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絶対に大丈夫。

文章を書くこと。それは、自分にとっては、救いのようなものでもあった。おかげで自傷行為をしなくてよくなった。

散歩したり、文章を書いたり、写真を撮ってみたり。嫌なことをすべて取り除くことができなくても、減らすことはできると思う。やってみて、意外にも心地よいなと感じるものに出会えたのは久しぶりかもしれない。

どうしたって、できないことや、諦めるしかないことって、世の中にはたくさんあるとおもう。頑張れば報われる、努力すればすべて上手くいく、自分もどちらかというと、そのように思うことが多かった。けど、頑張らないといけない"環境"に疲れてしまってる自分もたしかにいた。

文章を書いたり、写真を撮ったり、絵を描いてみたり。ずっと同じ活動をつづけていると、いずれそれが仕事になることがあるかもしれない。でも、成長することがメインのコンテンツになってるうちは、むずかしいと感じてる。

息を吸って吐き出すように。その人のライフスタイルに組み込まれ、生きてくうえで必要不可欠にある要素、「やらないと気持ちが悪い」と感じる集合に含まれるなら、たとえ成功できなかったとしても、成功するかしないかで悩むことって、ほとんどないと思う。自分はどちらかというと、SNSにほとんどふれずに生きてきたので、なにか目標があって始めたというよりかは、ずっと"生きづらさ"があって、それを文章として書き出してみたら、驚くほど心が軽くなり、生きるのがラクになったので、つづけられたところがある。

つづけてると、しぜんと読者も増えていくし、そのオマケとしてお金もぴょこぴょこ入ってくる。そんな大きく稼げなくても、楽しいとは感じてるんですよね。(いまはほとんどないけど)

昔から、チャットでよく分からん人たちと交流したり、ネット上で、人と”はなすこと"はふつうにあったので、そういった自分のことを曝け出しても大丈夫だと思える居場所や、関係性が、きっとほしかったんだと思う。

じぶんなんかは、光や音の刺激にとてもよわくて、パソコンを使うのにも、サングラスを使わないと痛みがおさえられなかったりして、生きてるだけで、しんどいなと感じることがよくあった。みんなといっしょになりたいんだけど、みんなといっしょになることができなくて、何度も絶望した。それが生きるうえで大きな障害だった。なにかをしたくても、うごかない。いや、うごけなかった。だから、苦しかったんだと思う。変えられないものがあるとき、変えようとするのではなく、そんな自分を受け入れてみること。むしろ、開き直るぐらいがちょうどいい。

ダメならダメでいいんだと思う。周りと合わせようとするから、よけいしんどくなるんよね。だったら、周りの人と合わせなくても生きていける道をさがしていけばいいんじゃないのかなって、いまなら思う。

どんなに絶望しても、きっと大丈夫、そう思えるようになれたのは、大きな壁を跳ね返していったからではなく、シンプルに諦めたからだと思う。抗おうとせず、流れに身をまかせながら、ただただ生きていたい。

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