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複数性とは「悪」であるのか、という点から考えて。

これはメモみたいことになるかもしれないけど、千葉さん、ドゥルーズと小説で知られている千葉さんのテキストとして、複数性とは「悪」であるという内容であり、自分としても惹かれる内容はあった。
確かに複数性とは「悪」なのだろうか。
個人が分かたれていることが「悪」であり、それをなくしていく、千葉さんの言葉によれば、人間を天使化していく流れが今あるのではないか、という。
この点について、奇しくもX JAPANの新しい曲のタイトルがAngelであった。

人間を天使化していくことについて、それはそれで良いのだろうか。
それは『新世紀エヴァンゲリオン』的な世界にならないだろうか。
そうした問いかけが千葉さんのなかにはあったように思う。
人間の内心の「悪」を消し去っていくことが望ましいのか。
人間のなかの「善く正しくないこと」に対する欲望を人間から消し去ることは良いのか、そうした内容の問いかけを含んでいる。

クリーン化していくことが本当に望ましいのかという点については次の文章もある。

この点について、社会がクリーンなものになっていくことに対する抵抗としての身体的な欲望(もちろんそこには性的なものもあるだろう)、という言葉で千葉さんは考えていることがある。
欲望は確かにすべて人間の理性でコントロールできるかというとそうではないところもある。

欲望やまた先の記事のなかにあるのは「秘密」の問題である。
個人の「秘密」の問題。それがなくなってしまうと、人間は交換可能な単位になってしまう。それで良いのか。
それは、人間が〈個別性―一般性〉の回路のなかに埋め込まれ、〈単独性―普遍性〉の回路から疎外されてしまうことになるのではないか。
この〈個別性―一般性〉の回路と〈単独性―普遍性〉の回路については、柄谷行人のテクストから私は影響を受けている。というより、そのテクストから知ったのだ。
そのなかで『探究Ⅱ』については今見つからなかったので、『トランスクリティーク』から引用したい。

ここで私は混乱を避けるために言葉を定義することにしよう。まず一般性と普遍性を区別する。これらはほとんどつねに混同されている。そして、それはその反対概念に関しても同様である。たとえば、個別性や特殊性や単独性が混同されている。したがって、個別性―一般性という対と、単独性―普遍性という対を区別しなければならない。

柄谷行人 『トランスクリティーク:カントとマルクス』 岩波現代文庫、2010、150頁。

個人は、たとえば、まず日本語(日本民族)のなかで個々人となる。人類(人間一般)というような普遍性はこのような特殊性を欠いたときは空疎で抽象的である。

同上、153頁。

ところで、われわれは単独性について語ることができない。なぜなら、言語はいつもそれを個別性―一般性の回路に引き戻してしまうからだ。たとえば、われわれは「この物」や「この私」が特異であると感じている。だが、それを言おうとすると、たんに一般概念の限定化でしかなくなる。

同上、157頁。

あまりにも粗い理解かもしれないが、
(1)例えば〈個別性―一般性〉としては、日本語を話す日本人のなかで、自分を個だと認識する。その時、私は集団として日本人のカテゴリーのなかに類的に所属している、そしてその点において、他の日本語を話す日本人と交換可能な存在である。それは自分が貨幣のような存在で、貨幣は他の同額の貨幣と違ったものであってはならず、またさらに商品と交換可能でないといけないので、この〈個別性―一般性〉の回路がなくなると社会が成り立たなくなってしまうのではないか。
(2)しかし、〈単独性―普遍性〉においては、私は「他でもないこの私」という存在として認識されていて、その「他でもないこの私」であるところから、キルケゴール的な意味での「単独者」であるところから、人類(人間一般)〔この場合の一般は交換可能性を保証するものではない〕という普遍的なものにまで到達することができるという実存主義的なものが後者の回路にはかけられていると思われる。

千葉さんの記事のなかで、次のように書かれている。(インタビューだから話されたということなのだと思われるが。)

しかし、すべてが公共空間になり、個人が「秘密」をもてなくなったら、個人はいなくなってしまう。その人がもつ特殊な秘密がなくなったら、誰でも交換可能な単位になってしまうということです。

「いまあえて主張しないといけない。複数性とは「悪」である:これからの〈らしさ〉のゆくえ #1 千葉雅也」https://wired.jp/2020/03/19/hints-for-the-futurist-chiba/
(最終アクセス日:2023/05/28)

