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中村光夫 『志賀直哉論』 : 美しき幻影への 〈弔辞〉

書評:中村光夫『志賀直哉論』(文藝春秋新社、筑摩書房ほか)

学校教科書の近代文学史にその名の挙がっているような小説家とその代表作については、基本的な教養としてひととおり読んでおきたいという希望が、私にはあった。だが、私が読みたいものは、日本の近代文学に止まらず、内外の現代文学は無論のこと、思想哲学、社会学、心理学、宗教学などの人文諸学などにも際限なく広がってしまったために、志賀直哉を読むのがずいぶん遅れてしまった。やっとのこと、その懸案を果たしたのが、1ヶ月ほど前に読んだ新潮文庫の『小僧の神様・城の崎にて』であった。
しかし、私はこの作品集を読んで「なぜ、こんなクソ野郎(志賀直哉)が〝小説の神様〟だなんぞと持ち上げられるのだ」と、すっかり腹を立ててしまった。そう。この作品集には、志賀四十代の「不倫事件」を扱った連作が収められており、妻の苦しみを思いやることを知らない志賀の、度しがたい無自覚、無反省、かつ、独り善がりなその書きっぷりに「こいつは頭が足りないのではないか」とさえ思ったのだ。

実際、志賀作品についてのAmazonレビューを眺めてみると、志賀を「神様」扱いにして絶賛している読者に劣らぬ程、志賀を罵倒している読者も少なくなく、私の志賀への反感は、決して例外的なものでないことが確認できた。つまり、志賀への否定的な評価は、決して珍しいものではなかったのだ。

そもそも、度しがたいほどの「自己中(独善家)」である志賀を、どうして「小説の神様」だなどと褒め上げることが出来るのか、私にはそれが、不可解な謎としか思えなかった。
たしかに、名高い短編諸作に見られる「清澄な文体」は、非凡なものだと言えよう。その点での高評価に異論はない。しかし、それだけで「小説の神様」呼ばわりするのは、この言葉が、短編「小僧の神様」のタイトルに引っ掛けたキャッチフレーズ的なものであったとしても、やはり過大評価としか思えなかったのである。

しかしながら、私がまだ読んでいない作品において、志賀の偉大さは発揮されているのかもしれず、たった1冊だけ読んで判断するのは早計に過ぎようと思い、私は、新潮文庫から刊行されている志賀作品5冊をぜんぶ読むことにした。最初に読んだ『小僧の神様・城の崎にて』のあと、『和解』『清兵衛と瓢箪・網走まで』『暗夜行路』『灰色の月/万暦赤絵』の順で読み進めていったのだ。

作品発表順からすれば、読む順序として望ましいものではなかったものの、最初に短編集『小僧の神様・城の崎にて』を読んだので、次は短か目の長編『和解』を読み、分厚い『暗夜行路』は後回しにして、次に短編集『清兵衛と瓢箪・網走まで』を読み、その後に『暗夜行路』を読んで、最後に『灰色の月/万暦赤絵』を読んだ。『灰色の月/万暦赤絵』が最後になったのは、新潮文庫が絶版になっていて、入手に手間どったためだ。
ともあれ、志賀直哉の代表的小説をひととおり読んだ上で、私の当初の判断(評価)が間違いではなかったことを確信し、私なりの「志賀直哉論」として拙論「天然小説家の〈作為嫌悪〉:志賀直哉論」を執筆し、前記5冊などのAmazonレビューとしてアップした(なお、当レビュー末尾にも収録した)。

自分なりの「志賀直哉論」を書いた上で、私は「では、一流の文学者たちの志賀論とは、どういうものだったのか。たぶん彼らの多くは志賀を絶賛しているはずだし、だからこそ、こんな人物がいまだに〝小説の神様〟呼ばわりされているのだろう。はたして彼らは、志賀を何をどのように読み誤ったのか」と、それが気になった。
そこで、キーワード「志賀直哉論」でネット検索してみると、意外にもそれに該当する書籍は少なく、しかもその中で、私が知る程度に有名な文学者といえば、文芸評論家の中村光夫ただ一人だったので、私はそれ、すなわち本書『志賀直哉論』を読むことにしたのである。

