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【短編】『僕が入る墓』(遡及編 二)

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僕が入る墓(遡及編 二)


 肌を切るような眩しい日差しを浴びながら、太助は肩にかけた布で頬を拭った。すでに昼過ぎだった。片手に握っている木棒の先には土の色が滲んだ鉄が地面に刺さっていた。太助はそれを大きく持ち上げると、畠の端にそっと立てかけた。畠のそばの高台に座ると、置いてある袋を開けて、ホウノキの葉に包まれた握り飯を取り出した。女房が握ってくれたものだった。湿気で海苔が萎え、飯にへばりついていたが味は上等だった。時に海苔が巻かれていないことがあると、家計が逼迫しているという女房からの通告として受け取った。その日はより一層、畠仕事に身が入った。

 小さな茅葺き屋根の家に帰ると女房と子供三人、そして婆さんが出迎えた。女房はすでに晩飯の準備を始めていた。囲炉裏の横では、半ば寝たきりになった婆さんが、焦げて黒味がかった土鍋の底を勢いよく炙る炎を眺めていた。一番年上の娘は、すでに十五で母親の右腕となって晩飯の支度を手伝っていた。母親が留守の時は、その娘が代わって炊事を任された。他の二人の子はまだ四か五の息子たちで、畠仕事をさせるには若過ぎた。

 女は十五となると、すでに遠い街の方へと奉公をしに家を出ていてもおかしくはない歳だが、この娘は特別だった。何より村中、あるいは国中の者が目を輝かせ諦めの溜息をつくほどの別嬪だったのだ。清乃と言う名前の通り、心が清らかで透き通るような顔立ちをしていた。清乃は父母どちらにも似つかわしくなく、むしろ捨子ではないかと疑うほどだった。しかし子供をわざわざ拾えるほど裕福ではないので、清乃が自分の娘であることには間違いなかった。太助はどこかの豪族が娘を貰ってくれることを密かに期待した。そのため、娘にはあえて体を汚すような真似はさせなかった。

 太助にとって三人の子供に恵まれることは願ってもないことであったが、その分家計のやりくりは他の村人よりも厳しかった。正月に他の家の子供が餅の入った雑煮を頬張っていても、太助の家では里芋を食べた。出汁を作るにも醤油や砂糖はもってのほかで、味付けはいつも味噌や塩が主だった。しかし、地主から日々仕事をもらえるだけで太助は満足だった。一度手放した自分の畠を再び毎日世話できるほど嬉しいことはなかった。
日が沈む直前まで、大きな下駄の形をした大足を履いて泥濘んだ畠を平らに整えている時のことだった。

「おーい」

 その声はこの村の者の言葉ではなかったため、すぐには太助の耳に入らなかった。

「助けてくれんかー」

 太助は五度目の叫喚でようやく男の声に気がつくと、大足を脱ぎ捨て裸足のまま高台へと登った。すぐ近くの木陰に男の倒れている姿があった。太助は直ちにその男の元へとかけていき、一度近くで男が村の者ではないと確認してからゆっくりと近寄った。

「まだ死にとうない。誰か助けてくれえ」

 太助は男が身につけている服に目を見入った。土や草葉で汚れが目立つものの、あまり村では見かけない衣服だった。どこか地主の着ているものに似た形をしていた。

「そこに誰かいるんか? 頼む。助けてくれ」

 泣きじゃくる赤ん坊をあやすように太助は男に声をかけた。

「あんじゃない。今助けるだに」

 太助は男の腰に手を当てて両手で体を抱えた。男は今にも死に絶えそうな疲れきった表情をしており、その痩せ細った顔立ちは何日も食べていないことを物語っていた。腕を肩の後ろに回してやっとの思いで男を立ち上がらせると、人一人の全体重が自分の方にかかってくるのを感じた。太助は農具を畠に放ったまま、男を自宅へと連れて行った。女房は何事かと目を大きくして、心配そうに太助が男を横にするのを見守った。

「畠のそばでこかされてたんで助けただに」

「旅から来たもんか?」

「そうでねか?」

「――」

 家族はまるで見知らぬ生き物を見る目で男の周りを囲った。男に水を飲ませると、馬のように勢いよく飲んだ。子供達はそれを珍しそうに眺めていた。男が意識を取り戻したかと思うと、突然静かになってしまった。皆は男のいびきを耳にして一安心した。

「なあ、おらほうじゃ、まつめるなんてできねえだ」

「たかが二、三日だに」

「だけんど――」

 女房は男のことよりも家計を心配しているようだった。太助でさえ、男が仮に住む場所を失ってこの家に住み込むことにでもなったら、たちまち家計は崩壊することを知っていた。

「ごもしんだで――」

「あんじゃねえ」

 太助はその後畠に戻ることなく、男の様子を伺いながらそばで晩飯を済ませた。その日の太助の寝床は、草鞋を作るためにかき集めた藁の上だった。
翌朝目が覚めると、寝床に男の姿はなかった。表に出てみると、何やら女房と娘の清乃の隣で朝飯の支度をしているようだった。

「大旦那じゃねえですか。昨日はわしの命助けてもろうてほんまありがとうござんす」

「いんね、大したことねえだに」

「実は、わし遠いところから来たもんで道に迷ってしもうて――」

「でも良くなろてえがっただに」

「いやもう、感謝しかねえです。それに娘さん、大した別嬪さんでないですか。どうです、わしの嫁にしてくれまへんか?」

 清乃が嫁という言葉を聞いて顔を真っ赤にしたことに気づくことなく、太助は一瞬考え込むように顔を顰めた。すると男は続けた。

「なんてのは、冗談でっせ。美人なもんでつい――」

 清乃は再び顔を隠した。太助はどう答えて良いのかわからず苦笑いをした。

 男は自分を又三郎と名乗った。なんでも、昔遠い村で地主をやっていたとのことだった。それで合点がいった。又三郎の身なりが普通でないことはそれが理由であったと。しかし遠い村の地主がなぜわざわざこの村までやってきたのかまでは太助の疎い頭では察しがつかなかった。そのため又三郎が農民一揆によって命からがら村から逃げてきたことを知る由もなかった。太助にとっては又三郎はただの命を救った元地主でしかなかったのだ。

 又三郎が村で働かせてほしいと言うので、太助は顔馴染みかつ雇用主である地主に彼に仕事を与えてくれないかと頼み込んだ。昔からの長い付き合いでもあるため太助の顔を立てることで、又三郎は村の外れにある畠の一区画を借りることができた。太助はありがたく思った。よく村の外では地主が小作人の労働力を搾取するからと「寄生地主」と揶揄されていたが、むしろ太助にとってはお互いになくてはならない相互依存の存在であると感じていた。

 又三郎は農作業の経験が乏しいことから、畠を耕すところから苗を植えて稲を刈り取るところまで一から全て太助が教える必要があった。わざわざ地主に頼んだからには責任を持って米を収穫できるよう指導することは、地主との良好な関係を維持するためにも大事であった。米が獲れなければ畠を貸す意味はないのだから。日に日に、又三郎は稲作の要領を覚えていき、今度は自ら太助の畠の手伝いをするようになった。偶然命を救った又三郎は、太助にとって思わぬ助っ人となったのだ。


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