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京橋ファミリー 〜愉快な住人たち〜

大阪・京橋を舞台にした物語で、マンション「福寿荘」で暮らす住人たちが主人公です。何気ない日常を、温かく感じて貰えると嬉しいです。


大阪・京橋にあるマンション「福寿荘」を舞台に、若年夫婦の日常。家族との関係に悩みつつも、親友との友情をいつまでも大切にする老人。自分の性格に悩みつつも、福寿荘の住人たちに助けられて、人の温もりを実感する50代女性…と、様々な登場人物が織りなす、感動するかもしれない物語。

〈注意!⚠️〉非常に長ったらしいですので、ご注意ください。予めご了承下さいませ。



主な登場人物
福寿荘 住人
 ・403号室 鴫野智(夫)・聡美(婦)
 ・402号室 野江和夫(夫)・房枝(婦)・克也(息子)・郁美(娘)
 ・502号室 関目圭太(夫)・真里(婦)・一樹(長男)・祐二(次男)
 ・303号室 野崎・莉奈(娘・妹)・亮太(兄・大崎亮太)
 ・201号室 藤阪英彦(通称:英ちゃん)

福寿荘1階 喫茶「かくれんぼ」
 マスター(長瀬丈友(通称:丈ちゃん・故人))・奥さん(長瀬弥生)・息子さん(長瀬裕輝・2代目)

その他
 ・星田友蔵(野江和夫と丈ちゃんの同級生・親友)
 ・長尾絵梨(野崎莉奈の幼馴染・親友)

※この物語はフィクションですので、実在の人物や団体などとは、一切関係ありません。



京橋ファミリー 〜愉快な住人たち〜

第1話 403号室 鴫野さん 〜福寿荘に暮らす〜

大阪は京橋。

キタと呼ばれる梅田周辺や、ミナミと呼ばれる難波・心斎橋周辺とはまた違った、下町風情の香りが漂う古き良き繁華街のある街。

何故、「京橋」という地名をしているのか。

その昔、大坂城より京都へ上る京街道の起点がこの地にあり、その名の通り、京橋という橋の名前が由来とされる。「京へ通じる橋」という意味なのだとか。

そんな京橋には、商店街の入り口にどデカい「真実の口」が来訪者を待ち構えているという、何とも大阪らしい粋な商店街がある。これこそが新京橋商店街で、古き良き商店街の雰囲気を感じることができる。

様々なお店が軒を連ねる新京橋商店街を抜けた先に佇む一軒のマンション。マンションの名は「福寿荘」。

福寿荘だなんて、何ともマンションらしからぬ名前をしているため、本当にマンションか?アパートではないのか?と疑われることもあるが、一応マンションということになっている。もっとも、マンションとアパートの違いについて明確な定義が無いから、アパートと思われてもあながち間違いでは無いのかもしれない。

福寿荘は5階建てで、1階には喫茶店「かくれんぼ」が入居する。このマンションが出来た頃から入居しており、謂わば、福寿荘の生き字引の様な存在だ。

「かくれんぼ」は先代のマスターが数年前、病気により亡くなり、今では奥さんとその息子さんの二人で切り盛りをしている。福寿荘の住人はもちろんのこと、近隣の人に愛されている喫茶店だ。特にここのブレンドコーヒーは、コーヒー本来の酸味を大切にしながらも、素朴な味わいを堪能出来る。コーヒーとセットで出される温かいゆで卵も「かくれんぼ」の代名詞だ。もちろん、ゆで卵の代金は貰わない。

そんな福寿荘の4階、403号室に暮らすのが私、鴫野智。

洗濯物を干す時は決まって部屋干しという変な拘りを持つ嫁と二人で暮らしている。嫁の名前は聡美、一向にベランダに出て外に干そうとはしない。

天気が良かろうが、悪かろうが、一切関係無く、絶対に外には干そうとはしない。私が洗濯物を外に干そうとすると、それを見かけた聡美は止めにはいる。最近ではこの聡美の決まって部屋干しという変な拘りにも慣れてきた。もちろん、一つ屋根の下で生活を始めた頃には戸惑いがあった。まあ、正直、今でも天気の良い日くらいは外に干したらどうだろう、と思ってしまうこともある。

「ちょっと部屋の中に干してよ」
「今日は天気ええから外に干した方がよく乾くんやけどな」
「外に干したら洗濯物見えへんやないの!」
「・・・え?干してる洗濯物見てたいの?」
「せや。干してるの見てると落ち着くねん」
「へ〜」

これは聡美と同棲を始めた時のことである。

この時、初めて洗濯物は部屋干ししかしないことを知った。と言うのも、どうやら聡美の実家では基本的に部屋干しだったらしい。何故、外に干さないのか理由を聞いても、聡美自身もよく分からないみたいだ。何せ、聡美が生まれた時から部屋干しが基本だったから。だから、聡美の決まって部屋干しという変な拘りは、最早小さい頃からの習慣として身に付いたことなのかもしれない。

私たちが暮らしているのは5階建マンションの4階なのだから、下着泥棒が来るなんて到底考えられない。もしやって来たら、失礼ながらそれはそれですごいことだと思ってしまう。私だったら、お前はスパイダーマンかっ!とツッコミを入れるだろうか。それでも、聡美は部屋干しに拘り続ける。

部屋干しされている洗濯物を眺める聡美を見ると、何だか嬉しそうな顔をしている。嬉しそうな聡美の顔を見れるのであれば、私にはそれだけで十分であった。

同棲を始めた頃には洗濯物を外に干すか、部屋の中に干すかで喧嘩してしまったことがある。私としては外に干したいところだった。部屋の中だとどうしても空気が閉じこもってしまうし、部屋干しをした時の独特の臭いも苦手だった。もちろん、天気の悪い時や梅雨の時期は仕方がないので、私だって部屋干しをするけれど。一方の聡美は部屋干しで育ってきているから、外に干すことに抵抗があったみたいだ。この時は、私も日頃の疲れが溜まっていたせいなのか、少しキツく当たってしまい、言い合いとなってしまった。普段、聡美とはあまり喧嘩しないから、この時ばかりは、聡美を泣かせてしまった。今思い返してみると、奥さんを泣かす旦那なんて最低な男だと思う。申し訳ないことをしてしまった。

聡美は涙を流しながら鼻水を啜る。
「ズッ〜ズズッ〜・・・ス〜」
「ああ、ちょ、ちょっとそれ俺のシャツやから。タオルはこっち、はい」「あ、ごめん。ありがとう。涙で前が見えて無かったわ」
「ズッ、スッ、スッ?うん?ちょう、これタオルじゃなくて私の下着のパンツやんか。何か生地もサラサラしてると思ったら」
「えっ!?嘘っ!?ほんとや!ごめん」
「ええよ。もう大丈夫。何か涙も止まったわ。自分のパンツで鼻水啜る奴なんか、そうおらんで」
「ありがとう。パンツで鼻水啜ったのは聡美が初めてかもしれんで!そのパンツも、このシャツも、もう一度洗濯して部屋干ししやなあかんな。綺麗さっぱり水に流そうや」
「そやね。何か言い包められた感するけど、まあええわ」

もう既にあれから数年経つ。ああ、あんなこともあったっけ。

私はテーブルに座りながら、洗濯物を楽しそうに部屋干ししている聡美を眺めながら、同棲したばかりに喧嘩した時のことを思い出していた。

「ちょっと、何をニヤニヤしながらこっち見てんの?どうせ、またスケベな妄想でもしてたんちゃうの?足組んで、左手で頬杖もついて」

「え?ニヤニヤしてた?別にスケベな妄想なんかしてへんわ。それに、またって俺がいつもスケベな妄想してるみたいやんか!たまにしかしてへんからな!」

私はニヤケ顔になって理由を聡美に説明した。

「そうや無くて、洗濯物干してる聡美を見てると何か嬉しくなってな。このマンションで同棲し始めた時のことを思い出してたんやわ。あの時も最初は部屋干しするしないで喧嘩したやん。ちょっと言い過ぎてしまったし。だから、スケベな妄想やなくて、二人の思い出を振り返って、感傷に浸ってただけや」
「まあ、それやったらええけど。確かに、あの時は、まさか洗濯物の干し方なんかで喧嘩するなんて思わんだわ!やっぱり家庭によって色々とあるんやなって実感した。でも、今では智もこうして部屋干しを認めてくれたから嬉しいわ。ありがとうな、智」
「あの時は喧嘩してしまったけど、部屋干しも慣れたらこっちの方が楽やしな。こちらこそありがとうな」
「よし、あと少しで洗濯干すのも終わりやわ。終わったら買い物でも行く?どうする?」
「せやな、買い物でも行こうか。あんまり遅いとスーパーも人増えてくるしな・・・」

そう言いながら私は、机の上に置いてある黄色の熊のキャラクターがデザインされたコーヒーカップに入ったカフェオレを一気に飲み干した。

そして、買い物に行く為、準備を始めようとした時だった。玄関チャイムの鳴る音が聞こえてきた。

「ピンポーン・・・」

「あら?誰やろか?怪しいセールスか勧誘かな」
「この前もウォーターサーバーがどうのこうのってセールス来てたわ」
「ほんまに!じゃあ、俺行って来るわ」

私は恐る恐るドアを開けてみる。

「は〜い・・・」
「あ、どうも!隣の野江ですけども、これ回覧板ね。また中見て次回してくれる。じゃ、頼んますー」
「あ、はい。ありがとうございます」
「どうやった?」
「お隣の野江さんやったわ。回覧板持ってきてくれた」