だが、本書にしても、初版は「昭和29年(1854年)」と、私の産まれる前であり、いずれにしろずいぶん古い本だ。 志賀直哉の没年は「昭和46年(1971年)」であるが、どうやら、志賀の晩年以降、「志賀直哉論」というタイトルをまっすぐに掲げた作家論を刊行する文芸評論家が、ほとんどいなかったという状況が窺われる。
つまり、生前こそ「小説の神様」と盛大に崇められ、文壇に大きな影響力を持ち、作品も読まれた志賀だったが、没後にわかにその影響力を失ったというのは、どうやら間違いのないところのようであった。
しかしまたその反面、「小説の神様」というレッテルだけは、独り歩きして生き続けもしたのであろう。だからこそ、いまだに志賀を「神様」扱いする「読めない信者」も少なくないのだろうと推察されたのである。

 ○ ○ ○

さて、中村光夫の『志賀直哉論』だが、大筋においては私の志賀論と大差のない、かなり厳しい評価となっている。
たとえば、中村は本書の「あとがき」に、こう書いている。

『 志賀直哉氏会ったことは、戦争中二回ほどあります。そのうち一度は英米軍のノルマンディー上陸の報がつたわった日であることを、偶然覚えているほか、これという話をしたわけではありませんが、実に異常な魅力を持つ人という印象をうけました。たんに立派な芸術家というだけではなく、不思議な動物磁気のようなものが、身辺から発散する感じでした。
 この魅力の謎を解いて見たいという気持も、この論文を書く動機の一部になったようです。事実、書いているうちに、この十年前の記憶が心外な生々しさで蘇ることがよくありました。
 だから敢えて云えば、この論文は僕なりの氏にたいする讃辞なので、それが否定的に聞こえるのは、氏にたいする評価に、ほとんど迷信に近い偏見が一般に流布されているからなのです。もっともこういう偏見がなくなれば、僕の評論もまた存在理由を失うかも知れません。』
 (初版単行本 P284〜285、新字新かなに直してあります。以下の引用も同じ)

本書を読んだ後ならば、これが非常に納得のいく「正直な言葉」だというのがよくわかる。
つまり、志賀直哉の「明白な問題点」は、志賀「信者」によっても認識されるべきであり、その上で志賀の「美点」を評価して初めて、それは単なる「妄信」ではなく、正しい「評価」となり得る。そう考えるからこそ、中村は「敢えて」、志賀の「欠点」を、下のようにわかりやすく挙げつらっていったのだ。

『この私小説の特性を極点まで押し進めたところから来る、指向性の強い電波のような、或いは極く限られた角度から見なければ美しくない浮彫のような性格を彼の作品が一一主要なものほど著しく一一持っていることが、彼に対する評価の喰い違いを、信者と不信者との争いに似たものにします。』(20P)

『(※『和解』と『暗夜行路』という)この二つの傑作が殆んど同じ閉鎖性を持ち、ともに彼の自我の殻のなかの問題を執拗に扱うことに終始しているのは、他の点においてすべて(※ この二作が)対照的なだけに注目すべき特色で、彼の「気分」の性格と限界はここにはっきり現われています。』(42P)

『 これは彼に観念や思想を扱う素質が欠けていることを示すものであり、彼自身も一旦思想の援けをかりて肉体の解放を成就してしまえば、その後は極力思想や観念をその文学から追放することに努めます。
 しかしそのために、この観念的な不器用さをもっとも直接に現わした小説(※ 「濁った顔」)は、まさにその出来損ないかたで彼の資性の一面をはっきり示しています。』(70〜71P)

