【短編】『僕が入る墓』(後結編)
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僕が入る墓(後結編)
しかし後ろには誰もいなかった。
再び妻の方に視線を戻すと、真正面から突然打撃を喰らった。身体はまるで中国のアクション映画みたく綺麗に宙を舞って台所横の扉のそばに落下した。敵は大した腕力だった。俺は背中を痛めつつもゆっくりと立ち上がって敵の姿を確認しようと目を擦った。しかし、その素早さから敵はすでに配地を変え、自分の視界から消えていた。あたりを見回すも、真っ暗なせいでどうもその影を捉えることはできなかった。ゆっくりと妻の方へと足を進めると、今度は窓の方で何かが動く気配を感じ取った。すると、縁側の下から四本足の小さな影が現れ、とことこと歩き去ってしまった。野良猫だった。野良猫であればセンサーに感知されずとも、屋敷内に侵入することができると思った。反対に、それよりも断然胴体の大きい人間がこの屋敷に見つからずに潜入することは無理があった。屋敷の外で響くセンサーの機械音は我々に対しての襲撃の声明と言っても過言ではなかった。
気を抜いた途端、すぐ後ろを大きな足音が走り抜けていった。俺は咄嗟にそれを目で追いかけたが、またも暗闇の中に姿を消した。ようやく静寂がを取り戻し、妻の安否を確認しようと机の方に目をやった。妻はもうそこにはいなかった。代わりに、妻が落としたであろう三徳包丁が一丁寂しげに取り残されていた。
なんの音もなく妻が机の上からいなくなったのは、自分の足で歩いてどこかへいなくなったか、もしくは何者かに抱えて連れて行かれたのか、結局この目で見るしか真相を確かめる方法はなかった。その時、俺は無意識に心臓が凍りつくのを感じ取った。先ほど机の上に倒れていた者は妻だったのかさえ定かではないように思えてきたのだ。暗闇の中で、小柄で妻の着ていた服装をしていたために、無意識にそれが妻であると自分自身に言い聞かせていたのだ。
もし妻でないのだとしたら、後ろを振り向いた途端に俺に一撃をくらわすことだって可能だった。その後すぐに静かに立ち上がって逃げていったと考えると自ずと辻褄が合った。俺は改めて今屋敷を襲撃している者たちが予想以上に凄腕であることを悟った。なぜなら、あの短時間で敵を欺くために妻の衣服さえ盗んで自分に着させたのだから。俺は一層のこと妻のことが心配になった。そういえば、拓海くんも知らぬ間に自分のそばからいなくなっていた。
俺は居間を抜けて再び廊下を走り出した。向こう側からも反対側からも足音は聞こえてこなかった。ちょうど屋敷を一周して気がついた。妻の姿も、拓海くんの姿も見当たらないのだ。
割れた窓ガラスから屋敷の外へと出ると、月明かりが折り曲がった自分の背中の影を地面に映した。やはり先ほどの打撃が効いているようだった。屋敷の入り口の門は閉まったままだった。どうやら二人はこの屋敷の中のどこかにいるらしい。俺は屋敷の周りを小走りで探索した。そこら中で拓海くんと二人で備え付けたセンサーの機械の音が鳴り響いていた。まるで秋に鳴く鈴虫のようだった。
突然、悲鳴が屋敷の中から響いた。妻の声だった。俺は再び割れた窓から中に戻って、玄関に置いた懐中電灯を手に取った。電源を入れ、悲鳴のした方角にかざすと、その光はぼんやりと廊下の先を照らし出した。電池が切れかけているせいか、いつもの半分しか明るくならなかった。先ほどの悲鳴はどこからだろうかと、一歩また一歩と足を進めた。再び妻の悲鳴が聞こえてきた。その声は二人の寝室からだった。俺は歩く速度を早めて段々と小走りになった。その悲鳴は徐々に鮮明になっていき、それは何度も連呼するように聞こえてきた。
とうとう扉の前で足を止めた。ゆっくりと空気を肺に入れ込んでから、目の前の扉を勢いよく横に引いた。俺は予想だにしなかった光景に一瞬言葉を失った。黒い影が妻の剥き出しになった生身を一定の速度で揺らしていたのだ。その間も妻の叫び声は続いていた。妻が何者かに襲われていると言っても過言ではなかった。俺はこれまで出したことのないほどの大きな声で、その影に向かって叫んだ。
「やめろ!」
すると、影はよからぬところを見られてしまったと狼狽える様子で、割れた窓ガラスの奥へと逃げていくように去っていった。俺はその場に座り尽くして疲れ切った妻の姿を目の前に、己の哀れみに打ちひしがれた。
すると、後ろから声がした。
「あんた。どこにいたんですか?」