私たちが暮らすマンションは、近隣にお年寄りの方も多く居住しているので回覧板なるアナログなものが存在しており、今時の集合住宅では珍しいと思われる。

「野江さん?奥さんの方?旦那さんの方?」
「旦那さんの方やったで。あの人、坂田利夫さんに似てるよな。思わん?」
「え?そうなん。私は奥さんとは何度か会ったことあるけど、旦那さんとはあんまり会ったこと無いわ。旦那さん、入れ歯してるんか知らんけど、何を言うてはるのか全然分からんかった」
「そうなんや。あの人、入れ歯してるんや。今回は回覧板持ってきたって聞き取れたな」
「へー、回覧板は何載ってるん?」
「来月の町内ゲートボール大会のお知らせに、大阪府警防犯ニュースやって。おっ!防犯ニュースにこんなん書いてあるで!『要注意!変態スパイダーマン現る!』やって!8階建てマンションの5階に下着泥棒入ったらしいで」
「え〜!気持ち悪い!それに変態スパイダーマンって、なんかスパイダーマンに失礼やな。ハリウッドに怒られるんちゃうの」
「“下着を盗んで地上に下りようとした時に足を滑らして3階から落下した”って書いてあるわ。“救急車で病院に運ばれるも幸いにも命に別条なし”やって。これ、命に別条無くても、退院したら逮捕されるから人生には影響出て来るよな」
「いや、ほんまや!そこまでして下着欲しかったんかな。もうその辺のお店で買った方が安いやんな」
「世の中、色んな人おるな。こういう危ない人もいてるから怖いけど。そう思ったら部屋干しで正解やな」
「やろうっ〜!私のところはずっと部屋干しやから安心やわ」

私は聡美との何気ない日常の時間が大好きで堪らない。私は聡美の両肩に手を置き、目を見つめた。そして、そのまま私の胸元に抱き寄せようとした時だった。外から変な声が聞こえてきた。

「うわ〜っ!!」

その声で私たちは我に返る。

「え!?聞こえた?今の野江さんの声やんな?何かあったんちゃう」
「何やろう?せっかく良い雰囲気になってたのに・・・ちょっと様子見てみようか・・・もう・・・」

そう言いながら二人で玄関扉を開けてマンションの通路を見てみる。すると、腰を抜かして野江さんが通路に座り込んでいた。

「えらいこっちゃ!野江さん!どうしたんですか?大丈夫ですか?」

私は玄関に置いてあったスリッパを無造作に履いて野江さんの元へと駆け寄った。

「ああ、鴫野さん。大丈夫や、ありがとう。上の階の関目さんがまた間違ってうちに入ってただけやわ」
「え!?う、上の階の人ですか?」

野江さん家の玄関に目をやると、50代前半と思われるおばさんが佇んでいた。なんと、玄関先で靴まで脱いでいたのである。

「すいません、お騒がせしてしまいまして。上の階の関目です。野江さんも本当にごめんなさい。私、ほんっとに天然なところあって、ここ5階やと思って何も疑わずに、また野江さん家に勝手に入ってしまって・・・ほんっまに、ごめんなさい・・・」
「いや、まあ、関目さん、大丈夫やから。以前は初めてやったから私もびっくりしたけど、今回2回目やから大丈夫ですわ。まあ、それでも、びっくりするもんやけど・・・はぁ、はぁ・・・」
「え!?野江さん、今回2回目って、前もあったんですか?」
「まあ、前もね、ちょっと、ありましてん。私とよめはんとで家の中でテレビ見とったら急に玄関開いて、え!?誰やろう?と思ったら上の階の関目さんがリビングに入ってきましたんや。その時も階間違いはってね・・・」
「え?そんなことあんの!?」

驚きを隠せない聡美と私。関目さんを見ると申し訳なさそうにしながらも、顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしていた。

「関目さん、あの、私は本当に大丈夫ですんで、次気いつけて下さいね。今日は、よめはんも出掛けとって私も一人でしたから。かくれんぼにコーヒー飲みに行くだけやしと思って、玄関の鍵を閉めんかった私もいけませんでしたわ・・・あ、いてて・・・」

そう言いながら、野江さんは尻もちをついた体をよっこらせと起こし上げていた。年齢のせいもあるのか、その動作が潤滑油の指されていない、機械のように見えた。

「いえ、野江さんは何も悪くありません。また階を間違えてしまった私がいけないんです。以前も間違えた時、旦那にも息子にもこっ酷く怒られたのに、またやってしまって・・・情け無い・・・本当にごめんなさい・・・」
「いや、関目さん、全然大丈夫ですから。そんな、顔しないでください。未だ上の階の人で知ってる人やから良かったもんですわ。これが知らん人で、しかも、この福寿荘の住人でも無い人やったら、もっとびっくりしまうさかいに・・・」
「ありがとうございます。野江さん、本当にすいません。次からも気を付けますので・・・」
「わかりました。頼みますね」
「すいませんでした。そしたら私は失礼しますね・・・あ、野江さんのお隣の鴫野さんにもご迷惑をおかけしてしまって・・・本当にすいませんでした・・・」
「あ、いえいえ、私らは何も。野江さんの叫び声が聴こえてきて何やろうって思って出てきただけですから・・・どうぞお気になさらずに・・・」
「そうですよ、階を間違えることだってたまにはありますよ。そんな落ち込まないでくださいね、笑顔でいきましょう」

聡美は元気付けたかったのか、笑いながら関目さんに声をかけるも、当の関目さんは大変に気落ちしていたようだった。

「では、野江さん、私らも戻りますので、次からはかくれんぼ行く時も鍵掛けてくださいね」
「鴫野さん、お騒がせしてごめんやで。いや、ほんまやわ。次からは鍵掛けて行きますわ。二度あることは三度あるって言いますしね。こりゃ、またありそうやわ。上の関目さんはおっちょこちょいさんやからな。鴫野さんご夫婦も気いついけてな。若いご夫婦やから尚更やで」
「ありがとうございます。私らも気いつけます。それでは」

この騒動の後、自宅に戻ると既に夕方の4時を回っていた。

「うわ!智、もう4時回ってんで!ちゃっちゃと行こうや」
「うわ!ほんまや!野江ー関目さん騒動でだいぶ時間かかったな。早よ行こか。聡美はその格好でええの?」
「え?なんで?あかんかな?」

聡美は、見たことも、聞いたこともないバンドのライブTシャツに学生時代のジャージのズボンを履いており、正しく部屋着のような格好をしていた。

「いや、別にかめんけど、完全に部屋着やなと思って。でも、まあ、近所やしええか」
「ようゆうわ!智も一緒のような服着てるやんか!直ぐそこの近所やし、別にええやん、これくらい。それよりもちゃっちゃと行こう」
「よっしゃ、じゃあ行こか」

野江ー関目さん騒動が終わり私たちはようやくスーパームへと買い物に向かうことにした。

私たちがよく行くスーパーは新京橋商店街の中程にある昔からのスーパーと、最近新しく出来たばかりのディスカウント系のスーパーで、決まってこの2軒を梯子するのがお決まりのコースだ。他にも商店街にはドラッグストアやパン屋さん、八百屋さん、お菓子屋さんもあるため、寄り道することが多い。

福寿荘から少し遠回りで商店街へと向かっていると6月の西日が眩しい。夕日を見ると自然と涙が出てくるという祖母の言葉をふと思い出した。ただ、この日は既に夏日のように暑く、歩く度に汗が噴き出してきて、涙どころでは無かった。

夕方4時を回ると街中にも学校帰りの学生さんや、仕事帰りの人たちが多くなる。桜ノ宮東公園のベンチには近所の高校の生徒と思しきカップルが二人仲良く座っており、その隣、数メートル離れた所のベンチには、お酒を片手に、既に出来上がったオッちゃんが一人で、鳩に向かって日頃の悪態をついていた。

「智、あれ見て!公園の桜の木の下のベンチ!」
「え?ベンチに座ってる、既に出来上がったオッちゃんのこと?あれ手に持ってんの氷結ちゃうか。顔もだいぶ赤いから5本目くらいやろか」
「あほか!オッチャンとちゃうよ!あの男女の高校生やん!あの二人カップルかな?いや〜いいねー!初々しくて!青春って感じせえへん?あこで告白したりするんかな?」
「ああ、高校生の方か。放課後デート言うやつかな!確かに青春って感じでええなあ」
「あこで告白すると思う?智のこと好きって!」

聡美は嬉しそうに顔を赤くしながらニヤニヤとしていた。私もそれにつられて、聡美に愛の言葉を投げ掛けてみた。

「俺も聡美のこと好きやで」

私が言葉を発したと同時に、良いか悪いのか分からないが、上空には伊丹空港へと着陸していく飛行機が通過した。今にも手が届きそうなくらいに低い高度を飛んでいく飛行機。着陸態勢に入っているのだろう。機体から垂れ下がる車輪の本数まで把握出来るくらいだ。飛行機の音は私の発した声とは比べものにならないくらいに大きく、巨大な飛行機の前では私の声など無力であった。私は飛び去る飛行機の翼の両端で輝く赤と緑のライトが美しく思えて、いつまでも眺めていた。

「え?なに?なんて言うたん?飛行機の音で全く聴こえへんかった」
「え、大丈夫やで。また今度言うわ」
「あ、そう。また今度やなくても今言うてくれてええのに。まあ、別に今度でもええけど」

聡美の顔はやはりニヤニヤとしていて、少し赤くなっているのが分かった。聡美のこういうところはわかりやすい。付き合い始めた頃から何も変わらない。そして、私は聡美のこういうところが好きなのだと、改めて実感した。

そうこうしている間に私たちは1軒目のスーパーへとやってきた。夕方になると多くのお惣菜が売られている。このスーパーでお惣菜を購入して、2軒目のディスカウント系のスーパーでは野菜や果物、それとあてを購入した。

2軒目のスーパーでの買い物も終わり家路につくため商店街を歩いていた。外灯の灯るアーケードには多くの人が歩いており、肉屋さんからは美味しそうな唐揚げの匂いやコロッケを揚げる匂いが漂い、パン屋さんからは出来立てのパンの匂い、ラーメン屋からは食欲をそそる豚骨の匂いが溢れてくる。

飲み屋さんは暖簾を出して開店に向けて準備を始めており、既にお酒が入っていると思われる人が列を成していた。今日も京橋の街に夜がやってきた。そう思いながら私たちは新京橋商店街の中を歩いた。

福寿荘に着いた頃にはすっかり夜の帳が下りていて、1階の喫茶「かくれんぼ」の中の明かりがぼんやりと外を照らしていた。

「かくれんぼはいつ見てもお客さん多いな。ああやって地元の人から愛されているのはええことやし、近所の人らにとっても居場所になるんやろうね。そう言えば、この前、さくらんぼの奥さんに会うて挨拶したんけど、新しいメニュー開発してるねんて。息子さんが頑張ってるらしいで」
「あ、そうなんや。かくれんぼも数年前にマスター亡くなりはって、息子さんが2代目になるもんな。これからお店を支えていかなあかんから大変やろうけど、メニュー増えてお客さんも増えるとええよな。また新メニュー出来たら食べさせて貰わなあかんな」
「ほんまやな。奥さんも感想教えて欲しいって言うてたわ」