『「要するに私は、自分からそうと云うわけには行かないが、仮りに他人の口を想像して云えば、我儘育ちの至極意気地のない人間であった。」と彼は(※ 随筆)「過去」の中で、(※ 短編)「大津順吉」当時の自分を顧みて云います。
 この反省の仕方は個性的で興味があります。なぜ彼が四十歳をすぎて過去の自分を「我儘育ちの意気地なし」と「自分から」云えないかというと、彼が半生を通じて築いて来た文学の方法と撞着するからです。「他人の口」をかりて自分を「分析」することは、彼が(※ 短編)「濁った頭」の失敗以来捨ててしまった方法です。
 彼の文学的自我の実現は、これとはまったく逆の方法で、すなわち「他人の口」を徹底的にふさぐことで達成されたので、「大津順吉」はその最初の成果なのです。
 当然そこでは「我儘育ちの意気地なし」である順吉も全的な自己肯定以外は許されません。「他人の口」をふさぐためには、(※ 「濁った顔」の主人公)津田にはわづかに残っていた自己反省の能力も順吉からは完全に奪われます。理知は僕等の精神の内部にある「他人の口」の代弁者であるからです。
 彼は健康な肉体と魅力のある外貌のもとに、心理的狂人、あるいは理性を喪った純粋感覚の束として行動します。
 しかし「生活の余裕と思考の自由」とによって、これに近い精神的空白に導かれた同時代人と違って、彼はこの行動を導き、論理づけるだけの判断力と、自己の行動の正しさについての確信を持ちつづけます。
(中略)
 この「無人島」の住人の行動は、周囲の家族や愛人から見ても不可解である代りに、彼の内面においては 一一 一部の狂人におけると同様に 一一 一貫した論理を持っています。
 ただこの論理は、彼の感覚のあとを追い、その印象を秩序だてる役しかしないのです。
 ここに「大津順吉」が、そこに描かれた青年の激しく清潔な心の動きにかかわらず、青春の文学としても第一級の作品たり得ぬ理由があります。それは青年の思想の表現としては、個体的な生活の描写が勝ちすぎ、その生活の表現とすれば、主人公の内面の論理を作者がそのまま肯定しているという意味で観念的にすぎるのです。』(77〜79P)

『 すなわちそこで自己の感性を全的に倫理として肯定する道を拓いたことで、(※ 志賀にとっての)文学は宗教に代って、彼の「精神的な要求」をみたす手段となっただけではなく、彼自身が(※ 内村)鑑三に代って自分の「主人」になったからです。
 そしてこの場合、彼が鑑三に代ることが、自からキリストになり、神になることであったのは、これまで述べたところから「論理的」に帰納し得ることです。』(79P)

『 そしてこの(※ 『暗夜行路』の)主人公の特異な性格、或いは無性格は、この長編にちょうど二流の印象派の画家の個展を見ているような狭い単調性と、感覚的でありながらむしろそれゆえ抽象的な性格をあたえているので、このほとんど非文学的と形容したい長編は、外国のそれにくらべて云うまでもなく、我国の近代小説の目指して育ててきた理想に照らしても、驚くほど狭隘で特異な世界の表現にとどまります。
「『暗夜行路』を、近代日本文学の最高峰とすると、日本の文学は小さく堅まっているものに過ぎない感じがする。」(文学の行衛)と正宗白鳥が最近書いています。』(85〜86P)

『 作者と主人公とを同一視する読者の習慣に凭れかかって(※ 小説を)書くのは、作者の側から云えば、自己の名士意識をなんの疑惑もなく作品の土台とすることです。』(131P)

『 謙作の肉感性は、さきに述べたようにその生活の抽象性から生まれたものであり、人間がこのように抽象的存在になり得るというのは、近代社会を背景としてはじめて可能なことなのです。謙作のように総てを「純粋に俺一人の問題」に還元し、周囲の人間など認めない生活無能力者が、原始社会に生き得るかどうかは考えるまでもありません。こういう「我儘者」などそこには存在を許されませんし、たとえいたにしろ、すぐに餓死か刑死の運命が彼を見舞ったでしょう。』(136P)

『 原型の「時任謙作」から考えれば、ほぼ二十五年を完成までに要した「暗夜行路」には、志賀直哉の半生の体験の主要な筋道が織り込まれて居て、一種の教養小説の体裁をなしていると見られていますが、これも結局謙作を「志賀さん」と混同することから生じた買いかぶりであることは、仔細にこの小説を読めばわかります。』(137P)

