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親を越え、歩き出した証し

自分の想い、が無い人がいます。

どうなりたい、どうしたい、何が好きで、何が嫌い、
全部、無い人がいます。

想いが有るフリ、は出来ます。

その人は、生まれた時から、何かのフリをして生きて来たので、

本当の想いと、想いが有るフリの、違いがわかっていません。
見分けがつかないのです。

だから、フリをしながら、自分が何を欲しているのか、さっぱりわかっていません。

結論から言うと、この人には、想いがありません。
想いを持ち様が無いんです。

何故なら、この人には【自分】が無いから、です。

生きづらさ、の正体は突き詰めれば、心の中に確かな【自分】という意識、が無いことと言えます。

【自分】が無いから、感じること、が出来ず、自分の人生を、他人事の様にしか捉えることが出来ません。

生きている感覚が薄いのです。


生まれてすぐの赤ん坊には、心に【自分】はありません。

【自分】の外郭線が、自分と他人を分ける感情の境界線、です。

【自分】が無いのですから、赤ん坊には、外郭線である、感情の境界線は無く、自分と他人の区別もありません。

この自他の区別の無い赤ん坊の時代に、母親と赤ん坊はひとつなのです。

自他の区別の無い赤ん坊とひとつになる為に、
母親には出産を契機に、母性が現れる仕組みになっています。
母性は母親の感情の境界線を溶かす働きが有り、
境界線がまだ無い赤ん坊と、母性によって隔たりが溶けた母親は、
ひとつになる、蜜月の特別な季節、を過します。

受容と肯定、しか無い特別な季節に包まれた赤ん坊は、この上ない、自分の存在に対する安心感、を得ます。

この自分の存在に対する安心感が、心の中の【自分】の羊水です。

赤ん坊の肉体は出産でこの世に生を受けましたが、心の中の【自分】は安心感という羊水に抱かれて、しばし温かく育まれ、

やがて蜜月の季節が終わりを迎える頃、心の中の【自分】は、外郭線である自他を分ける感情の境界線を備えるに至ります。

述べました様に、心の中の、
確かな【自分】という意識、と、
自他を分ける感情の境界線、は、
同時に成長しますから、

【自分】はあるが、境界線が曖昧、とか、
境界線はハッキリしているが、【自分】が無い、
という心の状態はありません。

【自分】と境界線はワンセットです。


自分の想い、を持てない人は、このワンセットが、ゴッソリ抜け落ちています。

心の中の【自分】は満足に育たず、
外郭線の、感情の境界線は曖昧です。

原因は【自分】が抱かれる筈の羊水である、安心感、が枯渇しているから、です。

安心感が枯渇したのは、親が重大な無価値感を抱える人であった為、

受容と肯定を知らず、代わりに知り尽くして身に染み込んだ、拒絶と否定の姿勢で赤ん坊に接したからです。

赤ん坊は安心感に抱かれることは無く、親が注いだ無価値感にまみれて、

人生にたった一度の特別な、母子の蜜月の季節を終えます。

赤ん坊には、安心感がありません。
心に【自分】は無いに等しく、感情の境界線は極めて曖昧なままです。


心のこと、の答えは全て外に無く、自分の心の内にある、と言えますが、

唯一の例外が、母子の蜜月の季節です。

その時、赤ん坊に起こった出来事は、まだ心が育っていない赤ん坊自身には、一切責任も、原因もありません。

その季節に起きた出来事の責任は、親にあり、原因は親の心の内にある、のです。


自分の想い、を持てない人は、そんな過酷な幼少期を生き抜いた人、です。

生き抜いた代償はあまりにも大きく、生きづらさを背負って人生を歩くことになりました。

自分の想い、を持てないのは、無理からぬ事なのです。


母子の蜜月の季節に於いては、その責任は親にあり、
その原因は親の心の内にある、と言いました。

しかし親は、その親から無価値感を背負わされ、【自分】を持たぬまま、曖昧な感情の境界線に苦しみながら、生き抜いた人でもあります。

自分の想い、を持てなくなった人が、もし、幼少早期のカラクリに気がついたなら、

親を恨む感情が湧くのは、至極当然な事です。

気がついたその人が、生きづらさを手放したい、と願うなら、

親を恨むことは、必要な通過点です。

親への怒りも、恨みも、ひとしきり感じ尽くしたら、

自分と向き合い、辿り、手繰り、そして、生きづらさを手放す決断の時を迎えます。

決断の時の歓喜、その後の静寂を経て、親に執らわれていない自分を、生まれて初めて認識します。

親を許すとか、水に流すといったことでは無く、もっとあっさりした感覚です。

適切な言い回しでは無いかも知れませんが、親に対して、無頓着な感覚、になります。

親に傷つけられたからこそ、親に執らわれ、心を囚われて生きた人にとっては、

無頓着、という言葉が冷たく感じられるかも知れませんが、

心に安心感があり、心に自分があり、感情の境界線がしっかり引かれている、健やかな人の感覚は、

執らわれた人のウェットさがありません。

ドライでありながら、本当の暖かさがあります。

その感覚がわかったなら、それが、

【自分】がある、ということ、

安心感がある、ということ、

感情の境界線が引かれている、ということ、

そして親を越えて、

自分の人生を歩き出した証しです。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム







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