私たちがいつものように喋りながら福寿荘の階段を上がっていると、上から軽快な足音が降りてくるのが聞こえてきた。

「おう、莉奈ちゃんやん!これからどっか行くんか?」

莉奈ちゃんとは、私たちの下の階に住む野崎さん宅の娘さんで、亮太という三歳年上のお兄さんもいるが、亮太は就職後程なくして転勤で東京へ行ったきり、東京で奥さんになる方と出会い、結婚をし、奥さん側に婿入りした。なので、今では大崎性を名乗っている。当の莉奈ちゃんは大学を卒業して大阪市内の会社で働いているはずだった。

「あ、鴫野の兄さんに姉さん、こんばんは!これから、かくれんぼで友だちの絵梨と秘密の打ち合わせするねん」
「こんばんはー。秘密って何やろうか?私も混ぜて貰おうかな。智は男やけど、私は女やし!女性同士やからありやんな?」
「え〜!?でも、今回は姉さんもあかんわ。初回やから。でも、もしかしたら今後、参加お願いするかもしれんけど!」
「え〜そうなん!でも、まあ、助けが必要になればいつでも言うてな!私らがあんたらの手となり足となったるで!」
「私ら?って、俺も入ってるやんけ・・・まあ、ええけど」
「そう言えば、あんた最近、朝見いひんやん。前までスーツ着て駅の方に向かって歩いてたのに、何かあったん?・・・あっ!でも全然無理に答えなくてもええんよ。誰だって人生色々あんねんから」
「うん・・・実は、未だあんまり言うてへんねんけどな、私、会社辞めてん。自分のお店持とうと思ってんねん・・・」
「お!ええやん!自分の店か!めっちゃカッコええやん!」
「ほんまかあ!ええなあ!俺も憧れたわ!何のお店するん?」
「今考えてるのは喫茶店?みたいな・・・皆が気軽に立ち寄れて居場所になるようなお店がしたいねん!かくれんぼみたいな近所の人に愛されるお店に憧れるねんけどな!これから、かくれんぼで絵梨と一緒に打ち合わせするねん」
「そっか!それはええことやん!頑張りや!私らもいつでもお助けしたるで!ピンチヒッターは得意やから任しときや!打合せは女の私だけが参加するけどな!智は呼ばんから安心してなー!」
「まあ、焦らず、程々に頑張りや!俺も聡美も出来ることは何でもするから遠慮せずに何でも言うてや!へー、そっか、自分の店か、ええなあ」
「兄さん、姉さん、ほんっまにありがとう!またお二人にも今度話聞いて欲しいねん!今日は絵梨待たせてるからもう行くな」
「はいよー、気いつけてなー」

莉奈ちゃんは肩まで伸びた黒髪を揺らしながら階段を降りて行った。その後ろ姿はどこか晴々としていた。誰しも、夢を持ち、それに向かって頑張ってる姿は美しいと思えた。

「ええなあ。夢を追いかける、人生色々あって面白いなあ」
「ほんまやなあ。私らの頃は卒業したら一つの会社で定年まで働き続けるっていうのが普通って言うか、それが常識、みたいに親からも学校の先生からも言われてたもんなあ。ええ大学行って、ええ会社入り!みたいに」
「でも、今はもう時代がちゃうからな。昔の・・・俺らの親の時とは違って、人生もそれぞれ、10人おれば十通りの人生があるしなあ」
「そう言えば、智は私のせいで結局会社辞めてしもうたやん。ほんまにごめんな」
「何で聡美が謝るねん。聡美は何も悪く無いやんけ。あかんのは会社の方やで!今時、パワハラなんかあかんに決まってるやん!しかも、上司っていう立場の人間やのに。聡美を守る為に俺が告発したら、会社から邪魔者扱いされて辺鄙な部署に飛ばされたけど、結局、辞めて正解やったと思うわ。あの会社はパワハラした上司もそうやけど、それを庇う上の連中もあかんわ。俺もそんな会社でなんか働きたく無いもん・・・」
「ありがとう。私もそう言ってくれてほんまに嬉しいわ。でも、また一から仕事も探さんなあかんやんか。ごめんな」
「そんなん、気にしやんでええよ!仕事なんかまた探せばええだけやねんから。それに、今は莉奈ちゃんみたいに自分でお店するっていう働き方もあるし。昔と違ってやり方も色々あるんやで。だからこそ、人生も色々や。それにずっと働き続けるのは良く無いと思うわ。時には人生にも休息は必要やで。そしたら、今まで見えてこなかった大切なもんが見えるようになった気がするわ。こうやって毎日聡美と暮らす日々や、他愛のない会話が出来ることこそが俺にとって一番の幸せやわ。もちろん、生活する為にはお金は大事やけど、お金が全てや無いからな」
「ほんまにありがとう。私も智と一緒になれてほんっまに幸せやわ!これから、一からの再スタートやけど一緒に頑張ろな!何やったら二人で何かお店してもええで!私らも喫茶店?しよか!」
「ありがとう。せやな、お店するのもありかもしれんな。何やろなあ?ヘルメットカフェとか?ヘルメット着帽でドリンク3割引、ノーヘルでゆで卵プレゼントとか?」
「何やのそれ?マジで言うてるん?私やったらゆで卵食べたいからノーヘルで行くわ。それやと赤字なんで!」
「ほんまやな!あかんなあ」

私にとって過去の事、仕事の事など、どうでもよかった。ただ、聡美とこうして他愛のない会話が出来て、笑い合えることに、心の奥底から感謝せずにはいられなかった。何気ない日常、これこそが私にとっての幸せであった。

私たちは福寿荘の階段から6月の夜空を眺めていた。京橋の夜空は、グランシャトーの色とりどりに輝くネオンで明るく見えた。それはまるで、多くの喝采を浴びながらハイライトに差し掛かる、躍動感に溢れたサーカスのように思えた。

「そういや智、アイス買うてたやん!早よ冷凍庫入れな溶けんで。早よ入ろうや」
「ああ、そうやったな。でも、ちょう待ってや。もう少し聡美とこの夜景見ときたいわ。京橋の色とりどりのネオンのように、色とりどりの様々な人生がある街や。俺らもこの京橋の住人や。俺らの人生も色々とあるけど、きっとこのネオンのように夜空に綺麗に輝くわ。京橋は温かい街や。ええところやでえ」

私たちはお互いの手を強く繋ぎながら、夜空に浮かぶ京橋のネオンをいつまでも見ていた。

「こんばんはぁ〜。いい雰囲気のところごめんなさい、後ろ通させてね」「あ、関目さん、どうも。あの、ここ4階ですけど大丈夫ですか?」「え!?あれ?ここ4階?5階のつもりやったわ。危ないところやった。また間違えるところやったわ。鴫野さん、ほんまにありがとうね」
「いえいえ、そんなお礼を言われるほどじゃないですよ。っと言うより、ここ4階なんで、また階間違えてはると思いますけど・・・」
「しっ!(もう!智、余計なこと言わんでええねん・・・)」

聡美の視線がやけに鋭く感じた。関目さんを見るとまたしても顔が赤くなっていた。やはり、この人は本当に天然な人なのかもしれない。

「あの、関目さん。また今度お茶でもいきませんか?下のかくれんぼでもええですし・・・どうですか?」

何故か聡美は関目さんのことが気になるらしく、関目さんと仲良くなりたいみたいであった。ただ、関目さんの顔を見ると、こちらも満更ではなさそうだった。

「え?いいんですか!?是非行きましょう!嬉しいわ、私ここに引っ越してきて1年程しか経ってなくて、この近所には知り合いもいなかったから・・・鴫野さん、宜しくね」
「こちらこそです。また何でも言うてくださいね。相談でも何でものりますね!」
「ありがとう。そしたら今日はこれで行くわね。いや〜、今日は何だかいい日やわ〜!二人のお時間、邪魔してごめんね。じゃ、おやすみなさい」
「いえいえ。おやすみなさい」

関目さんは階段を上がっていった。私たちも家へと入る。

私たちがこの福寿荘で暮らすようになって早くも5年経とうとしていた。毎回、個性的な住人の皆さんには楽しまさせて貰ってばかりだ。ただ、毎回と言っていいほどに、二人だけのいい雰囲気は邪魔されてしまうのだが・・・

こうして今日も京橋の夜はふけていった。6月の季節外れの暑さのせいなのか、それとも、私たちの甘くて熱い愛のせいなのか、定かでは無いが、購入したアイスは既に溶けきっていた。






第2話 402号室 野江さん 〜家族と「かくれんぼ」〜

「おい、房枝。ちょう、醤油取ってくれるか」

半熟卵の目玉焼きには醤油が一番だ。

「あんた、また目玉焼きに醤油かけてんの?この前、お医者さんから塩分の取り過ぎやって怒られたばっかりやんか!桃谷医院の先生から・・・」
「え?そうやっけ?まあ、医者言うんは患者を観てなんぼやからなあ。歯医者かて一回で済みそうな治療やのに三回四回と来させるやろう。薬屋かって、患者が薬漬けになって八十、九十くらいまで生きてくれる方が嬉しいねんて。そっちの方が儲かるねんから。なあ」
「また、あんたはそういう捻くれたこと言うやろう。もう昔から!そういうところだけは全然変われへんな。まあ、そういうところに惚れてしまったのは私やけどな・・・」

