見出し画像

自伝を書く

 作家羽村形而はふと自伝を書こうと思い立った。作家としてデビューしてから十年。もう我が身を振り返っても良い頃だ。作家として次のステップへ進むためここで人生の区切りでもつけておこう。彼はそう決心し早速自伝に取り掛かる準備を始めた。

 だが羽村はそのまま自分の過去を年代順に書いても面白みはないと思った。そもそも自分の記憶なんてあてにはならない。人間は自分の都合のいいように過去を改変するからだ。ならばと彼は考えた。自分の記憶があてにならないならば、今まで自分が出会った人間から自分の話を聞けば良いのではないか。いや、むしろ自分の記憶している過去の自分と、他人の知っている自分との食い違いをそのまま書いた方がより自伝の深みが出るのでないか。その方がこの作家羽村形而の姿を多面的に書く事が出来、その結果本当の自分という人間を知る事が出来るのではないか。羽村はこの思いつきに一人興奮した。これは作家のありふれた自伝ではなく、作家が本当の自分を知るための旅なのだ。自分とは一体なんであろう。他人の覚えている自分はどんな自分なのか。彼は早速知り合いの編集者に向かって電話をした。

 電話に出た編集者に向かって羽村は今から書こうとしている自伝の構想を話した。すると編集者は感嘆の声をあげてすぐに編集長に話を通すと言ってくれた。そしてすぐに文芸誌に掲載するからとの返事がきた。編集者は興奮した口調で一挙掲載か連載かどちらが良いか相談するから明日会えないかと聞いてきた。

 そんなわけで作家羽村形而は今ローカル電車で生まれ育った故郷に向かっていた。故郷を目の前にして羽村は急にソワソワしてきた。自分は今二度と帰ってくるもんかと誓って飛び出した村にこうして再び戻って来ようとしている。両親が赤ん坊の自分を巻き込んで一家心中を起こし、一人生き残って天涯孤独で暮らしてきたあの村にはろくな思い出はないはずなのに、こうして心が騒ぐのは何故だろうか。やはり自分が生まれてからずっと暮らしてきた故郷だからなのだろうか。

 やがて電車からもう時期終点の駅に着くとのアナウンスが流れた。そうこの駅こそ彼の故郷の入り口であった。ここから彼は東京へと出たのだ。そして今彼はここから自分の生まれ故郷に帰ろうとしている。

 駅の外の久しぶりに見る故郷はやっぱり、いやより寂れ果てていた。この寂れっぷりを見て羽村はやっぱりここが自分の故郷だと感じた。彼の書く陰惨な物語のインスピレーションの全てはここにあると思った。駅は塗装の剥がれとミサイル攻撃を受けたのかと思われる程の大きな穴がいくつもあった。そして彼が村との往復にいつも使っていたバスが停まる小さいバスターミナルにはそこら中には無数の穴や割れ目があった。これはまさに衰退という言葉が相応しい光景だった。

 羽村は今たまたまいたオンボロタクシーに乗って自分の家があった場所へと向かっているところだった。彼は目の前のあまりの変わりなさと陰惨さにたまらず「相変わらずひっでえとこだな」と呟いた。すると八十は超えているであろう運転手が笑って彼に言った。

「お客さん、よその方ですか。こんな辺鄙な場所にわざわざ御足労ありがとうございます。で、お客さん今日は何の用事でいらしたんですか?まさか観光っことはないですよね?」

 羽村は苦笑いしながら自分は地元の人間で今日は久しぶりに故郷へ帰ってきたのだと答えたが、彼はそう喋っている間に突然運転手の顔をハッキリと思い出した。

「あ、あなた僕の事覚えてますか?僕が不良少年だった頃酒に酔っぱらった僕を当時住んでいたアパートまで送ってくれたことありましたよね?あなたはあの時送っている最中にいきなりタクシー停めて僕をボコスカ殴りましたよね。その時あなたは泣きながら僕にこう言ってくれたんですよ。『いつまでも死んだ親を恨んでもしょうがねえだろ!親に仕返ししたかったらちゃんと生きて見返せよ!このままじゃお前さんは遅れて親と心中するだけだろうが!』。僕今でもその言葉覚えています。その言葉があったから僕は今こうして作家になれたんです。ああ!会えてよかった!僕ずっとあなたにお礼が言いたかったんです!」

 しかし運転手はいかにも訳のわからんと言った顔で「はて?そんな事があったかのう」と呟いた。羽村はこの運転手の言葉を聞いて悲しくなった。やはりどんな記憶も思いも老化という現実には勝てないのであろうか。最初にあった過去の人物がこれだとは。羽村は運転手の老化ぶりを目の当たりにして今後の取材の行く末に不安を感じた。もしかしたら村の連中がひょっとしたら自分の事などまるで覚えていない事だってあり得るかもしれないと思った。

 その不安はあまりにも正しかった。いや正し過ぎた。タクシーで村の外れに降りた羽村は早速かつての友人や同級生を尋ねたが尋ねる人尋ねる人皆彼を知らないと言った。自分が彼らとの交友や思い出をどれだけ語っても皆一様に知らないと答えた。彼はたまらず自分が今作家をやっていて自伝を書こうとしている事を話したが、それを聞いてもみんな驚くどころか不審な目で彼を見て無理矢理ドアを閉めた。

 羽村は故郷の村の人々のあまりの忘却ぶりに愕然とした。やっぱり自分はみんなにとってどうでも良い存在だったのか。みんな俺が一家心中の生き残りだって告白した時泣いてくれたじゃないか。俺たち私たちだけはあなたを見捨てない。そう言ってくれたじゃないか。それがどうしてこんなことになるんだよ。

 一体こんなことどうやって自伝に書けばいいんだ。過去の自分のありのままを、自分を知っている人たちの証言を交えて書こうなんて思っていたのに、みんな忘れていましたじゃ話にならないじゃないか。もしかしてそれを書けってことなのか?昔の自分が知りたくて故郷に友人を訪ねて昔の自分の事を聞いたけど誰も、自分という人間がいたことさえも覚えていませんでしたっていうどうしようもない三文話を。ああ!なんて惨めなんだ!羽村は頭を抱えてこう叫んだ。これが他の連中だけならまだマシだった。まさか彼女まで僕の事をすっかり忘れていたなんて!

