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微妙なマスキュリティ:「人格水準の低下」、「声の纏足」とか。

統合失調症に関して、「人格水準の低下」という概念があるらしいです。

精神医学は哲学になってしまってはいけない。観察可能な事実に落とし込んでいかなければならない。人格水準の低下は、外見にはどのように現れるかである。 
 外見にあらわれるものがある。身なりからみてみよう。人格水準の低下としてみられるのは、外見が整っておらず、無頓着になっていることである。
〔…〕言動に現れる人格水準の低下として、行動が、道徳的、倫理的、常識的であるかである。つまり、基本的な人の道を守れるということである。人に不快感を与えたりしないかということである。生活態度といってもいいかもしれない。その社会の常識的な程度の中でのことである。
 思考の点ではどうだろう。複雑なものを単純化して捉えるなども生活の質の低下といえるかもしれない。簡単に思い込んで信じ込み、訂正が効かない思考様式とか。昔は倫理的だったのに、非倫理的なふるまいをするようになる。
 感情面では、繊細さやあたたかさなどが欠乏して、平板化、鈍麻するということだろう。この結果、無関心になるといえる。

「人格水準の低下(医療関係者向け)」 https://urawasanatorium.com/jinkakusuijun/
 最終アクセス日:2023/06/07 太字強調は元URL作成者)

この点に関して、自分のなかにも一時期は本当に外見的にも酷かったし(髪がめちゃくちゃ長く、特に黒髪になってからは不潔な感じがあった)、言動においても酷い時期はあった。そして、思考の面でも、自分は思い込みや妄想の観念を抱くところがあり、それで特に人間関係において迷惑をかけてしまった。感情面でも今も昔のように感情が良い意味でも悪い意味でも高ぶることがなくなってしまった。
そんな自分の状態は「人格水準の低下」としても捉えられる。ただ、この「人格水準の低下」があなたにはある、と医師が患者に指摘するのは「陰性感情の表明」になるらしく、今では別の言い方が探られているようである。

自分のこうした面についてどうして「人格水準の低下」という統合失調症の考え方に言及するかというと、自分の解離的に感じるというのが思い込みや妄想になってしまってはいけないからである。
それとは異なる見方もあるということを受け入れられなくなるとそれは何らかの問題になってしまう。自分は仮説として解離について言及しているだけで、それを信じ込んでいるわけではない、訂正不可能な状態ではないということを念のため表明しておく必要があると思ったからである。

今日も朝は仕事を休んだが、ベッドからなかなか起きられなかった。自分のなかで思考がまとまらず、どういう風に行動したら良いのかが分からなくなってしまう。また、このところ、一日をただ仕事とその後処理としての家事に追いやられてしまっていて、なかなか自分の時間を持てないでいる。
なので、自分の状態としても本当にこれで良いのかは分からない。だけど、自分のこの状態について念のためここで記述しておいて、当人は自在に動いているわけではなく、現実のなかで壁にぶち当たりながら生きているということを了解しておいてもらえたらと思ったのだった。

インターネットではやはり相手の性別というものが読み手は無意識に考えるものだと思うので、僕自身も男性であるということ(生まれも男性、育ちも男性)はここに断っておきたい。
ただ、女性ホルモンを飲んだことがあるということは確かなことで、それは自分で買ったのだった。
医学的な処方として女性ホルモンを処方されたものを飲んだわけではないので、その点、自己判断ということになる。

診断のためには、性転換的な性同一性が少なくとも2年間持続していなければならず、それが統合失調症のような他の精神障害の一症状であったり、半陰陽の、あるいは遺伝的な、あるいは性染色体のいかなる異常とも関係するものであってはならない。

「性同一性障害」 https://www.e-heartclinic.com/kokoro-info/special/personality_15.html (最終アクセス日:2023/06/07、太字強調はブログ作成者による)

私もジェンダークリニックに行ったことはあったのだが、そことはまた異なるクリニックで(転院はたくさんしている)、性別違和(かつて性同一性障害と言われた)の診断基準で、「精神疾患の影響でそう感じている場合は(その診断から)除外される」ということは指摘された。私は「性別違和の疑いあり」と言われたのだが、結局それは診断書に書かれるレベルではなかった。疑いのままで終わったのだろう。
自分の言葉がもし女性の言葉であると期待して読んでいた人は、自分自身は男性であるということによって失望されるかもしれないので、その点、おそらくは男性であるという自己同一性に基づく表象を用いて自分について記述しているということについてここで断っておきたい。(自分はその意味で、精神的にはまだ男性の面もあると思う。)

私は現在は男性であるとして、いわゆる男性のセクシュアリティに基づく記事を作成している。だけど、自分がそうではない女性的な文章を書く方が良いのか、そこには何らかの権力の働きがあるのではないかとぼんやりとは思っている。自分は自分より立場が上の人には声が上ずってしまうというか、いわゆる「声の纏足」を履いたような状態になってしまう。

それは、自分は強く出られない。もともと身体が弱く、男子校でも学校では男性的ではなかった。そのことを踏まえて、そうした声の出方になっているのだと思う。自分の声も職場では高い。
ただ、個人的な話をする時は、普通に男性の振る舞いもしている。そこが以前の記事で引用したような、人間には人為的構築物としての側面と、動物としての側面もあるということなのだと思う。

私の現況としてはこうであるが、自分自身、今はどちらかというと「声の纏足」を自分に履かせていない言葉になる。
それで自分の考えていることを書いて、まとめて、ぐちゃぐちゃした頭のなかを吐き出して、これから少し自分を冷静に見られるようにしたいと思っている。そうしたことを踏まえて、今日はこれから仕事に行く。
ここまで読んでくださった人がいたら、ありがとうございました。

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