房枝の顔を見ると、私に対する呆れ顔と、自分の発言に恥ずかしさを覚えたのか、顔を赤くしていた。そんな房枝を横目に、目玉焼きを食べながらテレビの画面へと視線を移す。

「お、テレビ見てみい!去年の阪神優勝パレードの特集しとるで。すっごいなあ、こりゃあ」
「いやあ、ほんまや!こりゃすごいなあ、あんた?ええ?こんなぎょうさん人来てたんやな!」
「俺も昔、お袋におぶられて南海のパレード見に御堂筋行ったわ。親父も一緒やったけど、途中で行方不明になったらしいねん。2〜3時間待っとっても、見つからんかったから、お袋は先に市電乗って家へ帰ったらしいわ。夜になって、親父、家帰って来たんやけど、どこ行ってたと思う?」
「お義父さんのことやから、一人で迷子なってたんとちゃうの?あんたもたまに一人で迷子になるやないの」
「え?俺そんな迷子なってるか?まあ、自分では気付いてへんだけかもしれんな。で、親父やけどな。よめはんと息子ほっといて、一人パチンコ行ってたんやて!お袋曰く、その後数日間は口利いたらへんかったらしいわ。俺も生まれたばかりやったから全然記憶にあれへんけど」
「私もあんたがパチンコばっかり行き出したら口利かんようにしたるわ。そういや、今回の阪神のパレード、あんたの同級生のあの人見に行ってたんやろう?誰やっけ?何とかさんいう人やんなあ?あかんわ、思い出されへんわあ」
「何とかさんいう人って、皆何とかさんいう人やないかあ。あれや、星田や!あいつ、よめはんと見に行ったって言うてたわ。星田は昔っから阪神一筋やからなあ」
「せや!星田さんや!そういや、かくれんぼのマスター、もうすぐ三回忌になるんとちゃうの?あんたら三人、昔からの同級生やったんやろう?」
「ああ、丈ちゃんな。もう亡くなって三年経つんか。早いなあ」
「また三人揃って飲まなあかんやん。今回もかくれんぼでするん?」
「せやなあ。星田に聞いたるか。今年はどうするか。電話したろ」

私は最近息子から勧められて購入した簡単スマホという携帯電話から星田に電話をかけてみた。携帯電話と言えば、以前まで主流だった二つ折りでダイヤルボタン付きのものしか触ったことが無かった。新しく買い替えるタイミングで、息子からの勧めもあり簡単スマホというものに替えてみたが、これはけったいな機械だなと思ってしまう。

「プルプルプルプル、プルプルプルプル、プルプルプルプル」

スマホ越しに、星田の携帯電話の呼び出し音が聞こえてきた。

「プルプルプルプル、プルプルプッ・・・」

「・・・はい、星田です」
「もしもし!俺や!野江ですけども」
「おう、野江か。俺や!星田や」
「知っとるわ。もうすぐ丈ちゃんの三回忌やろう。今年どうするか思ってな」「そやな。もう3年なるか。早いもんやなあ。ちょう待ってな」

すると、受話器の向かうから聞いたこともないような星田の優しい声が聞こえてきた。

「じいじ、ちょっとお友達と電話してくるから、悪いけどお母ちゃんとばあばのところ行っといてくれるか。ごめんやで」

どうやら、星田はお孫さんと一緒のようだった。

「ああ、すまんな。孫と一緒やってな。今、奈良健康ランド来てるんやわ」「ほんまか。今電話大丈夫なんか?」
「ああ、大丈夫や。孫も一人で行動出来る年頃なったさかいにな。それでも未だちっこいけどな」
「星田、お前のところのお孫さん、中学生言うて無かったか?まだ他にもいてたんか?」
「中学生は息子のところの孫や。今のは娘のところや。三年くらい前に結婚して生まれた子や」
「ええなあ。俺のところは孫の顔見るのなんか盆と正月くらいや。一人は未だ家におるし、かなんわ」
「中学生くらいになったらそんなもんやで。息子のところも盆と正月くらいしか顔見せに来やんわ。家におるって息子か?」
「どこもそんなもんか。そうや、息子は未だ実家暮らしや。娘の郁美はもう結婚して出て行ったけどな」
「そうなんか。でも、実家にいてくれてるいうんは有り難いことなんやで。一緒に飲んでもくれるし、いざ家出るってなったらどんなに寂しくなることか。出て行った直後は清々するけど、後から寂しくなるもんや。まるで女に振られたみたいにやな!」
「何をしょうもないこと言うてんねん。ほんで、いついけるんや?」
「ほんなら、明後日でもええか?今晩はここで泊まって帰るさかいに」
「ほな、明後日頼むわ。いつも通りかくれんぼに19時な」
「はいよー。お前も息子と仲ようせえよ」

星田との電話が終了すると、既に午後3時を回ろうとしていた。孫と健康ランドに行く星田のことを羨ましいと思いながらも、ずっと家にいてる息子との関係性に悩んでいたのも事実であった。確かに、息子とお酒を酌み交わすなんてことは、ここ数年の間は一切していない。久しぶりに息子とお酒を飲むのもありかもしれない。

「星田さん、どうやったん?」
「ああ、今は孫らと奈良健康ランド行ってるみたいや。明後日、いつも通り会うことになったさかいにな。」
「そうなんや。奈良健康ランドか。ええなあ。最近全然行ってへんだから、久しぶりにゆっくりしたいわあ。私らも前はよう行ってたのにな。あんたが警察呼ばれた時は大笑いしたわ」
「あれには参ったわ。努ちゃん、身体拭いてあげてる途中に急に走り出すんやで。俺も必死になって追っ掛けたわ。努ちゃんはロビーで捕まえたから良かったけど、俺パンイチのままやったから、ロビーにおった若い女の子に叫ばれるわ、それ見てた誰かが警察呼ぶわで、大変やったんやで。ほんで、ちょっとしたら、ほんまに警察来て、事情聴取されるしで」

努(つとむ)とは郁美の子どものことである。今は中学二年生になり、部活や勉強の忙しさもあってか、会うことは少なくなったが、小さい頃はよく遊んであげたし、我が家も奈良健康ランドへはよく連れていってあげていた。

「ほんまにあれは傑作やったわあ。また努ちゃん誘って行こか!でも、もう中学生になったら来やんかあ。あーあ、あこのソフトクリーム美味しかったわあ。また食べたいわ」
「ほんま、他人事やなあ。大変やったんやで!今日日の中坊は色々忙しいねん!で、またソフトクリームて。温泉とちゃうんか!ほんまに、何でも食べ物やんけ」

私は房枝の食べ物に対する執着には驚くばかりであった。

「そういやあ、今日は克也おらんのか?」
「え?今日は学生時代の同級生と久しぶりに京都で会うって言うて朝から出て行ったやないの」
「あ、そやったかな。忘れてたわ。かんにんやで」
「別にかめへんけど、なんで?克也に用あんの?珍しいやん、あんたから克也の名前出るのなん」
「たまには親父と男同士、酒を酌み交わすのもありちゃうかって思っただけや。でも、まあ、久しぶりに同級生と会ってるんやったら飲んで帰って来そうやな。しゃあないな」

克也との晩酌はまたの機会とした。房枝は買い物にでも行くのか身支度を始めていた。身支度と言っても、目元を多少弄るだけだ。顔の下半分はマスクで隠せるから何も触らないらしい。

そんな房枝を横目に、私はテレビの夕方ワイド番組に目を移す。

「買い物行ってくるけど何かいらん?」

テレビ番組に集中していたあまり、房枝の声が聞こえてこなかった。

「あんたー!ちょっとー!あんたーってば!」

またしても房枝の声が聞こえてきた。どうやら、玄関から叫んでいるらしかった。

「なんやっー!」
「買い物行くけど何も要らんのー?」
「シャベル買ってきてくれー!」
「わかったー!行ってくるで!」

房枝は買い物に出て行った。来週、町内会の清掃活動があり、側溝の中の泥も掻き出さないといけない。房枝にシャベルを買ってきて貰っておけば、自分で買いに行かなくても済む。

私はいつの間にか眠っていたようだった。壁に吊るされた時計を見ると房枝が出て行って既に3時間程経っていた。外を見ると、すっかり日も暮れて街灯が灯っていた。いつもならもっと早く帰ってくるのに、今回はえらく時間が掛かっていた。

「ただいまっー!」

玄関から房枝の声が聴こえてきた。ちょうど、今、房枝も帰ってきたところだった。房枝の足音と息切れした様子から、リビングに向かって歩いて来ているのがわかった。

「ただいまー、はぁはぁ、はぁはぁ。暑いわー」
「なんや、遅かったやないか。どこまで行ってたんや」
「あんたがあれ欲しい言うから、それも買いに行ってたんや」
「おおっ!シャベル、買うて来てくれたんか!助かるわー!来週、町内会の掃除で側溝も掃除しやなあかんねや。ありがとうな」
「え?」
「え?」
「い、今、何て言うた?」
「え?シャベルやけど。シャベルとちゃうんか?」
「え?CHANEL(シャネル)って言うたんとちゃうの?」
「CHANEL?いや、シャベルやで」
「ほんまに?私、CHANELのスマホケース買ってきたんやけど」
「え?房枝、お前、CHANEL言うたらブランドもんやんけ!そんなんに金使うたんか?何考えてるんや?」
「せやで、ブランドのCHANELやで。私、てっきり、先月あんたの誕生日に何もプレゼント渡さんかったから、それで不貞腐れてるもんやと思って・・・」
「せやかて、CHANELって・・・いったい、なんぼしたんや?」
「そんなしてへんよ・・・一万くらいや・・・」
「一万て!何考えてるんや!?だいたい、俺が不貞腐れるわけないやろう!」
「そんな言い方せんでもええやないの!私かて、あんたに喜んで貰おう思っただけやないの・・・」

私たちは言い合いになってしまった。まさか、シャベルと伝えたはずが、房枝にはCHANEL(シャネル)と受け取られていたなんて露にも思わなかった。それに、この年齢になって誕生日のプレゼントがどうのこうのと気にすることも無い。

「ただいまー」

私たちが言い合いをしている最中に克也が帰ってきた。ただ、お互いにヒートアップしていたようで克也の帰宅には気が付かなかった。

「ただいま!親父とおかんは何を喧嘩しとんねん!?」
「なんや、克也、あんた今日は大学の同級生と会うから帰りも遅くなるって言うてたんとちゃうの?お母ちゃん、夕飯作ってへんで」
「いや、あいつ、仕事の都合で今日中には東京帰らんとあかん言うから、早目に切り上げてん。えー!?腹減ったわ。で、何を喧嘩してるんや?」
「なんや、そうかいな。喧嘩の原因はな、お母ちゃんがあかんねん。買い物行くのにお父ちゃんに何か欲しいもんあるかって聞いたら、シャベルって言うたんやけど、お母ちゃん聞き間違えてCHANELやと思って、CHANELのスマホケース買ってきてん」
「シャっ、シャベルとCHANELを聞き間違えたんか!?傑作やなあ!ここ最近で一番おもろいやん」