これくらいで、もう充分だろう。

中村の『志賀直哉論』には、このような忌憚のない「厳しい批判」の言葉が刻みつけられているその反面、志賀への尊敬の念や同情心を持たない私などからすると、矛盾とも思えるほどの「志賀への高い評価」が語られてもいる。
つまり、中村の「小説家としての志賀直哉」評価は、志賀の問題点の大きさにおいて、決して高くはなかったものの、それでも志賀の「一貫性(二面性の無さ=純粋さ)」に対しては、深く人間的な尊敬の念を持っていたというのが、よくわかるのだ。そこには、私の言う「裏表がなくとも、馬鹿やキチガイは傍迷惑だ」というような、辛辣な割り切りは無かったのである。

中村には、志賀直哉に対するアンビヴェレンツな感情が、たしかにあった。それが私には、本書を通じて常に、ある種の「もどかしさ」として感じられたのであったが、この「あとがき」を読んで、やっとそれが腑に落ちたのである。
そして、中村のこうした感情が嘘いつわりのないものだからこそ、中村は「志賀直哉の生前に」、わざわざこれほど辛辣な作家論を、評論家嫌いの志賀から嫌われるのを覚悟の上で、「敢えて」書いてみせたのであろう。

なお、中村が志賀と面談した際に感じたという『動物磁気』のような魅力というのは、私も一度だけ経験したことがあるので、とてもよくわかる。
私の場合は、推理小説家の島田荘司からサインをもらった際に、その尋常ではない「柔らかく人を包み込むようなオーラ」に、いたく感心させられたのだ。
幸い、私はさほどの島田ファンではなかったから、このオーラにやられることもなく、「これが宗教家などが時々発しているという特別なオーラであり、これに多くの人がやられるのだな」と、かえって冷めた分析にとらわれただけだが、島田その人に「カリスマ的な人気」が出るのは、単に作品の魅力だけではなかったというのが、体験的に理解でき、心底納得もできたのである。

そしてこれは、たぶん志賀直哉についても、まったく同じことだったのではないか。
小説の魅力もさることながら、志賀直哉という「人」に直接接する機会のあった文壇人であればこそこそ、志賀に「心酔」し、志賀文学を「過大評価」してしまった人も少なくなかった、といった側面もあったのではないだろうか。

ちなみに、私はこれまでサイン会などで、たぶん50人近い作家と直接会っているが、島田荘司のようなオーラを感じた人は他にはないし、大西巨人や中井英夫といったカリスマ的人気を誇る作家と個人的に面談した時も、そんなオーラなどはまったく感じず、単に「尊敬する作家」への敬意を持っていただけだった。
つまり、前述のような「オーラ」というのは、こちらの「気持ち(主観)の問題」ではなく、やはり「特定の人が発している、客観的な何か」であろうというのはほぼ確かであり、いまだその正体は定かでないにしろ、非科学的なものではなく、「フェロモン」のような、ある種の物理現象だと私は考えている。

ともあれ本書は、私のささやかな志賀論とは違って、志賀の本質を時系列に沿って諄々と分析し、その上で、志賀の「その魅力に秘められた問題点」を呵責なく剔抉した、優れた作家論である。そして、それと同時に、本書は何より、志賀への「ラブレター」であったことも間違いなかろう。

中村光夫は、その「恋愛感情」にのぼせ上がることのない冷徹な目と分析能力を持って志賀直哉を呵責なく描出し、その上で「それでもお前が好きなのだ」という感情を、この長編評論に込めていた。
「おまえは、こんなに馬鹿で、嫌な性格で、困った奴である。しかし、それでも俺はお前が好きなのだ」という「不器用な告白」。それが、本書なのだと言えよう。

そして、この稀有なラブレターが人々の胸に届かないのだとしたら、それは中村の言うとおり、志賀直哉という宛名人が、すでに「美しき過去の幻影」と化して、その実体を失っているからなのではないだろうか。

初出:2020年5月1日「Amazonレビュー」

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  天然小説家の〈作為嫌悪〉:志賀直哉論

.志賀直哉という小説家に対する評価は、大きく二分されがちである。褒める人は「小説の神様」だなどと盛大に持ち上げるし、貶す人は「独り善がりのクソ野郎による、退屈な写生文学」だなどと罵倒する。
天地ほどの違いと言えるかもしれないが、しかし、どちらの評価も誤りではない。志賀直哉という小説家あるいはその人の「美点と難点」、そのどちらか一方にこだわって、その一方だけを強調しているにすぎないなのである。
だから、志賀直哉という小説家あるいはその人を評価するのであれば、この極端に分かれた評価を総合するような、志賀直哉の本質を語らなくてはならないだろう。それは、思うほど難しいことではない。

