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心はあの日、凍りついたまま

生きづらい状態にある人は、

心の中の、確かな【自分】という意識、が充分に育っていません。

ざっくり言うと【自分】が無い、んです。

心の中の【自分】は、その人の人生の主役です。

感情を感じ取る、主体、も【自分】です。


生きづらいけれども、【自分】がある、という状態の人はいませんし、

【自分】はあるけれど、生きづらい、という状態も考え辛いのです。

つまり、大括りに言うなら、生きづらさ、とは、自己喪失した状態、と言っても良い、と思います。

人間は、感情の動物です。

人が感情を失ったなら、残るものは何も無く、空っぽです。

虚無なのです。

先に触れた様に、心の中の【自分】は感情を感じ取る主体であり、人生の主役です。

感情が湧き上がっても、感じ取る主体が不在なら、感情は感じ取って貰えず、宙に浮きます。

【自分】が無い、ということは、感情を失ったのとほぼ同じことです。


どうして生きづらい人は、そんなに大切な、【自分】を持っていないのでしょうか。

自分を持つことを禁じられた、のです。

幼い子供は無力であり、生まれ落ちた時に備わっている能力は、

親を慕う能力、だけです。

無力であるが故に、親を慕うことで、赤ん坊は生きるのです。

成熟した心を持つ親の下に生まれ落ちたなら、

親は、慕う我が子を愛しく思います。

何があっても慕う我が子、に惜しみなく愛を注ぎます。

親が、未成熟な心であったなら、何があっても自分を慕う我が子の姿、が絶対服従の姿勢に見えてしまいます。

親の心が未熟なのは、親自身もかつて幼い頃に、未熟な親から、絶対服従の存在と見做され、本当の愛情を決して注がれること無く育った過去があるから、です。

愛を知らず育った親は、心に、自分は無価値だ、という重大な思い込みを抱えています。

心が成長するには、幼い子供が安心して身を委ねられる環境が必要です。

その親が育った環境には、愛情を注ぐことが出来る程に成熟した心を持つ大人がいなかったのです。

そんな環境で育ち、やがて親になりました。

親になった今も、
安心して身を委ねることも出来ず、
愛情を注がれることも叶わなかった幼いあの日に、
心は凍りついたっきり、なのです。

本人に自覚はありませんが、凍りついて成長の歩みを止めてしまった心は、愛情を注ぐことが出来る程、成熟してはいないのです。

成長の歩みを止めたまま、なので、愛情を注ぐよりも、注いでもらいたい、のです。

子供の感情を受け入れるよりも、自分の感情を無条件に受け容れて欲しい、のです。

無意識に、そんな気持ちを持っている、その親には、

我が子が自分を慕う姿が、何をしても自分の全てを受け入れる存在に見えてしまいます。

そして、立ち場は、圧倒的に強い親と、徹底的に無力な子供です。

その親は、子供の自然な感情が不快に思えます。
何故なら、子供が感情を持つ、ということは、
親の感情の全てを受け入れることが出来ない、ということだからです。

その親が、「お母さんの作ったハンバーグはおいしいね」と褒めてもらいたい時に、
子供が「ハンバーグなんか食べたく無い、カレーが食べたい」と、自分の気持ちを表現することは、有ってはならないことなのです。

親が褒めて欲しい時に、子供がちゃんと褒めるのが、この親にとっては何よりも大事ですし、
それが当たり前、なのです。

そうすることで、抱える重大な無価値感は一時的に癒やされます。

子供が自分の思う通りになることで、幼児的願望が一時的に満たされるのです。

しかし、親は自分が幼児的願望に衝き動かされていることにも、

自分の感情を子供に押しつけていることにも、

気がつきません。

気がつかないばかりか、自分は愛情深い、と思い込んでいます。

その結果、与えているつもりで、奪います。

そんな親の下に生まれた子供は、

湧き上がる感情は全部捨てて、親の顔色を伺って、親の感情を無条件で受け容れます。

慕っているから、です。


当たり前の様に、自分の感情を捨てて、代わりに親の感情を拾うのですから、

その子の心の中の【自分】は育ちません。

かくして、自分の感情を見失う人になり、

自分の人生が他人事の様に思える人になります。

心の中の【自分】は小さく縮こまったまま、身体は成長し、親と同様に稚い心を持つ生きづらい大人になります。

親から押しつけられた感情によって、自分の感情なんて何の価値も無い、と思い込み、

そんな無価値な感情を生み出しては捨てる自分のことさえ、価値が無いと決めつけてしまったことが、生きづらさの根っこです。

生きづらさとは、自分を嫌っている状態であり、

嫌いな自分を責め続けたから、【自分】は見えない程まで縮こまり、自己喪失に陥ります。

自分の人生でありながら他人事に思えます。

顔で笑っていても、本当はいつも、心にはポッカリと穴が開いている様で、虚しいのです。


しかし、この様にして育って、自己喪失に陥りながらも、そこから立ち上がり、確固たる【自分】を育て直す人は、沢山います。


そもそも、価値がない、という感覚は、感情を否定され、自分を持つことを禁じられた為に、

心に貼り付いてしまった、思い込み、です。

どれだけ固く貼り付いていても、思い込みは、どこまでいっても、単なる思い込みに過ぎません。

思い込みは実体の無い、言わば幻の様なもの、です。

だから、払い除けることは、いつだって出来ます。

自分を縛っているものが、幻に過ぎない、ということが腑に落ちたとき、

心は初めて自由になります。


生きづらさを抱えて、

長く苦しんでも、

気づいて、手放し、

自由になった人は沢山います。 


苦しんだからこそ、

届く景色が、あるのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム









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