先の区別で言うと、言葉の違いはあっても、その個人における「秘密」が特殊なものであり、それがその人を個人としてならしめている単独的なものであるから、その秘密が失われたら、すべての個人は等価交換できるものになってしまうということになる。
私の例えば妻がいて、その妻が他の人の妻と交換可能になってしまうような事態になる。それこそ、マッチングアプリのなかのステータスが同じであれば、交換可能になってしまうという世界になってしまう。

ジェンダーの問題を考えるにしても、まずは公共空間の問題なのか、私的空間の問題なのかを分けて考える必要があります。でも、公共空間と私的空間の境界は移動するし、決定的に分けられるものではない。それなのに、その境界を移動させ、すべてを公共空間にしていきたいという動きは、ますます強まっています。インターネットには、個人の内面性にまで介入して人々を道徳化していこうとする人もたくさんいます。

同上。

今の引用箇所の前の部分でも、ジェンダーについて言及されている。
ジェンダーもそれが公共空間の問題なのか、私的空間の問題なのか、そこが重要だと千葉さんは考えている。
公共空間と私的空間の境界を移動させ、すべて公共空間にしていきたいという動きはますます強まっているということが言われている。

結局、公共空間とはみんなが対等に労働をする場所です。つまり、すべてが公共空間になると、みんなが交換可能な労働機械になる。「遊び」がなくなるということです。

自分の場合、むしろ公共空間においてジェンダーがトランスジェンダー化してしまうことについて自分は考えていた。
私的空間においては男性として、男―女の関係のなかでの恋愛を経験していたし、ただ、それが公共空間のなかに自分が湧出した時に、自分のジェンダーが男性のままでいられないという問題、実は高校時代にすでに感じていた自分は他の男性と何か違う気がするという感覚と結びついて、自分がトランスジェンダー化してしまう(公共空間においてトランスジェンダー化してしまうけど、私的空間においてはむしろ「男」の役割を担ってきたということ)ということになってしまっていた。
だから、自分の場合、トランスジェンダーの経験はかなり特殊な経験かもしれず、MTFトランスジェンダーとくに性別適合手術を経験したMTFトランスセクシュアルの人と自分の男として女と恋愛し、付き合いもし、もちろん別れもしたという経験と一緒に語れない点があるとしたら、それは自分はシスジェンダー/トランスジェンダーというマジョリティとマイノリティを分ける二分法と、さらに(トランスジェンダーだと自分がしたら)異性愛/同性愛というさらに同じくマジョリティとマイノリティを分ける二分法のなかでMTFトランスジェンダーとしてメディアに出られる方は「男性が好きだ」という人が多いので、その点、自分の「女性が好き」だという点、なのに、公共空間においては「男らしく」振る舞えない、その問題、それは労働をしている時の自分の口調がかなり女性的な感じになっているということがあると思われるのだが、自分が社会人になるのを抵抗する気持ちがあったのは、この自分のジェンダーの問題を無意識に感じるところがあったからかもしれないと思っている。
「男」としての役割と(ただしそれは私的空間における「男」としての振る舞い)、そしてある意味で「女」としての役割(トランスジェンダー的な言葉遣いをする公共空間での自分)との間のなかでかなりの葛藤が生じていて、自分はこの「男」と「女」のどちらも使い分けているというかそうとしか話せないモメントがあるということ、そしてそれぞれ「男」=「私的空間」/「女」=「公共空間」となっている時、私は「男」なのか「女」なのか、そこが分からないと今率直に言葉にすることができる。

主人格という言葉を使うなら、主人格=男=私的空間で、自分の基本人格=女=公共空間となっている。
公共空間での自分が自分の公式のジェンダーになるのだろうか。
それとも、私的空間での自分が自分の公式のジェンダーになるのだろうか。
その点、かなり複雑なところではあるが、考えを巡らせるポイントではある。

もちろん、この場合の女というのも、生物学的な意味で言っているのではなく、人為的な意味での女である。言葉遣いとか声の高さとかが女性的であるということ。公共空間ではそうなっている。