まず、志賀直哉の難点について。
志賀直哉という人が、客観的に見て「独り善がり=独善家」であるというのは、例えば、短編集『小説の神様・城崎にて』に収められている、自身の「不倫」を扱った一連の作品(「些事」「山科の記憶」「痴情」「晩秋」)を読めば明らかだろう。
主人公は作者の実名ではないし、細かいところには創作もあろうが、主人公の考え方は、志賀直哉のそれそのままと考えていい。なぜなら、志賀直哉という作家は「実感」をこそ重視して、「作為」による「作り事」を嫌い、そうしたものは「文学として下品」だと考えているからである。

ともあれ、志賀は、この「不倫連作」で、自己の「不倫」を正当化している。端的に言ってしまえば「好きになってしまったものは仕方がないじゃないか」「男とはこういうものだ」「それがわからずにぐずぐず言って、よけいに俺の嫌悪をかきたてる妻の方が愚かなのだ」といった調子なのだ。
たしかに「好きになってしまったものは仕方がない」とは言えるだろう。しかしそれは、当の本人が臆面もなく、威張りながら言うべきことではない。また「男とはこういうものだ」というのも、当の男である当人が、開きなおって言うことでもない。「それがわからずにぐずぐず言って、よけいに俺の嫌悪をかきたてる妻の方が愚かなのだ」と言うにいたっては、まさに「責任転嫁」であり「甘え」でしかない。

要は、志賀直哉の思考や言葉は、すべて「主観視点」なのである。「自分から見た場合の、一方的な評価」なのだ。つまり、そこには「客観性」というものが無い。「他者への思いやり=想像力」というものが皆無なのだ。「主観的にそうであっても、客観的にはそれは通らないだろう」という「反省」が、もののみごとに無いのである。

無論、志賀直哉が生きた「明治から昭和中期」にかけての時代には、まだ日本の社会には「男尊女卑」が生きていた。「女は、男の後を三歩さがって歩け」というようなことが言われていた。要は「女は男を立てるべき」「女は陰で男を支える存在であるべき」「女は控え目であるべき」といったことが「当たり前」と考えられており、そうしたことが女性の「美徳」とさえ考えられていたので、志賀直哉もまた、それを「当たり前」で「自然」なものだと思っていたのである。

当然、志賀直哉は「男女平等」などということは、「理屈」であり「作為」であり「不自然」だと考えていた。なるほど開明的で「立派そうな言い分」ではあるが、それは「人間の自然な姿ではない」と感じていた。
ましてや、「女権尊重主義」ですらない、今どきの「フェミニズム」など、志賀直哉は知る由もなく、想像すら不可能であった。そもそも志賀は、「哲学」書や「評論」書が嫌いだから、ろくに読んでもいない。

つまり志賀直哉は、こういう「時代的制約をこうむった自然主義」に立っていたからこそ、みずからの「不倫」を少しも「反省」することをしなかったのだ。彼にとっては「反省」とは、「小賢しい作為」であり「反自然」であり、結局のところは「不誠実な虚偽=嘘」でしかないと感じられたから、彼は意地でも自身の「主観に固執」したのである。

で、こういう人のこういう小説を、現代の私たちが読まされれば「独り善がりのクソ野郎」だと腹を立てたり「どうして自分を顧みることが出来ないのか。あまりにも主観的で、頭が悪すぎる」と感じるのも当然なのだ。
現代の私たちの「常識的理性」からすれば、志賀直哉の「主観主義という自然主義」は、結局のところ、社会的に温存されていた「独善」でしかなく、いっそ自堕落な「自己肯定=ナルシシズム」でしかないと評価するしかないからである。

.
次は、志賀直哉の美点である。
志賀直哉を「小説の神様」と褒める人がいる。何故か。

志賀直哉の「小説」への高い評価は、もっぱらその「簡潔清澄な文体」に拠っている。つまり「小説とは文体である」といった、日本文学に伝統的な「文体」重視論によって、志賀は「小説の神様」とまで呼ばれている。無論、この言葉は、志賀の傑作短編「小僧の神様」に引っ掛けて作られた「キャッチコピー」みたいなものなのだが、面白い言葉というのは、その含意に関係なく、えてして独り歩きしてしまうものなのだ。