克也は笑いを我慢できずに大爆笑していた。私も房枝の間違いに腹が立っていたのだが、久しぶりに見る克也の笑い顔を見ると、何だか気分が鎮まってきた。

「克也、お前他人事やけど笑い事ちゃうねん。俺にCHANELのスマホカバー買ってきたって言うて、これ幾らしたと思う!?一万もしたんやで!」
「すまん、すまん。お母ちゃん、一万て、どこで買ったん!?CHANELのスマホカバーなんか、一万じゃ買われへんやろう?もっとするはずやで!」
「それな、鶴橋で買うてきてん。みっちゃんおるやろう?私のパートが一緒やったところで働いてた若い女の子。その子に相談したら、鶴橋で安く買えるって教えてもろうてん」
「鶴橋って!?お母ちゃん、それパチモンちゃうの!?ほんまもんやったら、そんな一万じゃ買われへんって・・・」
「嘘ぉー!ほんまに!?これパチモン!?」
「房枝、お前、パチモンに一万も払ったんかいな!なんちゅうやっちゃ!もう、かなんなあ」
「ようゆうわ、あんたかてシャベルてはっきり言うてくれたら良かったんや」
「なんやて!?わしのせいやって言いたいんか!?そんなあほな!」
「せや!あんたのせいや!あんたがもっとはっきり言うてくれたら私かて鶴橋なんか行ってなかったわ」

ますます、私たちの言い合いはヒートアップしてきた。するとそこへ克也が割って入ってきた。

「もう、わかったって!おかんも親父も喧嘩すなよ!そのCHANELのパチモン、俺が使うわ!別にええやろう?来月、ちょうど誕生日やし二人からのプレゼントやち思って貰っとくわ!それに、親父もシャベルやったら、下駄箱の隅にオレンジのシャベル置いてあるやんけ!春に俺買うてきたやんけ」
「克也、あんた・・・ごめんなあ。私もつい言い過ぎたわ。お父ちゃんもかんにんやで。克也にやってもええな?あんた?」
「ああ、克也に使ってもらうのがちょうどええわ。克也もありがとうな。わしもついカッとなってしまってな。いらちでも何でも無いのにな。房枝も悪かった。かんにんな。前、克也にシャベル買ってきて貰ってたのも忘れてたわ。あかんたれやな」
「よっしゃ!これで仲直りも終わりや!今日は飲んで買えるつもりやったけど、結局、飲んで無いから飲みたい気分やねん。久しぶりに皆で飲もうかあ。明日も休みやし。おかんに親父も、ええやろう?」
「そやな!あんたもええやろう?私はあての準備でもするわ」
「久しぶりに皆で飲もうか。冷蔵庫に缶ビールも入ってたな。克也が買うてきてくれた尾道かどっかの地酒もあったんちゃうか?」
「なんや、親父、まだ飲んでなかったんか?尾道行ったのなん去年やんけ」
「そりゃ、どうせやったら克也と一緒に飲みたいと思ってたんや。まあ、ちょびっとだけ味見したけどなあ」

私たちはお酒をテーブルの上へと並べた。ラップに包まれたテレビのリモコンでチャンネルを変えると、ロードショーがやっていたので、それに合わせる。

「克也の好きな映画ちゃうんか?これ?宮崎の息子さんが作った」
「せや。これは何回か見たことあるわ。でも、同じ血を引いてても親父さんとは同じようにはならんねんなあ。息子は息子の味が出んねんやろうなあ」
「これ、克也とお父ちゃんの好きなあてな。克也はこれに醤油つけて食べるんやろう?お父ちゃんは何もつけへんのに。あんたらも宮崎親子みたいやな」

房枝が持ってきてくれたのは胡瓜を細長く切り、塩と鰹節がまぶしてあるだけの素朴なものだった。私は無いもつけずに食べるのだが、克也はそれに醤油をつけて食べる。

「じゃあ、乾杯しよか!仲直りと、あと、何や?何かの記念やな!」
「房枝と言い、克也と言い、何かが多いなあ!昔から何かやな」
「ええやないの!お父ちゃんかて、克也と何か似てるところあるんよ」
「そうや、かめへん。親子さかいにな」
「じゃあ、仲直りと、何かの記念に乾杯!」
「乾杯!おめでとうさん」
「おおきに〜」

三人はグラスに入ったお酒を目線の高さでぶつけ合う。お酒の入ったグラスがぶつかり合う良い音は、部屋中に響き渡った。さらに、グラスを持ち上げる度に、中に入った氷がグラスに当たり良い音を奏でている。

「いや〜、旨い」
「克也のお土産のこの地酒も美味いわ。ありがとうな」
「別にええよ。親父飲むの好きやったからな」
「克也・・・すまんな。今日はほんまにありがとうな。最近、克也と飲めんかったから、今日は嬉しいわ」
「何やねん、急に。でも、俺もすまんかった。最近あまり親父と口利いてへんだから、今日は嬉しいねん。この年齢になってまで家にいてるのも申し訳ないなとは思ってるねん」
「克也、お前・・・別にかめへん。気にするな。わしらの時代は早く結婚して家出るのが普通やったけど、今は時代が違うさかいに。こうして息子と飲めることも、同じ屋根の下で暮らしてるからこそや。なあ、房枝もそう思わんか?」
「お母ちゃんは別にどっちでもええよ。克也は毎月家にもお金なんぼか入れてくれるさかいに。そりゃ、家出ていかれると寂しいけどなあ」
「お母ちゃんも親父も、そんな顔するなや。別に俺は出ていかんし、相手もおらんわ」
「そっか、ほんならわしも安心やわ」
「お母ちゃんも安心やわ。克也おらんくなるとお父ちゃんと二人だけやと寂しいもん」
「ほんまやわ。今晩は久しぶりにぎょうさん飲んだらええわあ」

久しぶりに三人で飲むお酒は、夏の屋上ビアガーデンで誰かと飲むどんなお酒よりも、身に染みるものであった。この日は夜遅くまでお酒を飲み、語り明かした。

「房枝、今からかくれんぼで星田と会うてくるわ。夕飯も食べてくるさかいに。飲んでくるから遅なってもかめへんか?」
「かめへんよ。飲んでくるのはいつものことやないの」
「おおきにやで。行ってくるわ」

私は玄関を開けて外に出る。外はすっかり暗くなっていた。お隣、403号室の鴫野さん宅からは楽しげな二人の声が聞こえてきた。何やらアイスクリームが溶けてしまい、それをどうするかで、わちゃわちゃしているようだった。

「お隣さんもおもろい夫婦やな、ほんまに」

私は福寿荘の階段を下まで降りると、そのまま1階の「かくれんぼ」へと入った。かくれんぼの店内を見渡すと奥の席で星田が腰掛けて待っていた。

「いらっしゃい、野江さん。星田さん奥にいてますわ」
「裕輝くん、おおきに。今日は店番一人かいな?弥生ちゃんは?」
「お袋は買い出し行ってます!直に戻ると思います」
「そっか。今日もお邪魔するけどかめへんか?」
「ええ、どうぞ!先客いてますけど、ゆっくりしていって下さいね」
「おおきに」

私は星田のもとへとかくれんぼの店内を歩いていた。すると若い女の子の二人組に声をかけられた。先客とはこの二人のことだった。一人は同じ福寿荘に住む野崎さん宅の娘さんの莉奈ちゃんだ。もう一人は莉奈ちゃんの幼馴染の絵梨ちゃん。二人のことは小さい頃から知っている。

「野江のおっちゃん、こんばんはあ」
「おう、莉奈ちゃんに絵梨ちゃんか」
「なんや、二人で恋バナっいうのでもしてるんか?」
「え〜!?ちゃうわ〜!まあ、でも秘密の打合せしてるねん!」
「そっか。そりゃええこっちゃ。二人はもう何歳になるんや?」
「絵梨、うちら何歳なった?」
「莉奈ボケてんの?やめてや〜!うちら、もう27歳やん」
「自分ら二人27歳か。若いな〜ええな〜、おっちゃん羨ましいわあ〜」
「“もう”27やで!四捨五入したら30やん!」
「そんなこと無いわ。仮に30やったとしても、まだまだ若いわ。まだまだこれからやな〜。頑張りや〜」
「おっちゃん、ありがとうな」

星田のもとにやってくると、星田はスマホの画面に夢中であった。星田は機械系に強いから最新のスマホを使っている。

「星田、すまんな。遅くなって、かんにんやで」
「おお、野江。かめへんよ。先にコーヒーだけ頼んでしもうたわ」
「おお、そうか。じゃあ俺は生でも貰おうか。星田はええか?」
「そしたら、俺も頼むわ」
「裕輝くん!生二つ頂戴!」
「はいよ!」

星田が触っていたスマホを見てみると、私の持っているそれとは大きさが一回りも大きく見えた。

「星田の使ってるスマホは、俺のと一緒か?俺の簡単スマホやけど」
「野江のと一緒にせんでくれや。これはまた別のやつや。簡単スマホでも無いな」
「ほんまか。そう言えば、お前のお陰で息子の克也とも仲直り出来たわ。ありがとうな。久しぶりに三人で酒飲んで旨かったわあ」
「お!ほんまか。そりゃええことやないか。克也君も随分見てへんけど元気にしてるか?」
「ああ、元気にしてるわ。もう30代半ばになるで。今じゃ趣味に打ち込んでるわ」
「ほんまか、そんななるか。裕輝くんと同い年やったかな?」
「どやったかな?ちょう、聴いたろ!裕輝くん!」

かくれんぼの2代目マスターとなる裕輝くんは、注文していた生ビール三つと、先代のマスター(丈ちゃん)の写真を手に持ってやって来た。

「はい、お待ちどうさん。これ生ビールと、マスターの写真ね」
「おお、裕輝くん、ありがとう!写真もありがとうな!いつ見ても丈ちゃんは男前やなあ!」
「はははっ!マスターも喜んでますわ!ところで、野江さん。どうしはったん?」
「いや、裕輝くんは俺の息子の克也と同い年やったかな?」
「いや、克也くんの方が2〜3歳下ちゃいます?確かそうやった気しますけどね」
「そっか。それならええねん!わざわざありがとうな」
「いえいえ、ゆっくりしていってください」
「克也の方が下やったわ。せや、思い出したわ!確か、丈ちゃんところが先に子ども産まれてお祝いしたもんな!覚えてへんか?」
「そうや、そうやった!皆で丈ちゃんところにお祝い行ったんやったなあ」
「せや。でも、もうそんな丈ちゃんも亡くなって3年か。早いもんやなあ」
「ほんまに。急に亡くなった。俺らの世代では早い方ちゃうか。まだまだこれからやったのになあ」
「・・・今年は3年目や。盛大に囲んであげようや」
「そやな。俺らで囲んでやろか」
「丈ちゃんに献杯・・・」

