奪ってしまうのは、大人のエゴでないだろうか。
まとめ
「いい子」など、この世に存在しない。
どちらかといえば子どもは皆、大人にとって都合が悪い子だ。
泣くし、喚くし、うるさいし、面倒だし、手はかかる。
犬の方が大人しくて従順で、大人にとっては都合がいい子だろう。
だが、子どもとは本来そういうものだろう。
悪い子でいいじゃないか。子どもには夢がある。
大人にない将来があって、無限の可能性がある。
そんな子どもに対して親の都合が「いい子」になれ!というのは、芽を摘んでしまっているようなものではないだろうか。
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