人間は半分動物で、半分は人為的構築物であり、そのハイブリッドであることが人間の特徴です。その意味でも「男らしさ/女らしさ」には、素朴な「雄らしさ/雌らしさ」という部分があり、解体しきれないものです。重要なのは「ジェンダーを問題にする必要がないところで問題にするのはやめてくれ」ということです。ただ、ジェンダーの問題にかかわる場面とそうでない場面の区別は難しく、おそらくそれを一意に定めることはできません。

同上。

実際、千葉さんの言葉でも、人間は半分動物で、半分人為的構築物と語っている。その点で、自分は動物としては雄だが、人為的構築物として「女」を纏っている、特に言語的にということになるのだろうか。
ところで、このブログでは男性的な言葉遣いで書いている。
それは、今までそうした仕方で文章を書くことが多かったからで、それは自分の主人格ということになるのだと思われる。

ただし、現在、労働を公共空間においてしている都合上、自分に「男性の意識」と「女性の意識」があるなかで、こちらの「男性の意識」側を使う機会は日々減ってきている。
このままだと…と思うので、ブログを書いて、「男性の意識」側のリハビリをしていこうと思っているのである。

なので、ここは自分のあくまでもリハビリ空間、文章を書くリハビリ空間ということになるのだけれど、何か読んで得られるものがあるように、他者にも開いた形で書いている。
どんな形で読んでくださっても構わない。

元々は自分の心の葛藤について書いている。
葛藤をなくすと、精神病(ラカンの意味で)になってしまう。
なので、まずは自分の葛藤を葛藤としてしっかり持ち、神経症化していく必要があるということなのだろう。

そのことについて最後に書いておくけれど、自分も一度考えたことがあった。Writing as woman(女性として書く)、ということについて。
ドゥルーズ+ガタリはそのことについて考えている。

つまり女性への生成変化や子供への生成変化があり、この生成変化は、明確に区別されたモル状の抽象的実体としての女性や子供とは似ても似つかないということ(もっとも、女性や子供が特権的な位置を占めることも可能だろう。しかしそれは可能というだけで、あくまでも生成変化に依存している。)

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『千のプラトー 中:資本主義と分裂症 』宇野邦一ほか訳、河出文庫、2010、240頁。 

だが、われわれが言いたいのは、女性への生成変化と不可分の関係にあるこれらの局面は、まず別のものとの関係において理解されるべきだということである。つまり女性の姿を模倣したり、それを身にまとったりすることではなく、運動と静止の関係に入るような、あるいはミクロの女性性の近傍域に入るような微粒子を放出すること、つまりわれわれの内部に分子状の女性を生産し、分子状女性を創造することが問題なのだ。そうした創造が男性の特権だと主張するつもりはない。そうではなくて、男性が実際に女性に〈なる〉、あるいは女性に〈なる〉可能性を獲得するためには、抽象的実体としての女性が女性になる必要があると言いたいのである。

同上、241頁、太字強調は原著者。

女性独自のエクリチュールについて意見を求められたとき、ヴァージニア・ウルフは「女性として」書くと考えただけで身の毛がよだつ思いだと答えている。それよりもむしろ、エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。

同上、242頁、太字強調は原著者。

ここまで引用して、自分もその意味において公共空間において、「女性への生成変化」のなかに自分が生きているということを思うことができるのかもしれない。
それは「生成変化」なのだろう。
確かにそうした「生成変化」があるなかで、自分のあるいは「男性として書く」とか「女性として書く」とかそうしたこと(を考えてきたが、ドゥルーズ+ガタリとしてはそうした実体的なカテゴリーとしての「男性」「女性」として書くというのは視野が狭いかそもそも存在しないことなのだろうけど)、しかし本当は「生成変化」だけがあるのではないかという思いも少しは湧いてきているが、そのなかで自分はどのような事態にあったのかをまとめつつ、ここでWriting as womanという内容で書いたことは自分が一回国際会議で発表しようとしたことなので、そのアイデアは私のものなのだけど、研究の現場に復帰できるかもわからないし、同じテーマでは発表もしないだろうから、当事者的なテーマはブログのなかに降ろして言って良いかなと思っている。

また、自分のリハビリにもなると思うので。
とりあえず、言葉を書いていく。
元々は自分のためのものだけど、もちろん人が読んでも良い内容になっていると思うけれど、他者視点がしっかりあるかはあまり分からない…。



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