木目の写真額縁に入った丈ちゃんの顔写真と、丈ちゃんの分の生ビールをテーブルの上に置いて、私たちは親友の命日を偲んだ。

「カランッカランッ」

程なくすると、かくれんぼの扉の開く音が聞こえてきた。どうやら丈ちゃんの奥さん、弥生が買い出しから戻ってきたようだ。弥生は丈ちゃんとは高校の同級生にあたる。高校時代からの付き合いでは無く、卒業して数年後の同窓会で再開してから付き合い始めたらしい。

「裕輝、ただいま」
「お母ちゃん、おかえり。野江さんに星田さんも奥にいてんで!写真も渡してあるから!」
「ほんまに?ちょびっと挨拶だけしてくるわ」

私たちがお酒を飲み、昔話に花を咲かせていると、弥生が歩いてきた。いつ見てもスタイルの良い、綺麗な歩き方をしている。丈ちゃんと結婚して、かくれんぼで働くまでは、ミナミの百貨店で受付嬢をしていたらしい。

「野江さん、星田さん、いらっしゃい。いつもありがとうございます」
「ああ、弥生ちゃん、買い出しから戻ってきたんか」
「弥生ちゃん、こちらこそ、ゆっくりさせて貰ってほんまにおおきにな」
「ありがとうございます。どうぞゆっくりしていってくださいね」
「弥生ちゃん、今年は丈ちゃんの三回忌やな。俺らもこうして三人で囲んで飲めて嬉しいわ」
「野江さん、星田さん、ほんまにいつもありがとう。あの人も喜んでると思います。私も嬉しいですわ」
「いやいや、俺らも丈ちゃんとは小学校からの長い付き合いさかいにな」
「ほんまにありがとう。嬉しいわあ・・・あ、そうだ。片付けがあったんやわ。ごめんなさいね。どうぞ、ゆっくりしていってね」

そう言い残して弥生はカウンターの奥へと消えていった。しばらくして、私たちのやり取りを聞いていたのか、莉奈ちゃんと、絵梨ちゃんが話しかけてきた。

「野江さんと、星田さんと、かくれんぼのマスターは同級生やったん?」
「そやで。小学校からの付き合いやわ。小中と一緒で高校が別々になったけどな。それでも高校生の頃もよう遊んだわ。お互いに学校抜け出しては、ミナミの喫茶店でようサボってたな。確か、湊町の駅近くやったかな」
「そうなんや!私らと一緒やな。私も幼稚園からの幼馴染やもんな」
「そっか。あれやで、今はええけど。歳いったら急に逝ってしまうことあるさかいにな。友だちは大切にしやなあかんで。友だちだけとちゃうけどな」
「色々教えてくれてありがとう!私らも歳いったら野江さんや星田さんのようになりたいわ!」
「自分らやったら大丈夫やわ!心配あらへんわ!」
「ありがとう!そう言ってくれて嬉しいわ」

そう言い残すと、莉奈ちゃんと絵梨ちゃんの二人は元いた席へと戻っていった。

「よっしゃ、ほんなら星田、次はいつする?」
「俺はいつでも大丈夫や。前の日に明日しようって言われてもそれは困るけど」
「そんな急には言わんわ。それも俺も無理やからな」

私は手帳を開いて予定を確認した。予定というほどのことも、それほど無いのだが、昔から手帳を持ち歩いていないと気が済まないタイプである。

「じゃあ、来週の金曜とかどうや?いけるか?」
「来週の金曜やな。大丈夫やわ。じゃあ来週の金曜で」

そう言いながら、星田は手元のスマホを操作している。その使い様を見ていると、すっかり様になっていた。さすが、星田であった。機械音痴な私からすると、簡単スマホの操作一つでも一苦労するくらいだ。それにもかかわらず、星田は私のよりも大きなスマホを難無く操作している。

「何してるんや?それ?」
「ああ。スマホの予定表に予定を入力したんや。これ1台あれば手帳も必要無くなるでえ!」
「よう、器用なことするなあ。わしには無理やわ。手帳がしっくりくるわ」
「そうか。まあ、手帳にも手帳の良さがあるからなあ」
「せやな。丈ちゃんもよう手帳持ち歩いてたわ」
「それが、流行りみたいなもんやったさかいにな」
「今じゃスマホ1台で何でも出来るわ。ほんま、便利な世の中になったわ」
「ほんまにな。こんな世の中になるとは思わんかったなあ。あの頃は」
「でも、便利になればなる程、何かを失っているような気もせんでは無いけどな・・・」
「何やろうな・・・人間らしさ、人間味と言うのか・・・汗水垂らして、泥クサイところ・・・一番無くしたらあかんところが、無くなっていくのかもしれんなあ・・・」

そう言いながら、左手の腕時計を確認する。長針が12と11の間を指しており、短針はほぼ9を指していた。もうすぐ夜の9時になろうとしていた。かくれんぼの柱に吊るされた古い時計も同じく夜の9時になろうとしていた。

「お、もうこんな時間や。もう、出よか」
「お!ほんまやな。もう9時になるか。早いなあ。今日も飲んだわあ」
「星田、お前、そんな言う程、飲んだかあ?」
「最近、酒には弱くなるばかりや。酒にも弱く、女にも弱く、孫にも弱くや!また健康ランド連れていったらんとなあ」
「何をしょうもないこと言うてんねん!まあ、孫は可愛いもんやからしゃあないわな。今のうちやぞ」

私と星田はかくれんぼの席を立ち上がり、入り口へと歩いた。既に夜も9時を回っているというのに莉奈ちゃんと絵梨ちゃんの二人は未だ喋っている。テーブルの上にノートを開いて、何やら見取り図のようなもの描きながら。私たちはカウンターでお金を支払った。

「まいど、ありがとうございます!また来てくださいね」
「裕輝くん、ごちそうさん。弥生ちゃんはもう先に帰った?」
「すいません、お母ちゃんは先に自宅へ戻りました」
「いやいや、また宜しく言うといてな!また寄させてもらうさかいに。あとこれ、マスターの、お父ちゃんの写真な。今晩も囲んでお酒が飲めて良かったわ」
「いえいえ。こちらこそ、ありがとうございます!」
「じゃあ、ごちそうさん」
「あ!野江さん、星田さん、お酒飲んだんやろう?その辺で寝たらあかんで!」
「もう、かなんなあ。自分らも、早う帰りや!もう9時過ぎてんで!裕輝くんかって帰られへんねんから」
「は〜い。うちらももう直ぐしたら帰るわ」
「そっか。気いつけてな。おやすみ」
「おやすみ」

かくれんぼの扉を開ける。扉についた大きな鐘の音と共に、外へ飛び出すと、すっかりと夜の深まった京橋へと変貌していた。この感じが堪らない。若き日の頃、三人で歩いた京橋の夜が走馬灯のように脳裏を過ぎる。飲み屋の軒先で揺れる赤提灯、バーの入り口でぼんやりと煌めく、今にも消えそうなネオン、絶えず笑い声や歌声が聞こえるスナック。

私と星田は夜の京橋の街を歩いた。

ほんのりと聞こえてくるのは、人々の幸せに包まれた笑い声と、高架橋を走り去る電車の音だった。京橋の夜はこうでなくてはならない。

私たち三人にとって京橋は思い出の街である。






第3話 502号室 関目さん 〜家族のような京橋〜

私たち家族は福寿荘に引っ越してきて、未だ1年程しか経っていない。引っ越してくる以前は、大阪の交野市に住んでいた。交野市は枚方市や寝屋川市、守口市、門真市、四條畷市、大東市と同じく北河内と呼ばれるエリアに含まれており、大阪市内や京都・奈良へ通勤・通学する人たちも多く暮らす、言わばベッドタウンだ。また、豊かな自然も直ぐ近くにあり、心地のいい場所であった。

そんな交野市から京橋へと引っ越しすることになった理由は、京橋近くで一人で暮らす夫のお義父さんの面倒を見る必要が出てきたからだった。しかしながら、結局、夫のお姉さんが面倒を見ることになったのだが、既に私たちが引っ越しを終えた後になって決まった。

今では京橋で暮らす私たち家族は夫と私、それに子どもが二人の4人家族。子どもたちは二人とも男兄弟で、上の子は今でも一緒に暮らしているものも、下の子は就職と同時に東京で一人暮らしを始めた。おめでたいことに、昨年、東京で知り合った素敵な人と結婚したばかり。上の子は独身だけど、一美ちゃんと言う素敵な彼女がおり、私たち夫婦も何度か食事を共にした。

「一樹、これ一美ちゃんにどうかな?京阪モールで売ってたんやけど」
「お母さん、これサイズ少し小さいような気するわあ。一美が好きそうな色合いやとは思うんやけど・・・」
「え?ほんまに?私より少し身長低いくらいじゃなかった?」
「いや、お母さんより少し高いで。俺と一緒くらいやもん」
「あら?そうやっけ?じゃあこれは私が着るわ」
「一応、一美にも聞いてみようか?お母さんが水色の花柄ワンピース買うてきてくれたって」
「ええよ。また別の時に見掛けたら、もっとええの買うてくるわ」
「それやったらええけどお」

息子の一樹に彼女が出来たのは今に始まった事ではない。高校生の時も、大学生の時も彼女がいたと思う。紹介はされ無かったかな。ただ、いつの間にか、ハンカチが増えていたりして、それとなく彼女がいることを察していた。大学生の時にお付き合いしていた彼女とは、一度だけお会いしたことがある。当時、住んでいたマンションの近所にあるファミレスで会うことになったのだが、私がお店を間違えてしまった為に、軽い挨拶だけで終わってしまった。詳しくは聞かなかったけど、大学卒業と同時にその彼女は東京で就職。その時点で、別れてしまったのだとか。今の一美ちゃんと出会ったのは、就職してから。バレーボールの社会人サークルで出会ったとか言ってたかな。