たしかに志賀の「文体」はすばらしい。その「簡潔清澄」な文体は、まさに日本人好みである。こんな文章が書ければと憧れる人が少なくないのも当然だ。人間誰しも、ぐずぐずと細かい説明を重ね連ねる苦労などしたくはない。簡潔な言葉で、その意図するところを表現できれば、それに越したことはない。書く方も読む方も楽ちんで助かるからだ。
しかし、「小説=文学」というものは、「楽」ができれば良いというものではない。

新潮文庫版『暗夜行路』の解説「志賀直哉の生活と芸術」で、阿川弘之が次のようなエピソードを紹介している。

『 大正の初年、志賀直哉が未だ三十一、二歳の頃、夏目漱石の門下で直哉の資質を大変高く評価している人が二人あった。一人が和辻哲郎、もう一人は芥川龍之介、その話から始めようと思う。
 芥川がある時に、
「志賀さんの文章みたいなのは、書きたくても書けない。どうしたらああいう文章を書けるんでしょうね」
 と、師の漱石に訊ねた。
「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああいう風に書けるんだろう。俺もああいうのは書けない」
 漱石はそう答えたという。』

和辻哲郎と芥川龍之介が、志賀直哉の「文体」に惹かれていたというのは、とてもわかりやすい。和辻は「日本的なるもの」に惹かれていた人だし、芥川は「知性」の作家であり、否応なく「作為の作家」であったから、志賀の「天然」に憧れたのだろう。

しかし、ここで注意しなければならないのは、夏目漱石の志賀評である。漱石は、ここで志賀の「文体」を論じているが、決して褒めているわけではなく、その特質を語っているにすぎないのだ。
漱石もまた「知性」の人である。あれこれ考えて思い悩む人である。だから、芥川と同様に、志賀の「天然=自然=能天気」ぶりに憧れる気持ちはあっただろうが、しかし、そんなものになりたいとは思わなかったであろう。漱石は決して、現状をそのまま肯定する態の「自然」主義の人ではなく、むしろ反対の立場だったからだ。
もちろん、その漱石も、あれこれ悩んだあげく、晩年には「則天去私」の「自然」的境地を理想としたのだけれど、それは志賀のような「能天気な自己肯定」とは対極にある、「反・私」的なものだった。

つまり、志賀の「簡潔清澄な文体」には、「中身が無い」のだ。中身が無いから「簡潔清澄」なのである。ある意味では「恍惚の人=天然脳軟化症の人」であり、それに憧れを持つ人もいるにはいるが、それは漱石や芥川のように、考えることに疲れた人や、生きるのに疲れた人の、ある種の「現実逃避」でしかないのである。要は「俺も、あれくらい頭が悪ければ、幸せに生きられただろうに」ということでしかないのである。

じっさい、「小説=文学」の観点からしても、志賀直哉の「文体」というのは、必ずしも理想的なものではなかった。
例えば、丸谷才一は『文学のレッスン』で、次のように語っている。

『 志賀直哉はスケッチ的短篇小説を書かせるとすばらしい。「焚火」とか「城之崎にて」とか、あれははっきりいってスケッチです。それから、「十一月三日午後のこと」なんかも。スケッチは脱帽するくらいうまいものだけれど、『暗夜行路』となると本当に質が低くなる。「偉大な日本の小説」とはいえないですよ。』

.
端的に言えば、志賀直哉の小説には「思考の強度が皆無」だから、長編には不向きなのである。
志賀の優れた短編は、丸谷の言うとおり、おおむね「スケッチ」的な作品であり「作為(作り物)としての小説」ではない。「写生」なのだ。それは「色紙にさらりと描いたスケッチ」のようなものであり、その1枚を床の間に飾って鑑賞する分には、とても趣きがあって魅力的だ。
しかし、そうした色紙を百枚集めて、びっしりと貼り並べて鑑賞した場合、それは百倍の魅力を発するだろうか。無論、そんなことはない。ただ、雑然としてうるさくなり、個々の「淡白な魅力」は、その「物量」の中に埋没して打ち消し合い、何の魅力も持たない「雑多な塊」と化してしまうのである。
同じことを、別の喩えで説明しておこう。短歌や俳句などを書籍にする場合、1頁につき、せいぜい4つほどしか載せないのはなぜか。理由は同じである。そんな余白ばかりではもったいないからと、改行もなく頁いっぱいに作品を詰め込んで印刷したとしたら、文学に馴染みのない若者は「お得だ」と思うかもしれないが、普通の読者は興ざめするばかりだろう。そんなものでは、とうてい「鑑賞」できないからである。