咄嗟に自分が今まで見ていた光景が嘘だったかのように、普段の寝巻きを着た妻が後ろに立っていた。俺は妻を抱きしめて泣き喚きたい気持ちになったが、普段の家での淡白な自分がすぐに蘇った。気がつくと、今までの張り詰めた空気が消え去り、複数の影の気配もしなくなっていた。
遠くから拓海くんの声がした。その声は屋敷のどこかの部屋から聞こえてくるというより、屋敷の下からしていた。俺は一瞬耳がおかしくなったかと思ったが、咄嗟に妻が床に耳を当てたため、妻の方がもっと耳がイカれてしまったと思った。すでに暗闇であらゆる感覚が絶たれたために認知機能が低下していたのだ。
「下だわ」
やはり妻の耳はイカれていた。
「ねえ、どうやっていくかわかる?」
「いや、行ったことがないからわからない」
すると、近くから拓海くんのはっきりとした声が二人のもとに届いた。
「廊下にある穴から滑り降りてみてください。お待ちしてます」
どうやら屋敷の地下にまた別の空間があるようだった。名家であれば隠し部屋が一つあってもおかしくはないが、父からは何も教えていなかった。ブレーカーを戻すと、廊下にできた穴の場所は明白になった。中を覗くとその先は暗闇が広がっており、滑り降りる道すら全く見えなかった。ゆっくりと腰の半分まで闇に浸かると、突然何かに尻を滑らせて穴の奥へと落下していった。やっとのこと地面に足がつくと、そこはもう暗闇ではなかった。目の前には四畳半ほどの小さなの空間が広がっており、四方の角に取り付けられた灯籠が部屋全体を明るくしていた。
拓海くんは、昔の武将が座るような古びたバッテン型の折りたたみ式の椅子に腰掛けて、待ちくたびれていたといった様子で俺を迎え入れた。あとから妻も落ちてきた。その部屋は隠し部屋というより隔離部屋と言った方がしっくりきた。そこら中に何者かが生活していた跡が残っていた。汚れた布があちこちに散乱し、中には鍬や鎌などの農具も落ちていた。縄を複雑に結びつけたものもあった。
「罠だ」
「え、まさか嵌められたんですか?」
「違う。見てみろ。くくり罠だ」
「くくり罠?」
「田んぼを荒らす猪や狸用に取り付ける罠だ。ここいらの農家とは親しくしてるからな。色々教えてもらうんだ」
「でもなぜここに?」
「わからない――。ただ使えるかもしれない」
「あんた、何に使うって言うの?」
義母が横から口を挟んだ。
「その名の通り、罠だ」
「まさか」
「ああ、あいつらをとっ捕まえてみせる」
義父の言葉からは底知れぬ怒りが感じられた。どうやら、一度奴らに打ち負かされたみたいだった。僕は疑問に思った。相手は目に見えない敵なのに、どうやって罠で捕えようと言うのだろうかと。文字通り目に目ない、この世に存在しないのだ。あの時は見間違いだと思い込んで明美に対しても冗談として言いくるめたが、今になって考えると、やはり今回の事件に大いに関係しているように思えて仕方がなかった。これまでは自分の頭の片隅にしまっておいたが、この際全て包み隠さず話してしまおうと思った。
「あの、僕思い当たることがありまして――」
「なんだね?」
「いえ、ただの推測なんですが――」
僕は疲れているせいもあって、どう自分の考えを根拠なしに義父に伝えたら良いのか頭が働かなかった。とりあえず思うがままに意見してみることにした。
「実は、以前この家にお邪魔させていただいた際に、夜浴室であるものを見てしまったんです。それで、そのあるものというのが、明美のお祖母様の亡霊です」
義父と義母はお互いに顔を見合わせてから、再び僕の方を見つめた。
「亡霊? そんなわけないだろ」
「いや、あの、ただの憶測です」
「じゃあ、足音はどう説明するんだ? 窓ガラスだって実際に破られたんだぞ? それにセンサーも」
僕はすでに言い返す言葉を失っていた。
「やつらはきっと凄腕の強盗集団だ。いや、そこかの暴力団のスパイかもしれない。明美がやられた理由はわからないが、俺は一度一撃を喰らっている。姿までは見えなかったが、その影は確認できた。小柄なやつに大柄な奴もいた。三人で戦略を練れば捕らえられる可能性だってある。頼む。協力してくれ」
義父の演説に、僕は一言も異論を唱えることなく、明美のためにも家主の言うことに従おうと思った。ただ一つだけ提案として義父に申し出た。
「あの、やつらを捕らえるために、念の為警察に通報しませんか?」
義父は少しばかり考え込んでから、表情を緩めて答えた。
「そうだな。警備の者をつけさせるとしよう」
その義父の言い草は、どこか警察を駒として扱えるほど力を持った名家であることを自負しているようにも聞こえた。
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