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命の話をしよう② 私はバカなのか? 夫婦の長い対話

乳がん5年目の診察において、主治医に対して私が言った
「全身検査、やりたくないです」の問答

病院から帰宅後、夫に「全身検査、断っちゃったぁ」と伝えると、夫が固まった……というところまで前回は書いた。

私のこの発言を皮切りに、夫との長い対話が始まった。


まず初めに、検査を断ってしまった私の、気持ちの一部を表す象徴的なエピソードを書こう。

まだ、私が乳がんに罹患する何年も前のこと。

ある芸能人の女性が乳がんに罹患した。
その女性は年に一度、マンモグラフィーを受けている女性だったが、たまたま鏡の前で腕を上げたときに、胸部にひきつれるような突起物を発見、検査の結果、乳がんであることが判明したと言う。

その女性は、こう言った。
「みなさん、健診は大事です、健診に行ってくださいね」

私はそれを聞きながら、首を傾げた。

年一でマンモグラフィーを受けてきたのに、健診ではなく、自分でガンを見つけた。半年前に受けたというマンモグラフィーの際、すでに病変は存在したのに、見落とされただけなのでは? 
だとしたら言うべきは「健診は100%ではありません、見落とされる場合もあります」なのでは……(ま、テレビじゃ言えないだろうけど)。

もちろん、真実は分からない。
半年の空白の期間に、突如ガンができたのかもしれない。

そして、その数年後に、私にまったく同じことが起きた。
私は40歳になった時点で、年一でエコー検査をすることに決め、通い始めていた。祖母も母も乳がん経験者であるため、そのように決めた。
そして私は、健診と健診の間の期間に、自分で胸を触ってしこりを見つけるのである。43歳のことだった。

もちろん、一切の自覚なく、健診でなんらかのガンが発見され、命拾いをしている方がたくさんいらっしゃる。国が早期発見をうたい「健診を受けましょう」と言うのは、ごく自然なことだと納得している。

ただ「乳がん」は、他の臓器と違って、触って分かる特殊なガンだ。だからか、祖母も、母も、私も、健診ではなく「自分で」見つけた。
この経験が、私の「健診」「検診」「検査」に対する見方に、少なからず影響を及ぼしているだろう。

話を戻そう。

夫は、全身検査をしないと言った私を責めるでもなく、しかし「どうして」と聞いてくる。

一体、何がどうして、こんなに嫌なのか?
自分でもはっきりと答えられないから、こうして考えている。

上記のエピソードは、健康な人の「健診」であって、今回の私の「全身検査」とはまた意味合いが違うだろう。だから「検査なんかしたって、正しく見つからない」などと疑っているわけでもない。


他にイヤな理由をあげてみると、まず全身検査の際の、放射線被曝はイヤである。
私は「治療のために」必要な部位に放射線を照射することはやむなしと思えても、「検査のために」全身を被曝することは、なんとなく解せないでいる。

乳がん罹患時に、PET検査を受けた際、技師さんから「膀胱まで被曝しているから、今日は水をたくさん飲みなさい」とアドバイスを受けた。
検査後、丸一日以上、私の全身からは、見えない放射線が放たれ続けているとも言われた。

私は家に帰ってから、夫に「絶対に私に近づくな」と言い放ち、「そんなの、大丈夫だよ」と笑う夫から離れて過ごした。
その夜、私は信じられない量の水をひたすらがぶ飲みし、カラダの外へ放射能を排出することに必死だった。

まず、ここまで読んで「少し神経質すぎやしないか」と思うだろう。
私もそう思う(笑)
そして、「命に対して、欲張り過ぎないか? さもしすぎないか?」という思いも、私の中にはある。

浴びる被曝量に関しては、特にカラダには問題のないとされる量だからこそ認可されているのだろうし、被曝のリスクよりも、検査で早期発見できないリスクの方が高いからこその「検査」である。

夫が「そこまでの負担じゃないと思うし、5年に一度くらいなら、受けてもいいんじゃないの」と言う。
私も「そうだよね、ここまでこだわるようなことじゃないのかも」と答える。

