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巻き込む人、呑み込む母

記事の中で、
「生きづらい人」
「自分を嫌っている人」
「自分が無い人」
などの表現を用いることが多くあるのですが、

これらは、同じことを言っています。

つまり、生きづらい人は、自分を嫌っていますし、心の中に確かな、自分、という意識が育っていません。

生きづらいけど、自分大好き、という人は居ませんし、
自分のことが大好きだけれども、確かな自分という意識が無い状態は、あり得ないと思っています。

自分が無い、と表現することも多いのですが、
心の中から、自分、が消えてしまうことは無く、
無いに等しいぐらいに、心の中の自分が小さく固く縮こまっている状態を、指しています。

そして、この心の中の、自分、の外郭線が、自分と他者の分ける、感情の境界線、です。

だから、生きづらい人は、

自分を嫌っていて、
心の中の確かな、自分、という意識が脆弱で、
自他を分ける、感情の境界線が曖昧、な人、
ということになります。

こういった特質を背負い込む原因は、余程のレアケースを除いては、
その人の幼少期にある、と言えます。

心のこと、の答えは、外には無く、全て自分の心の中にある、と思っていますが、
唯一の例外が、幼少期、なのです。

幼い子供は、心の中に、自分、は未だ育っておらず、感情の境界線も無い訳です。

この時期、自分と母親との区別が無いからこそ、その子は母子一体となった特別な季節を過します。

母子一体の季節に、母親から抱かれ、守られ、愛される中で、心の中の、自分、が育ち、自他を分ける感情の境界線も引かれることになります。

この時、母親の心が未熟で、子供を受け容れることが出来ないと、
母子一体の関係性になることは出来ず、

子供は、自分、という意識が育たず、感情の境界線も極めて曖昧になってしまいます。

つまり、自分と親とが一体になるべき時期は、子供の心に、自分、はある訳も無く、境界線も無い訳です。

その時期は人生に於いて唯一特別な時期であり、その頃に起きたことは、子には一切の責任はありません。

母子一体の時期に起きたつまづきの原因は、親の心にある、と言えます。

つまづいた、とは言え、無力な幼児は親を慕います。

親の心に、受け容れるほどの成熟が無くても、慕う子供は、親子関係を人間関係の雛形、にしてしまいます。

その子は、自覚の有る無しは脇に置いても、苦しい幼少期、子供時代、を過し、生きづらい大人になります。

自分が嫌いで、
心の中の、自分、は脆弱で、
感情の境界線は曖昧で、
人間関係の雛形は、ズレています。

生きづらい人は、長期的、安定的な人間関係を作ることが、押し並べて苦手です。

雛形がズレているから、です。

そんなズレた、人間関係の雛形にフィットするのは、やはり同じ様に、生きづらく、ズレた人間関係の雛形を持っている人、なのです。

生きづらい人は、生きづらい人と引き合います。

引き合って、人間関係の雛形にハマれば、上手くいくのでしょうか?

お互いに、自分、が脆弱で、自分と相手の境界線が曖昧です。

相手が自分の感情を理解してないことが、許せなくなります。

お互いに、そうです。

相手の感情と自分の感情が混ざりあってグチャグチャになります。

ぶつかり、試し、騙し、傷つけ合う関係性に陥ります。

心理的に巻き込み、巻き込まれ、を繰り返すことになります。


その人が母になり、子供との親子関係になると、

パワーバランスは、圧倒的に親が強く、子供は徹底的に弱者です。

親が主で、子が従です。
親が裁き、子が裁かれます。 

未だ幼く、自分が育っておらず、感情の境界線が無い、子供と、

心が未成熟で、自分が無く、感情の境界線が曖昧な親は、

感情的には混ざりあってグチャグチャです。

力関係が圧倒的なので、ぶつかり合う関係性にはならず、

親がぶつけ、親が試し、親が騙し、親が裁き、親が傷つけます。

親はやりたい放題、子供は、サンドバッグ状態です。


親子でなければ、巻き込み、巻き込まれ、の関係性ですが、

親子という力関係の下では、母親が子供を、呑み込みます。

親と子のパワーバランスの偏りは、夫婦関係、恋人関係、友人関係などの力関係の偏りとは、次元が違います。

何故なら、自然の理として、無力な幼い子供は、親を慕い尽くす仕組みになっています。

暴力の介在する男女関係は、圧倒的な体力差から女性側の恐怖は大変なものですが、

その関係性は、巻き込み巻き込まれる関係性であり、

子供と母親の場合は、子供は呑み込まれ、親は呑み込みます。

子供は生まれた時から呑み込まれた状態しか知らないので、
呑み込まれながら、母親に抱かれている、と思い込み、

母親は自分が抱える、生きづらさ、から目を逸らすことに必死で、子供を呑み込んでいることに気が付かず、

やはり、飲み込みながら、我が子を抱きしめている、と錯覚しています。

だから虐待は、する親も、される子も、気がつくことが少ないのです。


そうやって長く生きた母子は、確かに気づくことは、容易ではありませんが、

自分は我が子を愛した、
自分は母親から愛された、

と思った時に、心をチクリと刺す様な、痛みがあったなら、

怖がらずに、真実を探り、正面から見据えるタイミングが来た、ということです。

小さなトゲの痛みを感じて、探って、

見据えて欲しく思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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