一樹は高校生の頃からバレーボールに熱中していた。上達が早いのかどうかは分からないけれど、レギュラーとして試合に出ることもあったみたい。大学生になってからもバレーボール部に所属していたし、社会人になってからも地元のバレーボールサークルに顔を出しては練習したり、コーチとして教えたりしているらしい。そこのサークルで出会ったのが一美ちゃん、というわけ。

お互いに気が合うタイプで、一美ちゃんの前だけで見せる息子の姿は、私たちには今まで見せたことが無く、どこか別人のようにも思える。親の知らないところで、子どもたちは大きくなるのだなと思うと、もしかしたら子離れ出来ていないのは私の方なのかもしれない。

私は平日の朝から午後3時ごろまでパートの事務員として働いており、旦那は電気工事の自営業を営んでいる。一樹は大阪の会社に勤めている。

私の天然な性格は昔からで、今に始まったわけでは無かった。今でもパートとして勤めているが、会社にも迷惑をかけてしまうことが多い。つい先日も。ちょうど、午後3時も回り、勤務時間も終了したので更衣室にて制服から着替えている時だった。取引先やお客へ郵送する書類を駅前のポストに投函しようと思い、封筒を何通かロッカーへと持ち込んでいた。着替えも終わりロッカーの鍵を締めて、会社を後にした。その時は気が付かなかったが、封筒をロッカーの中に入れたままにしてしまった。

ちょうど次の日は有休を貰っていたので休み。さらに、そのまま土曜日・日曜日と休みが続く。次の出勤は週明けの月曜日だった。そして週明けの月曜日、出勤してきてロッカーを開ける。その時初めて、封筒を投函するのを忘れたことに気がつく。私は急いで担当の営業さんに報告し、取引先やお客さんに電話をして、謝罪する。幸いにも、そこまで急いでいるところは無かった。また、FAXで送信してくれれば良いとも言われた。私は胸を撫で下ろした。

しかしながら、その日は仕事のミスのことが頭から離れ無かった。午後3時を回り、会社を退勤する。駅までの道のりも、電車の中でも、ひたすらに一人反省会。京橋駅から福寿荘への道中も頭の中はミスのことばかり考えてしまう。そんなことを考えていると、私はまた天然な力(?)を出してしまう。私は新京橋商店街を抜けて、二つ目の角を曲がったところの、住宅の側の電信柱の影でヒールを履き直していた。サイズが合わないのか、靴擦れしていた。時を同じくして、近所の小学生の女の子が一人で下校してきたところだった。私は自分では全く気が付かなかったが、どうやら一人でブツブツと今回のミスのことを呟いていたらしい。ヒールを履き直しながら割と大きな声で。それを見た小学生の女の子は不審者と思ったらしい。

「おばさん、何してるの?」
「え?」
「そこ私のお家。おばさん・・・もしかして不審者?」
「え?いや、別にそういうわけじゃ・・・」
「不審者や!不審者や!不審者や!」
「え?いや、違う!違う!って!」

その女の子は、大声で叫びながら背中で背負っている上半身分くらいはあるであろう大きなピンクのランドセルの脇から伸びた防犯ブザーの紐を引っ張った。次の瞬間、甲高い音が街中に響き渡る。

「ギュイィーンッーギュイィーンッーギュイィーンッーギュイィーンッーギュイィーンッーギュイィーンッーギュイィーンッー」

あまりにも大きな音を発するので、私もその女の子も耳を塞ぐ。防犯ブザーの音は、何か得体の知れない生き物の鳴き声のようにも思えた。あれだけ鳴り響くと何事かあったのではないかと、周辺の住宅からも人が出てくる。私がヒールを履き直していた電信柱の側の住宅からも、若そうな見た目の女性が出てきた。この女の子のお母さんだろうか。

「李梨奈!李梨奈!防犯ブザー止めて!紐は?紐はどこ?」
「・・・・・ここ」
「貸してっ!」

「ギュイィーンッーギュイィーンッーギュイィーンッーギュイィ・・・」

女の子の小さな手から防犯ブザーの紐を手に取った母親は、素早く娘のランドセルの防犯ブザーへと差し込む。すると、甲高い音は鳴り止み、先程とは打って変わり静寂が住宅街を包み込む。防犯ブザーの音を止めることに成功した母親は安堵の表情だった。

「ふう〜・・・すいません、うちの娘がお騒がせをしてしまいました」
「いえ、娘さんは何も悪く無いんです。私がヒールを履き直そうとして、それも独り言も大きかったんで。ちょうど下校してきた娘さんが私の姿を見て、不審者やと思いはったんやと思います。あ、私は近くのマンションに住む関目と言います。私の不注意でお騒がせしました、本当にすいません」
「ああ、そうやったんですか。李梨奈もビックリして防犯ブザー引っ張ったん?」
「そう。だって誰か知らんおばさんやったんやもん」
「本当にすいません。李梨奈ちゃんにも怖い思いさせてしまってほんまにごめんね。おばちゃん、大きい声で独り言も言うてしまうことあって・・・」
「そうですか・・・あの、ヒールの靴擦れは大丈夫ですか?あれやったら、うちの玄関で履き直して行ってくださいね」
「何から何まで本当にすいません。でも、もう大丈夫ですので。今回は本当にお騒がせしてしまって、李梨奈ちゃんにも怖い思いさせてしまって、本当にすいませんでした・・・」
「いえいえ、別にそんな気にすることやないですよ。靴擦れしてるでしょうし、どうぞお気を付けて下さいね」
「ありがとうございます。では・・・」
「李梨奈も早う家入り!宿題やらなあかんのとちゃうの!」
「はあ〜い・・・」

私としたことが。また、いつの間にか大きな声で独り言を呟いていたようだ。さらに、騒動まで起こしてしまった。ため息が止まらない。

「はぁ・・・」

気分が落ち込んだまま、福寿荘へと歩く。夕方4時、自転車の親子連れを私の横を通り過ぎる。喋り声と笑い声。私は自分の不甲斐無さに焦れ込まずにはいられ無かった。それなのに、自然と耳から入る、他人の楽しそうな喋り声や笑い声は今の私には全くもって不愉快だった。耳から入る音というもの全てをシャットアウトするかのように、無我夢中で歩き続けた。

福寿荘に着いてからも階段を一段飛ばしで上っていく。5階までもう直ぐだった。3階まで上りきり、4階へ向けて上がろうとした時のこと、上から降りてきたのは、野江さんご夫婦だった。

「こんにちは。関目さん」
「野江さん、こんにちは。先日は間違えてお家に入ってしまってすいませんでした」
「ああ、野江さん。別に気にして無いからかめへんよ。うちのもんも全然気にして無いんでね」
「あんた?またって関目さんまた家へいらしたんか?」
「せや。房江が出掛けてた日に、わしも鍵締めずにちょっとだけ家空けたことあってな。そん時にな」
「あ、ほんまに!?まあ、でも関目さん、うちらは全然気にしてへんから元気出さんとあかんで!」
「ありがとうございます・・・うっ・・うっ・・・」
「え?あら?ど、どうしたん関目さん?大丈夫?」
「す、すいません・・・」

私は自然と涙が溢れてきた。この二人の前で涙を流すなんて情けないと思い、涙が流れるのを堪えようとするも、私の意志に反して涙は溢れてくるばかりである。

「せ、関目さん?大丈夫か?何があったんか知らんけど、わしらで良ければ話聞きますさかいに」
「あ、ありがとうございます。でも・・・」
「いいんよ、関目さん。一人で溜め込まんと喋らんと」
「せや、関目さん。喋ると楽になれるもんやで。よっしゃ房枝、今から予定変更して、かくれんぼにしよか。関目さんの話聞いてあげようか」
「せやね!それがええわ」
「い、いや。でも・・・ご予定があったのなら・・・」
「ああ、そんなん大丈夫ですわ。天王寺動物園の夜間開園行って、カバ見ようかって言うてただけやさかいに。カバは明日でも、明後日でも、全然大丈夫ですわ」
「そうよ。うちらは、天王寺動物園のカバより、福寿荘の関目さんの方が心配やわ・・・ね。行きましょう・・・話なんぼでも聞いたるさかいに」
「あ、ありがとう・・・ございます・・・」

私たちは福寿荘の1階にある喫茶「かくれんぼ」へと入った。夕方の4時を回るとお客さんもたった一人であった。

「いらっしゃい。あ、野江さんに・・・珍しいですね。関目さんもご一緒ですか。どうぞ、どうぞ」
「裕輝くん、ちょうお邪魔するわ」
「ええ、奥のテーブルどうぞ。ゆっくりしていってくださいね」
「ありがとうな」

かくれんぼの窓から西日が入り込む。西日のお陰で、店内は妙に明るく照らされた。木目調のカウンターや通路、タバコの煙で茶色くなった壁紙も必要以上に明るく照らされている。

「あ!野江さん、この前の阪神競馬場のどうでした?俺は全部ヤラレましたわ〜」
「お、英ちゃん!珍しいやん、何や仕事は終わったんか?わしもあかんだわ。英ちゃんが負けるん珍しいな〜」
「ああ、今日は昼から有休消化でしてね。野江さんもあかんかったか・・・となると、次は京都競馬の宝塚記念かあ・・・あ、すいません。また今度話しましょう」
「あ、英ちゃん、悪いな。また今度な」

英ちゃんは野江さんの奥さんが放つビームのような鋭い視線を感じ取ったのか話を早急に切り上げた。

英ちゃんとは本名を藤阪英彦と言い、この福寿荘の201号室に暮らす野江さんの競馬仲間である。見た目からして私と同じ50代と思われるが、未婚で一人暮らしをしているらしい。不思議なことに、息子の一樹が京橋の飲み屋さんでたまに藤阪さんと一緒に飲むことがあるのだとか。普段、何の仕事をしているのか詳しいことは知らないが、一樹から聞いた話では倉庫会社に勤めているらしい。

私たちは奥のテーブルへと腰を落ち着かせた。

「さ、関目さん。何にする?」
「あ、じゃあ、紅茶を」
「房枝は?」
「私アメリカン」
「裕輝くん!」
「は〜い、決まりました?」
「紅茶とアメリカンとカフェオレ、ちょうだい!」
「はい、ありがとうございます!全てアイスでいいですか?」
「関目さんもアイスでよろしいか?」
「あ、はい。アイスで」
「じゃあ、全てアイスで」
「はい、じゃあ直ぐご用意します」

