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N.T. ライト 『悪と神の正義』 : 読む価値の無い、 凡庸な「神義論」の書

書評:N.T. ライト『悪と神の正義』(教文館)

本書は、かの「9.11」テロの時代になされた講演を元にしており、第一章はその当時の政治的世界情勢から説き起こすので、少しは現実と真剣に切り結ぶのかと思いきや、結局は「悪と向き合えるのはキリスト教だけ」という手前味噌に終わる、竜頭蛇尾の書。

結論は「赦し」しかない、という在り来たりな議論で、当然クリスチャン読者の多くは「今更そんなこと言われなくても、わかっているよ」と思うはずだが、だからこそライトが付け加えるのは、自分がここで言う「赦し」とは、凡百のそれではない、という、どうでもいい差別化の議論でしかない。

問題は、お説ごもっともなれど、現実にはそううまくはいかないし、うまくいかなかったというキリスト教の歴史的事実がいくらでもある、という現実を無視し、更には、自分自身の現実をも無視して、特別な個人にしか実行できないであろう理想論を得々と語って満足している点だ。

つまり、現実における「赦し」の困難さと向き合うこともなく、まるきり人ごとのように、気持ちよく語って満足している様子なのである。

そんなライトが、どのような人かは、彼の文章に明らかだ。

例えば、ハイゼンベルクやユング、ジョン・レノンにまで及ぶ、あまり必然性のない「知的ひけらかし」的言及に明らかな、有名人好き「権威主義」者の側面と、一方、名指ししない相手については、

『彼(※サタン)あるいはそれは(なぜか、フェミニストたちはサタンを〈彼女〉と呼ぶべきだとの運動はしたことがない(以下略)』(P135)

『二〇世紀の神学者の多くは、悪魔的なものについての話にはただ、戸惑っていた —— 少なくとも、無視できないほど過激に左翼的な神学者たちの何人か(以下略)』(P137)

『この複雑な状況の中で、キリスト教徒は決して、強い権威が従順な民衆を支配する、というようなポスト啓蒙主義の右派の標準的な解決に安んじてはならない』(P150)

といった具合で、「あいつもこいつも馬鹿ばかりでわかっていない(偏りがなく、全体を正しく深く見ているのは、私だけ)」という「口ぶり」に、ライトの「増上慢=自惚れ」ぶりは、明らかなのである。

そして、この程度の人が、『英国国教会を代表する新約学者のひとりであり、英国国教会の主教でもある』という「肩書き」においてのみ、ご本人にはとうてい実行できそうにもない「赦し」を語っているのだ。

権威好きな国教会信徒ならば鵜呑みにも出来ようが、知的に誠実なキリスト教徒なら眉を顰めるであろうし、まして非クリスチャンである私のような読者には、本書は、キリスト教のお気楽さと慢心を印象づけるのみなのである。

つまり、読むのなら、もっと良い「神義論」書は、他にいくらでもある、ということだ。

初出:2018年4月30日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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