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【短編】『尾行族』(前編)

尾行族(前編)


 都心の一等地に身構える巨大ビル群の隙間にひっそりと佇む古い建物の5階に我々のオフィスはあった。なんだか出勤するまでは一端の大手企業勤めの会社員といった心持ちで駅からの道を歩くも、それも束の間建物の入り口に入った途端に、定員5名のレトロなエレベーターが我々を出迎えてくれる。階を過ぎるごとに大きな振れを味わいながら、とりあえずは社長と出会さなくてよかったと安堵したのちに、今日も今日とて過酷な一日が始まるのだと心に楔を打つ。扉が開くと目の前には「日の丸地所」と大きく掘られた石碑が構えており、どうせなら建物の入り口に置けば良いのにと会社への嫌味を口ずさみながら、自分のデスクへと向かっていった。照明はまばらについており、まだ数えるほどしか出勤している者はいなかった。若干暗いとは思ったが日中の息苦しさを思うとどこか晴れ晴れした気持ちになった。デスクに置いてある富士通のパソコンを開くと、昨日作業中だった更新途中の取引先候補リストのファイルが開かれていた。我が社は不動産の賃貸を本業としている会社で、都心の住まいやオフィスなど様々な分野の貸物件を取り扱っているのだ。そのため朝から晩まで電話がオフィスに鳴り響き、誰かが不在の際にはその席の受話器まで取った。全員がまさに昭和の企業戦士の如く実績を競い合っていた。

 社長は決まって朝の9時に出社をし、そのため皆はそれまでになんとしてでもデスクに座って何かしら作業するフリをしている必要があった。9時直前に会社に着く際にはエレベーターで社長に出会しかねないために、皆第一ボタンを外してシャツの袖を捲ってから階段を駆け上った。

「おはようございます!」

と皆揃って挨拶し、中年をとうに過ぎた社長は何も言わずそのまま社長室へと直行することが当たり前となっていた。ただ、一人だけ社長は毎日のように挨拶を返す者がいた。それは女性社長秘書の阿久津さんだった。阿久津さんは見るからに別嬪で、そのスタイルや美しい顔つきは社長だけでなく男社員全員の興味の的となった。彼女は他の女性社員とは違って、ワイシャツに黒無地ではなくグレーのスカートを履き、そしてパンプスではなくわざわざヒールを履いてくることも男性としての見どころだろう。それも気取らない薄いグリーンのヒールだ。社長は阿久津さんのことを大いに気に入っていた。阿久津さんは可愛らしいなと、まるで自分の娘を相手にするように接する時もあれば、あれを取ってきてくれないかと、あたかも社長自身が夫であるかのように振る舞うこともあった。社員たちは社長には何も言えない立場であったため口をつぐんでいたが、皆同じことを思っているのだろう。阿久津さんは社長にとって愛人のような存在であると。社長がフロアの中央に歩いてやってきた。

「おはよう。今日も一日精一杯業務に励むように。それと昨日の契約書作成ミスの件だが・・・」

とひとしきり朝礼という名の社長の説教が終わるとそれぞれがデスクに向き直った。10時になると一斉に電話が鳴り出した。

「はい、こちら日の丸地所でございます」

とまるで掛け声を発するように皆同時に受話器に向かって話しかけた。

 午前中は外勤がないため正午前に弁当を買いにオフィスを出ようとした時、向こうから社長の声が聞こえた。

「滝本!ちょっとこっちに来い」

社長は僕を呼んでいた。すぐに社長室へと向かい、ドアをノックすると「入れ」という言葉が聞こえた。社長は紙の資料を眺めていた。

「これ昨日言った内容が入ってないんだけどどういうことだ?」

僕はすかさず真剣な表情を作って社長に返した。

「すみませんでした!すぐにもう一度確認いたします」

謝罪の言葉が速かったことで、すぐに社長も怒る気が失せて無言で僕に資料を手渡した。失礼しましたと言ってからドアを閉め表情を緩めた。このような事態は何度も経験しているためすでに慣れてはいたものの、その高圧的な社長の態度に少なからず精神的損害は被っていた。それも今日もいつもの如く昼休憩抜きとなってしまったからだ。一層のこと午前中から外勤にしてくれれば、誰からも邪魔をされずに昼食を取れるのにと、非現実的なことを思った。とは言いつつも、僕は社内でも社長からの見られ方は良い方ではあった。悪い例だと、目をつけられて30分に一回は社長室に呼びつけられて説教をされる者もいた。その時間を無駄と思わない社長はやはり時代遅れそのものだった。

「おい滝本、飯行くぞ」

「はい!」

社長からご飯に誘われるのは僕と女性秘書ぐらいだった。本来であれば、誘いを断って仕事を進めることが建前となっていたが、僕は社長の誘いに迷わず従った。今日はむしろ仕事があったため誘われずに昼飯抜きだと思い込んでいた矢先のことだったので幸運なことだった。しかし、その昼食に誘われる特権とやらのせいで他の社員から恨みを買うこともあった。入り口に近い席に座っていた河本がその一人だった。

