[AIが仕事を奪う]の本当の意味を,僕らは分かっていない【後編】
[経営陣になるための登竜門]が閉ざされる
【前編】からの続きです。話をさらに進めてみます。
「AIを使って経営をどんどん合理化する」が極端に進んだ場合、どうなるか? 株式会社の経営者は常に利益を求められます。人口が減り、経済が停滞し、売り上げが伸びない、となると、経営者はみな、同じことを考えます。「合理化経営をしなくてはならない」。
やがて、「コストの安いAIに任せれらる仕事は、徹底的にAIに任せる」競争が社会のあちこちで始まります。
その結果、上位20%が占める経営陣になるための登竜門ともいえる、中間層の、単純だけど少し知的な仕事、そこそこ考えないといけない仕事、現場での苦労体験…つまり60%がしている、このような仕事がなくなり、若手は修行も成長もできる環境がなくなります。
その結果、何が起きるのか? は簡単に想像できますよね。
今は経営陣がいても、次世代の経営人材が育つ、仕事の「舞台」に若手が立たせてもらえなくなるならば、経営陣候補者は育たなくなります。そしていつかは、「経営陣に足る人材が、社内に一人もいない」となります。
経営会議で「いい人材いませんね」となった先は…
経営会議で「いい人材はいないかね?」「いませんね…」となったとき、どうなるか。
「そもそも、人間よりもAIのほうが合理的な意思決定ができますよね」となったとき、「AIでいいんじゃないでしょうか」「他社でもやっていますし」「そうですよね」と、やがてAIが経営に入ることになる。
徐々に経営がAIにシフトしていき、やがて、経営陣が全員AIになり、その下に、肉体労働する社員が従業員として会社を支える…
これって、AIが人間を支配した社会そのものではないでしょうか。
[AIの支配=ターミネーターの世界]ではない
AIが支配する社会、というと、映画「ターミネーター」のような、分かりやすいディストピアを想像するかもしれません。
しかし僕らが意思を持ったAIに乗っ取られたロボットに攻撃されることよりも、もっと現実的なこと…それは、こういった、合理的社会、資本主義にAIを導入した結果起きてしまうであろう、AIに支配された社会の到来です。
やみくもに、AIに「何でも」任せるという「合理的な意思決定」をした結果として人間が成長機会を奪われ、自ら自滅していくわけです。
AIが人間を攻撃して乗っ取られるのではありません。人がAIに乗っ取られることを自ら選択するのです。
[合理的な経営判断]の行く末
これに似たことが、僕らの記憶にもあるはずです。
例えば、「合理的な経営判断」で海外に工場を移転する「ブーム」が起きました。その結果、日本の製造業が没落し、継承されてきた多くの技術が途絶えましたよね。
人間自らが招いた結果、AIが会社経営をして、人間はその下働きの存在となる。街は破壊されていないし、僕らは一見幸せに生きているけれど、それは、AIに人が敗戦して、支配されている、ターミネーターの世界観、マトリックスの世界観と、たいして状態としては変わらないように思えます。
確かに多くの映画で描かれているような、頭のいいAIが考え抜いた結果、人類を滅亡させるべく人間を攻撃するという可能性も、なくはないでしょう(こうした話は、別の機会にします)。
しかし、人間の強欲をベースとした資本主義に徹する社会である限りは、合理主義に基づく意思決定の結果、自らAIの支配を招いていくという可能性のほうが高いのではないかと僕は考えます。
合理一辺倒でない方向へ,人の価値観を変えていく
では結局、どうすればいいのか。
それには、新しい資本主義というか、新しい自由主義というべきか、つまり、既存の「お金儲け」ということ以外の価値観を、企業経営に取り入れていくこと。利益の概念を、お金だけにしないこと。
それがAIの支配を自ら招くような未来に進むことを防ぐ、と僕は感じているのです。
そのため、僕は、日々のビジネスにおいてもそれを実践しようとしているし、常にそれを考えているため、プライベートでも、自分でコミュニティを運営し、社会、会社の在り方を考えています。
脅威はAIでなく人間の[安易な合理主義]
いわゆる「SDGs」流行りですが、まだ現行の資本主義にとって耳障りのいいものになっています。
重要なのは、従来の資本主義的な考え方から距離を置いてみること。なりふりかまわず合理性の追究に突き進むと、戦争なんて起きていないのにいつの間にか自ら支配を招き入れることになる。
人間にとって最も怖いのは、資本主義と合理主義を良しとする、人間自身の価値観そのものなのではないでしょか。
AIが怖いのではない。怖いのは人。その考えはまた別の機会に、哲学、倫理、教育、社会の各論を交えて、語ってみたいと思います。
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