 彼女を訪ねたのは一番最後だった。大事なものは最後までとっておく。たとえとっておいているうちに誰かに奪われたとしてもというポリシーに従って羽村は彼女を一番最後に尋ねたのだ。彼女は中学の同級生で一番仲良くしていた女の子であった。彼は当時から彼女が好きだったが、とうとう告白できずじまいだった。それは思春期の躊躇いであるからだが、同時に自身が一家心中の生き残りであるという負い目もあったからかもしれない。

 久しぶりに見た彼女を見て羽村はすっかり大人っぽくなったと感じた。いや、大人なんだから大人に決まってはいた。だが記憶の中の中学生の彼女と現実の大人の彼女のギャップはやはり大きかった。羽村は彼女がまだ独身である事を名前から知ってホッとするものを感じた。彼は胸を波うたせながら彼女に聞いたのだ。

「俺、羽村だけど覚えている?」

「はぁ?そんな人存じ上げませんが……別の人ど誤解されていません?」

「い、いや誤解も何も君は君じゃないか!この顔ちゃんと見ろよ。僕は羽村形而だぞ。今東京で作家やってるんだ。忘れてるんだったら今思い出せよ!」

 しかし彼女にはこの羽村のあまりに悲痛な訴えは全く届かなかった。彼女はただ彼を憐れむように見て申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい。私その方とは別人です」

 ああ!こんな惨めな事があるだろうか!羽村形而は今自分が存在することさえ疑い始めた。過去を求めて故郷に行ったらそこの人間が誰も自分を覚えていなかったなんて!自伝なんか書いて一体何になるんだ!もうやり切れない!いっそここで死んでしまった方がマシだ!

 その時項垂れている羽村の後ろから誰かが声をかけてきた。振り返るとなんと彼女がそこに立っているではないか!彼は目を剥いて彼女をガン見した。まさか僕の事を思い出したのか!すると彼女の後ろから警官が現れた。警官は訝しげに羽村を眺めながら彼女に耳打ちした。すると彼女は羽村を指差してこう言った。

「あの……この人自分が私の知り合いの家をみんな回って自分へ人気作家の羽村形而だって言ってみんなに訳のわからない事言って困らせているんです。危ないから逮捕して下さい。みんな怖がってますよ」

「ああそうですか。じゃあ捕まえて然るべき所に隔離しないといけませんね」

「さぁ、申し訳ないけどあなたを今から署に連行するから」と警官は羽村の肩を叩いて持っていた手錠をちらつかせた。それを見て羽村は地面に崩れて泣き叫んだ。

「何で誰も俺を覚えていないんだよぉ〜!」


 ここで羽村は目覚めた。目を開けると乗務員が心配そうな顔で彼をみていた。

「あの、大丈夫ですか?さっきから凄いうなされていたようなんですが……」

 羽村はそう言われてハッキリ意識を取り戻して周りを見た。ここは新幹線で自分は今新幹線で故郷へと帰るとこなのだ。まだ故郷にはついていない。彼はさっきの出来事が夢であった事に涙を流して喜んだ。ああ!俺はまだまだ故郷にはついていなかった!さっきの夢は全部出鱈目だ!彼は勢いでガッツポーズをしようとしたが、周りの連中の殺意の目を見てそのまま腕を下ろした。乗務員は羽村に他のお客様のご迷惑にならないようにと釘を差してその場を去った。

 しばらくしてから羽村はスマホを取り出して故郷の母からのメールを読んだ。さっきの夢の事があったのか。いつもはうざいとしか思っていなかった母からのメールが途端に愛しく思えて泣けてきた。そのメールにはこんな事が書かれていた。

『帰ってくるっつうから親戚や友達にも連絡しといたべ。美味しい食いもんたくさん用意しておくから楽しみに待っとけ。あとお父ちゃんも最近スマホ習い始めたからもう時期メール打てるようになるべさ。父ちゃんオラがいくら教えても身に付かんから無理矢理教室に通わせたんだべさ。オラ父ちゃんになんか言いたいごとねえかって聞いたんだけんど父ちゃん直接話すてえって言ってただ。だから絶対来てくんろ。お父ちゃんおめさ来ねえとショックで死んじまうだ。おっと大事なこと書くの忘れてただ。隣の味子ちゃんいるべ?ほら中学の時の同級生。あの子おめえの事よく話すてるだよ。きっとおめえにホの字だべ。あってあげてあげれ。味子ちゃん最近すっかりめんこくなっとるからおめえもホの字になるかもしれねえべよ。じゃまだな。家で待っとるべな』

 羽村は読み終えて思いっきり大号泣した。あれだけうざいと思い天涯孤独だと嘯いて存在を消そうとしていた事が恥ずかしくなった。ああ!やっぱり離れても離れられないのが故郷。どうして一時期あんなにも存在を抹消したいと思ったほど、自分の生まれ育ったあの場所を嫌っていたのか。羽村さらに号泣したが、その時また乗務員が彼の肩を叩いてこう言った。

「何度も何度もやめて下さい。他のお客様があなたを殺したいほど迷惑しているのかわからないんですか?」

 羽村の前には無数の殺意の視線があった。彼はびびって縮こまり大人しく新幹線が駅に到着するのを待った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?