「お前、今月の給料いくらだ?」

「いやあ、そんなにもらえてないよ」

「そんなもったいぶらずに言えよ」

「60万前後だけど」

「そうか。やっぱりお前社長に贔屓してもらってんじゃねえのか?」

「そんなことないって」

「じゃあなんで取ってきた案件が多い俺よりももらってるんだ」

「それはわからないな。多分経費生産でその分が上乗せされてるんだよ」

「出鱈目言うなよ」

「でも君の案件数にはかなわないよ」

「まあ、それはそうだ」

社長も機嫌を取るのには苦労する人物ではあるものの、河本はそれ以上だった。

 ようやく残業を終える頃、オフィスに残っているのは河本と他数名だった。社長と女性秘書はすでに会社を出ていていなかった。僕は自分のやることを終えたため一人抜け駆けして帰宅することにした。パソコンを閉じ、荷物を詰めてから自分のデスク付近の照明を消してエレベーターへと向かった。河本の視線を感じたが、何も気づいていないのを装って入り口を通り過ぎた。エレベーターのランプが5階で止まり、ようやく扉が開くと、ちょうど外勤帰りの後輩の間宮くんに出会した。

「滝本さん!お疲れ様です」

「間宮くんじゃないか!外勤今終わったの?」

「そうなんですよ。なんか先方との話が長引いちゃって」

「そっかそっか。大変だね」

すぐ後ろで河本が我々の会話を盗み聞きしているような気がしたが、特に声量は下げなかった。

「そうだ。この後時間あります?」

「まあ、あるけど」

「少し飲み行きませんか?」

「おお、いいよ」

「やったあ。ちょっと支度するんで5分ほど待っててもらえます?」

「うん。けど日報は大丈夫なの?」

「明日の朝やります」

と苦笑いをしながらオフィスの中へと消えていった。僕は5分ほど待つ羽目になり、「日の丸地所」と彫られた石碑の上に腰を下ろした。エレベーター前とオフィスの間には仕切りの壁があったため誰かに見られるといった心配をする必要がなかった。石碑はところどころ角張っており、自分の尻がちょうど良い位置に収まるまで1分ほどかかった。どうせこれくらいしかこの石碑の使い道はないのだ。しかしもし目の前に社長が現れたらどうしようかとスリルを味わいながら、間宮くんをどこの飲み屋に連れて行こうか考えた。

「お待たせしました」

「おお」

「どこ行きますか」

「そうだね。駅の近くにうまい焼き鳥食えるところがあるんだけどどうかな?」「いいですね。そこにしましょう」

 早速焼き鳥屋に着いてビールを乾杯すると、間宮くんが僕に尋ねた。

「滝本さん、社長とうまくやってますよね」

「いやあ、そんなことないよ」

「お昼誘われるの滝本さんぐらいですよ」

「そうだね。でも他の人たちに申し訳ないな」

「そんなの気にしなくていいですよ。もし滝本さんいなくなったら社長もっと不機嫌になりますよ。今事業がうまくいってるのも滝本さんのおかげですよ」

「そんな褒めないでよ。俺だって好きでやってるわけじゃないんだから」

「あ、そうですよね。なんかすみません」

「いいよいいよ」

「そうだ、それも気になってたんですけど、ぶっちゃけ社長どうですか?」

「社長どうって?」

「社長のこと好きですか?」

「そんなわけないでしょ」

「ですよねー」

「いつも締め殺してやりたいって思いながら話してるよ」

「マジっすか」

「うん」

「なんか滝本さん面白い人ですね。あ、いや普段が面白くないとかっていう意味じゃなくて。今改めて興味深い人だなって」

「そう?」

「はい」

 勘定は間宮くんの分まで払った。僕は終電を逃してしまったので駅で別れて一人タクシーで帰ることにした。タクシー乗り場の行列に並んでいると風がひと吹きして寒気を感じた。家に帰っても待っているのは、リビングにある観葉植物ぐらいだった。私はふと寂しさを覚えて再び寒気がした。とその時、向かい側の道路に何やら社長らしき人物の姿が見えたような気がしたのだ。僕は暗い中、目を細めて再び向こうを眺めるとその人物は社長で間違いなかった。それにしてもこんな遅い時間に何をしているのだろうか。すでに残業組も帰ったはずだし、オフィスに戻る理由もない。何か忘れ物でもしたのだろうか。と思案していると、社長は周りを不自然に見渡し始めては、誰かから身を隠すかのように慎重に奥の道へと足を進めていった。きっと社長は愛人と待ち合わせでもしているのだろうと変な想像をした。しかし、それが想像にとどまらずもし本当なのだとしたら、この際社長の弱みを握っていつか訪れる修羅場で行使してやろうかとも思った。僕は少々酔っ払っているようだったが、妙な好奇心を抱き社長の跡をつけることにした。


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