つまり、長編『暗夜行路』とは、読むに堪えない「淡彩画の寄せ集め」でしかないから、どうしようもなく「退屈」なのである。
そこには全編をつらぬく「背骨」としての「思想」や「テーマ」といった「作為」が無く、つねに「その場かぎりの主観」の「写生」が、統率(という作為)もなく、並べられているだけなのである。
この長編の魅力とは、せいぜい志賀直哉という人を知るための「参考資料」になる、といった程度のことで、「小説」としては「結構を欠いた、だらしない凡作」に過ぎない。

.
それにしても、志賀直哉の「文学観」は、どうしてこうも「自堕落な自然主義」になってしまったのだろうか。
どうして「作為」を嫌い、「作り込まれた小説」を「下作」であると感じたりするのだろうか。どうして「創作」の面白さが分からないのだろうか。

それは、彼が「子供の無邪気な純粋さを愛し、自身子供たらんとした人」であったからだ。

志賀直哉のデビュー前短編「菜の花と少女」はほとんど「童話」であるし、志賀直哉という「私小説作家」のイメージとは関係ないところで高く評価される「清兵衛と瓢箪」や「小僧の神様」といった作品も、ほとんど「童話」であって、作者の子供に対する視線はとても温かい。
これ等の作品は、「私小説」ではなく、完全な「作り物(フィクション)」で、その意味で「作為=反自然」なのだが、「小説」としては成功している。それは、志賀の文学観に反しているにもかかわらず成功しているのだが、それはなぜか。
一一無論、そこには志賀直哉の「子供の無邪気な純粋さ」への「憧れ」が、まっすぐに反映されているからであり、その意味では「作り物(フィクション)」ではあっても、「作為」で作られたものではなかったからである。

志賀直哉の「子供の無邪気な純粋さへの憧れ」というものは、例えば「児を盗む話」のような「フィクション」作品だけではなく、「私小説」においてもハッキリとその魅力を発している。
志賀が子供を描いた作品は、多かれ少なかれ子供に好意的であり、ましてやその晩年に、自身の子を描いた諸作は「親バカな程の愛情に溢れた作品」となっていて、その描写は読者を微笑まさずにはおかない。

つまり、すでに指摘したとおり、志賀は「無邪気・純粋」ということに憧れており、「大人」になることを「作為に汚されること、不純になること」だと感じているから、「大人になることを拒絶」しているのである。

「大人になることを拒絶」して「子供のままでいようとする」から、彼は「我が儘」であり「独善的」であり「他者を思いやらない」。「子供」は、自己中心的であり、他者になど配慮しないからこそ「無邪気・純粋」なのだ。
変に他者のことを勘ぐって、あれこれ策を弄したりしない。つまり、そこには「作為」が無い。ただ「自然」に自分の「主観世界」を生きているからこそ、「子供」は「無邪気・純粋」なのだ。
そして「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」と願った結果が、彼の「反・作為」の「自然主義」であり「写生的文体」であり「独り善がりのクソ野郎」ぶりなのである。

志賀直哉は、「無邪気・純粋」であろうとして「思考=作為」を放棄した。つまり「考えない」のである。考えることは、作為であり、不純であり、偽物だから、そんなものは「文学=芸術」ではないので、俺はそんなものにかかずらわない、というのが「志賀直哉の論理」である。