夫と話しながら思い出したのだが、実は2年前くらいにも、「次回の検査で、PETやらない?」と主治医に言われ、私は断っている。忘れていた。

先生にとって、私はかわいくない、不遜な患者だろう。
先生にたてつきたい訳では決してない、だから申し訳なく思っている。

しかし一方で、あれから2年が経った今、「結局、PET検査を断って、正解だったじゃないか」と思う自分がいる。もちろん、結果論ではあるが。

何もないことを確認するための検査にしては、前日から食事を抜き、数時間かけて検査をし、全身被曝し、数万円支払い、次の日までぐったりだ。そして結果が分かるまでの10日間ほどをモヤモヤしながら過ごす……。

あまりにも、見合わない。

私はそう思うのだが、一方で、早期発見できるのならば、もしくは検査をすることで「何もなかった」と安心できるのならば、そんなコストは大したことないと感じる方もおられるだろう。


夫は私のこのような態度について、懸念を示した。

「医療に関わっているのに、医師が勧める検査を断るなどと言うのは、医療者側から見れば、『だったら医療に関わるな』と思われかねない。中途半端に関わるのは、どうなのか」と。

夫はさらに続けた。
「医者だって、人間なんだから、『先生のすすめる治療や検査方針に従います、頼りにしています』と全面的に信頼し委ねてくる患者と、そうではない(私みたいな)患者に対しての、治療にかける熱量も変わってくるんじゃないか。まあ、医者はそんな区別をしているなんて、絶対に認めないと思うけど。でも人間だからね
(夫自身がそうだから、そう思うんではなかろうか(笑))

夫は、私が今後再発した場合に、この不遜な態度によって、最適な医療を受けられなくなるのではないかと、うっすら心配している風であった。

私は、例えるなら、美容院に行ったのに、「髪はほとんど切りたくないんですよねー」と言っている客のようなものなのである。そして「でも、いい感じに、ステキにはしてほしいんですよ」などとほざいている。
これは、おそらく、眉を顰められることなのだろう。

病院も同じで、「治療や検査に積極的でないなら来るなよ」と言われたら、何も言い返せない。
でも私は、治療や検査をするために、病院に行っているわけじゃない。私の目的は、「私の、現在と未来も含めた命の長さとQOLのバランスを、トータルで見て、一番マシにするために通院している」というのが本当のところだ。

この部分が、今回の問題の一番の核心になると思うのだが、「一番マシ」と思える「私の命のバランス」を、プロの医療者の言に従わず、何の根拠もない「私の感覚」に委ねて、「こうしたい・したくない」などと決めている。

そこが、「私はバカなのか」と自分で思う所以である。

はっきり言って、私の選択は「ただのギャンブル」に過ぎない

私オリジナルの感覚、完全主観で決められている。

日常生活において、ギャンブルめいたことを嫌がる私が、命に対して、どうしてこんな選択をしているのか。

あなたは、自分が病気になったら、何を捨てて、何をとって、何に賭けますか。
本当は皆、何も捨てたくはない。全部欲しい。
けれども、優先順位をつけなければならなくなる時期が、人生のどこかでやってくる。

あなたにとってのQOLとはなんだろう。
命の長さか、命の濃度か。
痛みや苦痛を、どこまで受け入れるのか。
恐怖と、安心を、どうバランスさせるのか。
健診はあなたにとってどんな意味があるか。
治療はどこまでするのか、どこから手放すのか。

その人の価値観によって、病状によって、年齢によって、答えは千差万別であろうし、生きてゆく中で、答えが変わってゆくだろう。

正解はないし、みんな自分が納得のいくように、好きにしたらいい。

ただその「自分の納得のいく状況」が自分で分からなければ、何かを選びようもない。だから、まずは「自分はどのような状態であれば、最もマシな気分で生きられるのか」を一番先に考える必要があるだろう。

またもや長くなってしまったが、まだまだこの話は、終わらせられそうにない。
この後も、おつきあいいただけると嬉しい。
よかったらまた後日お会いしましょう。



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