そう言いながら、かくれんぼの2代目マスターである裕輝はカウンターの奥へと戻っていった。

「関目さん、どうですか?少し今は気分落ち着きはったかな?何があったんですか?わしらで良ければ何かお力になれるかもしませんで」
「ありがとうございます。先程はお見苦しい姿をお見せしてしまって・・・実は、先日会社でミスをしてしまいまして。それに気がついたのも今日で」
「ええ。ミスですか。まあ人間誰だってミスの一つや二つはするもんですけどね。ほんで、何か大事になったんですか?」
「いえ、幸いにも取引先さんもお客さんも急ぎや無かったみたいで・・・」
「それなら良かったですやん。何をそんな悩んではるんですか?」
「いや、今回は大事にならなかったから良かったんですけど、私、天然なところあるから、ミスばっかりしてしまって・・・そう考えると自分が情けなくて・・・うっ・・・うっ・・・」
「そんな、関目さん!そんなことで落ち込んでどうすんの!笑って!いつもの笑顔はどこいったんよ!」
「うっ・・・す、すいません・・・」

私はまたもや涙が溢れてきてしまった。カウンターからは心配そうに裕輝くんや藤阪さんがこちらを覗き込んでいる。程なくして、手に持ったお盆の上に注文したドリンクとお絞りを載せた裕輝くんがやって来た。

「はい、お待ちどうさん〜。関目さんも元気だして下さい。ミスなんて誰だってしますよ。僕も少し天然なところあるんで、よくマスター・・・親父から怒られてましたもん」
「せやったな!丈ちゃん、よう裕輝くんのこと叱ってたな。でも、何か言うてたで。叱るんは可愛いからやって」
「ほんまですか!?初耳です。でも、何か嬉しいですわ。まあ、関目さんも元気だして下さいね」
「裕輝くんも、皆さんも、本当にありがとうございます・・・」

カウンターで一人座ってコーヒーを飲みながらスポーツ新聞に目を落としていた英ちゃんこと、藤阪さんもこちらにやって来た。

「関目さん?あの〜、私、201号室の藤阪って言いますけど、たまにお宅の息子さんの一樹くんとも京橋の駅出た直ぐのところの立ち飲み屋で飲んだりするんですけどね、一樹くん、ええ息子さんですやんか!お母ちゃんは天然なところあるけど可愛らしいですって褒めてましたよ!誰だってミスくらいするんですから、元気出してやらんと一樹くん悲しむで!」
「あ、ありがとうございます。一樹がそんなことを・・・そうですよね。落ち込んでばかりじゃあきませんね」
「そやで、関目さん!何かあったらこの福寿荘に住んでいる住人の私らが相談でも何でものりますさかいに!元気出して!ね!」
「はい!野江さん、藤阪さん、裕輝くん・・・皆さんほんまにありがとうございます!元気が出てきました」
「関目さん、今一樹くんに連絡したら、もう少ししたらこっち着く言うてますわ。そのままかくれんぼに来てくれるみたいですわ」
「え?あ、ああ一樹にわざわざ連絡まで・・・あ、ありがとうございます」
「英ちゃん、一樹くん別に呼ばんくてもええやんけ。まあ仕事帰りか何かやろうけど」
「いや、実は今晩、一樹くんと飲む約束してましてね」
「あ、そうなんですか!それで一樹も夕飯いらんって言ってたんか。すいません、いつもうちの一樹がお世話になってしまって・・・」
「いや、一樹くん、いい息子さんですわ。ご家族もお相手の人も大切にされて・・・」
「あら?一樹くんお相手おんの?関目さんももうすぐお子さん二人とも巣立つかもしれんね」
「どうですかね。下の子はもう早くから一人暮らしして結婚しましたけど、一樹はどうなることか・・・」
「でも、いざ家出ていかれるとやっぱり寂しいもんよ。うちも克也が未だいてくれてるから寂しく感じへんけど」
「そうですよね・・・」

私はこの日、かくれんぼで福寿荘の住人の皆さんから救われたような気がする。このような機会が無ければ、今頃、一人自宅で泣いていたのかもしれない。そう思いながら、テーブルの上に置かれた、氷が溶けきって少し味の薄くなった紅茶を飲んだ。かくれんぼの壁に吊るされた時計を見ると、既に夕方6時を回っていたのだった。先程までの西日の明るさは落ち着き払い、徐々に夜の帳が下りようとしていた。

「カランッカランッ」

扉の開く音が聞こえてくる。誰かが入って来たのだろうと思っていると、扉の前で立ち竦んでいたのはスーツ姿の一樹であった。一樹も何故ここに母親がいるのか、といった具合に驚いており、顔の表情がそれを物語っていた。

「おお。一樹くん、おかえり。これから英ちゃんと飲みにいくんか?」
「ああ、野江さん。ただいまです。そうなんですけど、何で母親がいてるんかなって思って・・・」
「ああ、ちょっとな。お母ちゃんの慰労会してただけやな!なあ!英ちゃん!」
「ああ、せや!皆で一樹くんのお母ちゃんの慰労会やってたんやわ!それはそうと、一樹くん。ほんなら、行こか!また駅前の立ち飲み屋やけどええか?」
「ええ、大丈夫です!じゃあ、お母さんも行ってくるわ」
「ちょっと一樹!」
「え?何やの?」
「あんた、藤阪さんに迷惑かけてへん?お母さん、今日初めて挨拶したんやから!もう大人やから飲みに行くのはかまへんけど、迷惑はかけたらあかんで!」

私は一樹を呼び止めて釘を刺しておいた。小声で藤阪さんには聞こえなように話をしたつもりではいたが、どうやら藤阪さんには聞こえていたようだった。

「関目さん、大丈夫ですよ。一樹くん、しっかりしてますんで、迷惑かけたことなんか一切ないですんで。私も一樹くんみたいな若い子と飲めて嬉しいですわ。色々教えてくれるから勉強にもなりますし・・・」
「そ、そうですか・・・それなら良かったんですが。こんな息子ですけどもどうぞ宜しくお願い致します」
「いえいえ、こちらこそです」
「一樹も、飲み過ぎたらあかんで!」
「分かってるよ。明日も仕事やから早い目に帰るわ」
「じゃあ、一樹くん行こうか」
「はい。じゃあ、お母さん、皆さん、行ってきます」
「おお!英ちゃんにご馳走して貰えよ!」

一樹と藤阪さんが出て行った後のかくれんぼは、束の間の静寂に包まれた。店内にはコーヒーのいい香りが漂う。

「さて、わしらもぼちぼち行こか。天王寺動物園行くつもりやったから夕飯無いし、買いに行かなあかんわ。克也は夕飯食べて帰る言うてたし」
「ほんまか。ほな、スーパーに買いに行くか、どっか店入ろうか。そしたら関目さん、わしらはこれで。まあ、元気出してくださいや。またいつでもお話し聞きますさかいに」
「野江さんもほんまにありがとうございました。天王寺動物園のカバは大丈夫ですか?」
「ああ、かめへんで。気にしやんといてや。うちのが夜のカバ見たいとか急に言い出しただけで・・・カバは明日でも見れるからね」
「それなら、良かったです。ほんまにありがとうございました」
「じゃあ、関目さん。おやすみ。裕輝くんもありがとう!ご馳走さん!」
「野江さん、まいど〜!」

かくれんぼの店内には私と2代目マスターの裕輝くんだけになった。私は気が抜けたように大きく息を吐いてしまった。

「ふぅ〜・・・」
「関目さん、お疲れでしょう」
「ああ、裕輝くん。お見苦しい姿も見せてしまってごめんなさいね」
「いえいえ。よっしと・・・これ良かったら飲んでくださいね。一息ついてください」
「え?あ、ありがとう・・・ああ、良い香りがするわ。では、お言葉に甘えて頂きます・・・」
「落ち着いて貰えると嬉しいです」
「すごく美味しい。香りもすごくいい。深みのある味と香りがする」
「ありがとうございます。関目さんは・・・こちらに引っ越して来てどれくらいになるんですか?」
「私は1年くらいかな」
「そうなんですか・・・どうですか?慣れましたか、京橋は?」
「ええ。買い物や食事でなら以前からよく来てたけど、住むのは初めて。でも、やっぱり、いいところやわ、京橋って。そして、この福寿荘も」
「皆さんあんな感じですよね。自分に関係無いことでも自分事のように、親身に話聞いてくれるんです。僕も日々助けて貰ってますけど、本当に色々な人が助けてくれるんです。京橋も、福寿荘も。ほんまに温かい人ばかりです。赤の他人のはずやのに、まるで一つの家族みたいですよ。京橋は」
「ほんまにそうですよね。実際に京橋で暮らしてみると、そう思います」

そして、裕輝くんはコーヒーカップを磨きながら、独り言のようにただ呟いた。

「僕たちは日々助け合って生きてます。誰かを助け、誰かに助けられて。僕もミスはしてしまいます。でも、それを誰かが助けてくれます。もちろん、次はミスをしないようにと心がけることは素晴らしいことだと思います。でも、それ以上に、今回助けてくれた恩を、別の困っている誰かに対して救いの手を差し伸べて上げる、そういうことも大事なことやと思います」

束の間の沈黙がかくれんぼの店内に漂う。裕輝くんの独り言のような言葉が心の奥深くに響いた。かくれんぼの窓から見える外はすっかり夜になっていた。車のヘッドライトとテールランプの明かりが川の流れのように、途切れること無く、ゆらゆらといつまでも続いていた。

「ほんまに、そうですよね・・・」
「・・・」
「・・・ご馳走さま。美味しかったわ、裕輝くん」
「ありがとうございます。お代は結構ですよ。僕からのサービスですので・・・」
「ええの?ほんまに・・・ありがとう・・・」
「いえいえ」

私は裕輝くんにお礼を伝えて、かくれんぼの扉を開ける。

「カランッカランッ」

最後にもう一度、裕輝くんの方を振り向いて軽くお辞儀した。

「ありがとう・・・おやすみなさい・・・」
「関目さん、ありがとうございます。おやすみなさい」

京橋に引っ越して来て早くも1年。やはり、この京橋、この福寿荘は温かい家族のようだ。そう思いながら福寿荘の階段を一歩ずつ、幸せを噛み締めるかのように上った。5階の通路から見える京橋の夜は、私たちを優しく包み込んでくれる懐の深さを感じずにはいられなかった。







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