実際「考えたって、本当のことは分からないし、ろくな結果にはならない」という「志賀直哉の断念」は、「范の犯罪」や「剃刀」といった「作為的・名短編」によく表れている。
ナイフ投げの芸人の范が、その技によって、舞台の上で妻を殺してしまった際、そこに「殺意」があったのか無かった(事故な)のか。そんなことは、いくら考えても答の出るものではない。なぜなら、そこでは「無意識」が問題となってくるからで、殺意があったと言えばあったし、無かったと言えば無かったとも言え、どちらか一方に決めることなどできないからだ。つまり、事実は「それそのまま」であって、その奥の「真相・真実」などというものは無く、それを見た気がしたとすれば、それは「作為的な幻想」にすぎない。私たちがやれるのは「事実」を事実として認めることだけであって、真相を探ろうとすれば、どこかで「無理」という「不純物」が紛れ込まずにはいないのだ。一一これが、志賀の「自然主義」なのである。
「剃刀」についても同様で、「毛ぞりの技術に自負を持つ、完璧主義の床屋が、体調不良にも関わらず完璧な仕事をしようとして無理をする。そのあげくに犯した小さな失敗に絶望して、すべてをぶち壊してしまう」という小説なのだが、これは「考えすぎて悩んだあげく、自殺してしまう小説家」の話だと読んでもいいだろう。志賀直哉の目には「芥川龍之介の死」は、このような「愚行」として映っていたにちがいない。だから、志賀は「下手の考え休むに似たり」と、「考える」などという「作為」を拒絶するのだ。

当然、「考えない志賀直哉=疑似子供としての志賀直哉」には、「説明」ということができないし、その必要も感じない。「説明」とは、たいがいは「他者への説明」であるし「他者に理解を求める」行為だが、それは如何にも「不純」である。「言い訳がましい」し、もとより「作為」であるから好ましくない。

したがって、志賀直哉には「自覚された思想や思考が無い」。あれやこれやを貫く「観念の背骨」が無い。そんなものは「不純」だから必要ないと思っているのだが、だからこそ彼は、人間的には「独り善がりのクソ野郎」でしかないし、「長編小説」が書けない。
志賀直哉には、ドストエフスキーのような「壮大かつ深い小説」は絶対書けない。同様に、志賀の対極的小説家である大西巨人の『神聖喜劇』のような小説を書くことはできない。志賀なら「そんなもの書きたくない」と言うだろうが、それは志賀が「子供」でしかなく、「大人」の小説を理解し得ないからでしかないのだ。

「大人になる」ということは、「世界を広げる」ということであり、それは「他者の世界をも取り込むことで成長する」ということである。
たしかに「他者の世界を取り込む」ということは、志賀の言うとおり「他者に染まる」ということであり「不純」ではあろう。しかし、自身に取り込まれた「他者」は、いつまでも「他者」のままでありつづけるわけではないし、そんなことは不可能だ。
つまり「取り込まれた他者は、適切に消化されるならば、私の血となり肉となって私を再構成し、その結果、私は、前とはまた違った、ひと回り大きな、純粋な私に成長している」ものなのである。それが「成長」なのだ。

志賀直哉の根底にあるのは「無邪気・純粋」への憧れであり、それ自体は悪いことではないようだが、志賀の場合、それが病的な「成長拒否」となっており、だからこそ自己を適切に「拡張」できず、したがって「他者」を思いやることができない。夫の不倫に苦しむ、妻を思いやることもできないのだ。
一方、志賀の微笑ましい「子供好き」は、所詮「ナルシシズム」の域を出ない。志賀の描く子供は「純粋な私(自身)」の反映でしかないのである。だから、志賀は徹頭徹尾「小さな私のことしか書かない」し「書けない」作家なのである。

「思いやりの欠如」とは「想像力の欠如」である。つまり、志賀直哉には、想像力が無い。だからこそ、外面的「描写」が冴えるのである。余計のことは考えずに、見たものを「写生」する。
しかし、むろんそれは「客観的な描写」などではない。彼は、その「本物の自然」という「混沌」を、自分好みに「純化」する。「不純なもの=余計なもの」を「排除」して純化するからこそ、彼の描く世界は「簡潔清澄」なのである。

したがって、志賀直哉は「小説の神様」などではなく、「神様小僧」でしかない。
それを「微笑ましい」と評価するか「グロテスク」だと評価するかは、もとより「読者の好み」の問題でしかないのである。

初出:2020年4月1日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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