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命の話をしよう① 私はバカなのか? あなたなら、どうする

少し前に、乳がんの定期検診があった。

(はじめての方へ、私は数年前の43歳の時に、乳がんに罹患。右乳房を全摘出後、抗がん剤と分子標的薬で治療、現在、ホルモン阻害剤を飲みながら暮らしている者です)

治療後は、3カ月に一度のペースで薬を処方され、半年に一度の血液検査、1年に一度のエコーやマンモグラフィー検査を受けながら、この数年を過ごしている。今のところ、再発はしていない。

今回は、血液検査のみの来院。注射さえ我慢すればいい、楽な検査だ。

それでも数日前から「なんかあったらやだなぁ、面倒くさいなぁ」と少しブルーになっていたところ、前日に手元がくるって茶碗が割れた。

ゲゲッ。

一瞬だけ不吉に思い、それをかき消すように、大好きなお笑い番組などを観て気持ちを紛らわせたりしながら、当日を迎えた。

採血をしてから、2時間ほど待たされる。
だいたい2時間くらい待たされるのが確定しているのに、いつも予約時間ぴったりに来院してしまう自分にうっすらと腹が立つ。浮気されているのが分かっているのに、相手と別れられない人になったような(違うか)


いつものことなので、必ず一冊何かの本を持参し読むのだが、あまり集中できないことが多い。
遠くの診察室の中から、子供がギャン泣きする声が響いてくる。この世の終わりみたいな声である。
大人だって、怖いんだ。子供はもっともっと怖かろう。診察室で、どんな検査や治療が行われているのか、あるいは何もされていないのかもしれなかったが、恐怖の時間よ早く過ぎ去れと祈った。

二時間後。
ようやく私の番になり、ノックをして診察室に入り椅子に座ると、男性医師が私の血液検査の結果を見ながら、「大丈夫でしたよー」と笑顔で伝えてくれた。

私は「わーありがとうございますー」と言いながら、パチパチパチと思わず拍手をした。医師も「よかったねえ」とほほ笑んでくれた。

ああ、よかった。

それから少し、体調などの話をする。

ホッとして力が抜け、後のことは、もうどうでもよい感じで受け流していた。

そんなところに主治医が続けた。


「えーと、もうすぐ5年目に入るんだけど……半年後の検査で、全身の検査をしようと思うんだけど」

おっと。

ちょっとした変化球がきた。


私の乳がんが判明してから、あと半年で5年が経つのだそうだ。ということは、治療が終わってから、もうすぐ4年が経つということになる。

で、この度、「全身検査をしますよ」と。

はいはいはいはい。
ですよねですよね。

「……えーと、全身ですか、全身と言うと……」

「うん、骨シンチと、PET検査」
医師が応える。

「ああ…………骨シンチとPET……ああ、あれですね……ああ……」
そう話しながら、乳がんが判明したときに受けたPET検査を思い出す。

PET検査、すごくイヤだったなぁ……造影剤を注射し、一時間以上も体内全体に造影剤が行き渡るのを待ってから、寒い部屋で毛布をかけられて検査をしたっけ。
転移がないかの検査だったから、心身ともにものすごく消耗したっけ。

あの検査を再びやるのね。
まあ、5年目という節目だからね。
治療のプランに組み込まれているんだもんね。

「で、日程なんですけどね……」
医師が続けようとしたその直後、私は

「あーと……えーと、あの、先生、すみません、やりたくないです
正直に言ってしまった。


「私は少しバカなのかな」と、こういうとき思う。


口が勝手に動いてしまうし、脳みそも、これを言うことにストップをかけようとしない。むしろ、脳みそのミソちゃんが「ほら、本当のことを言っちまいな!」と背中を押してくる感じさえある。

先生が軽く苦笑いをした。
「なんで? 怖いから?」

「ああ……はい……まあ……」
とあいまいな返事をしながらも、怖いのももちろんだが、それだけではないとも思う。でも、それはこの場で、医療関係者に話せることではなかった。

「……うーん……えーと……やっぱり、やらないといけませんか」
もう一度言ったら、脳みその緊張が一層増したのがわかった。

「……いや、無理強いはできないからさ。やらなくてもいいよ。でもやらないで、怖くないの?
先生がやんわりと聞いてくる。

やらないで、怖くないの?

ほんと、それ!!


やらないと怖いよね。
私は、心の中で、やっぱりやるべきだよなーと考えてみる。

「……うーん……と、やっぱり、先生、やらないでもいいですか」
長い逡巡の後、結局このようにしか、答えられなかった。

先生がやや困った顔で「いいよ」と笑っている。

いや、嗤っているのかもしれなかった(笑)


先生、すごいなぁ。
「あなたの好きにしたらいいよ」というスタンスに頭が下がる。患者の意志に反することはできないのだろうけど、もっと強く薦めてくる医師もいるだろうに。

まあ、先生にとって、私はただの患者だからこそ、割り切れるのかな。極論、私が死んだって、先生は痛くもかゆくもないわけで。

「でも、先生。もしも気持ちが変わって、全身検査をやりたくなったら、後で予約を入れさせてもらってもいいですか。その場合はどうしたらいいですか」

面倒臭い患者とは、私のことを言うのだと思う。

「やりたくない」と言っておいて、「やっぱり気が変わるかもしれないから、その場合の予約方法を教えろ」などと、ふざけたことを言う。
そんな患者、医者側からしてみれば、どう見えるだろう。その想像が容易についても尚、これが、私の今の、ベストアンサーだった。

今の段階で、全身検査はやりたくないが、絶対やらないとも言い切れないので、やる可能性も残しておく。

身勝手なベストアンサー


私は先生に謝罪と感謝の言葉を繰り返しながら、診察室を後にした。


家に帰ってから、夫に「検査結果、問題なかったよ」と伝えた。そしてその後で、5年目の全身検査についての話をした。

「……でね、全身検査、受けないって言っちゃったぁ」

「…………え」
夫が一瞬固まり、黙り込んだ。


……そこから、夫婦で長い対話がはじまる。

長くなってしまったので、続きは次回に譲ることにするが、私たち夫婦の、このあと繰り広げる対話は、私たち人間が、医療とどこまで関わって、あるいはどこまで関わらないで、自分のQOLをどのあたりでバランスさせ、どう生きて、どう死ぬのか、言ってみれば究極の問いであった。

この問いは、誰もが人生のどこかで一度は必ず突き付けられる難問だと思うが、明確な答えや指針を出せずにいる人は多いだろうと想像する。

自分自身の闘病のみならず、身内などの大切な人の闘病の方針において、モヤモヤとした経験、やったことの後悔と、やらなかったことの後悔、「もしも~していたら、していなかったら」という仮定の想像。

明確な答えのないまま、私たちは次々新しい選択を迫られ、大切な人は死んでゆき、最後は自分も死ぬ。

「やりたくないです」なんて言って、私は、バカなのかもしれない。
でも、どうしてそんなことを私は言ってしまうのだろう。

この後の夫婦の会話をお読みいただき、あなたなら自分の命をどう見積もるか、ぜひ意見を伺ってみたい。よかったらまたお会いしましょう。

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