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新しい記事を書くってなんでこんなに愉しいのだろうか?

ボクだけなんでしょうか?ボクはクラウドソーシングで案件を受注して記事を書いている時よりも、noteで記事を書いている時の方がはるかに愉しいのです。

クラウドソーシングで記事を書けば書いた分だけお金をもらえるのに、お金をもらえないnoteで記事を書いている時の方が愉しいのはなぜでしょうか。考えてみれば不思議な話です。そこでボクはこのふたつのライティングの違いを、こう考えてみました。

  • 与えられたコトから書くこと - 誰かに与えられたお題に答える記事を書くこと。

  • 新しいコトを書くこと - 自分で考えた新しいお題で、新しい記事を書くこと。

つまりボクの問いはこういうことです。

お金がもらえないにも関わらず〈与えられたコトから書くこと〉よりも〈新しいコトを書くこと〉の方が、はるかに愉しいのはなぜだろうか?

今回の記事の目的は、この問いに自問自答することです。

〈与えられたコトから書くこと〉と〈新しいコトを書くこと〉の違い

最近は記事や作品のことを〈コンテンツ〉とよくいいます。だから新しいコトを書くこととは〈新しいコンテンツを作ること〉です。与えられたコトから書くこととは〈与えられたコト(お題)からコンテンツを作ること〉になります。

それではこのふたつの〈作る〉の違いを、簡単な例〈夕食を作る〉から考えてみます。

図表13.1 〈与えられたコトから作る〉と〈新しいコトを作る〉

与えられたコトから作る

夕食を作るにあたって〈与えられたコトから作る〉とは、レシピ本やWebなど既に世の中に存在している情報(与えられたコト)から目的(お題・レシピ)を選択した後に、手段(材料や道具)を準備し調理することを意味します。

注目ポイントはこの手順においては、〈既に世の中に存在しているコト(レシピ本やWeb記事)〉から料理を作ることです。つまり新しいコトを作り出す要素がありません。〈創造=クリエイション〉の要素がないのです。過去(既に世の中に存在しているレシピ)の延長線上に、料理を作り続ける活動になります。

クライアントワークで案件を受注してライティングする場合には、目的(お題)を選択する自由がありません。時には構成さえも与えられることがあります。この時ライターの仕事は、構成の内容を埋める〈作業〉になってしまいがちです。

新しいコトを作る

〈新しいコトを作る〉とは、手段からはじめることを意味します。夕食を作る例では材料や道具など、手持ちの手段を見渡して、レシピを発想しデザインすることです。手段からはじめて目的(お題・レシピ)を創造することを指します。

そして料理の準備を進める中で、新しいレシピがひらめいたら、そのレシピを即興で再デザインするのは自由です。いまのレシピのまま進めるのか、新しいレシピに切り替えるのか、その判断基準は、どちらのレシピの方がときめくかだけです。

その新しいレシピで作った料理は、新しい飲食体験(コト)を作り出すこともあるでしょう。新しいお題での新しいコンテンツは、新しい読者体験を生み出すかもしれません。

新しいコトを作るプロセスはどこまでも自由なのです。手持ちの手段から発想して、どんなときめく目的がデザインできるのか、誰からも制約を受けません。いまやこの自由を制約するのは、自分の想像力の限界だけなのです。

ふたつの小屋のつくり方

そういえばボクは大先生から、アメリカ人と日本人の小屋づくりの違いを教えてもらったことがあります。大先生がいうには「日本人の小屋づくりは生真面目で面白くない。小屋づくりにおいてもきちんと設計図を書いて、材料を集めて、設計図どおりの小屋をつくろうとする」とのことです。

一方アメリカ人はどうかというと、例えば川にいって見事な流木を拾ったとします。するとアメリカ人はその流木を使って、どんな小屋を作ることができるかを、ワクワクしながら考えるというのです。

だから手段からはじめる〈新しいモノやコトを作るプロセス〉とは、一言でいえば〈愉しい〉のです。胸がときめくのです。自由なのです。

つくるはわかる・わかるはかわる

理論物理学者のリチャード・ファインマンは、こういいました。

    What I Cannot Create、
           I Do Not Understand.
    つくれないものは、わかっていない。

リチャード・ファインマンが最後に黒板に書いたとされる言葉より

誰もがそれを〈作る〉ことによって理解します。手を動かして、身体を動かして、作ってみることで、やってみることで理解するのです。竹細工の作り方は、竹細工を作ってみなければわかりません。泳げない人が、水泳のマニュアルをいくら読んでも泳ぎ方はわかりません。

でも作ってみて、やってみて、〈わかる〉と世界が変わってみえます。一本の木をスケッチする前とスケッチした後では、その木は変わって見えるはずです。自転車に乗れるようになってしまえば、なぜ以前は乗れなかったのか、わからなくなるはずです。その背景にある世界が変わって見えることもあるでしょう。

ではなぜ世界が変わって見えるのでしょうか。それはその人は世界がもっと見えるようになったからです。その身体的な能力が成長したからです。つまり〈できる〉ようになったからです。

〈一本の木を描く=絵を作る〉はわかるであり、わかるはかわるなのです。つくることでわかるのであり、そして自分がかわるのであり、できるようになるのです。

ボクはライターですが、ライターの方なら誰でも身に覚えがあるはずです。ライターは書くことによって〈ほんとうに書きたいことがわかる〉のです。言葉を尽くして書くことで、自分の考えが深まっていくのです。世界の見え方が変わっていくのです。先人はいいました。「いい文章を書きたければ、とにかく書く、たくさん書く」と。

創造のプロセスのはじめにおいては、誰であっても目的は曖昧で不明瞭です。しかも未来は予測不能で不確実です。でもそうであったとしても、ボクは書き続けています。むしろだから書き続けています。少しでも世界が見えるようになるために。それによって贈与の祈りが届きますように。

巨人の肩の上に立って書くということ

実にさまざまな先人が引用する「巨人の肩の上に立つ」という格言。ボクがはじめて知ったのは、ボクが尊敬する執筆家のひとりである読書猿の著書からです。でもこの格言が広く知られるようになったのは、アイザック・ニュートンがロバート・フックに宛てた手紙の中で、次のように書いたからだとされています。

もし私が(他人よりも)より遠くを見渡せたとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。

アイザック・ニュートンがロバート・フックにあてた手紙から

この言葉の意味は、ニュートンの業績はゼロから生み出されたものではないということです。ニュートンに先立つ先人の業績の積み重ねが巨人です。ニュートンは、その巨人の肩の上に乗ったから、より遠くの世界をみわたすことができる機会をもらったのです。

ニュートンは、巨人の肩の上に立ったうえで、作り続けることによって新しい理論を生み出すことができました。

新しいコトを書くライティングも同じことです。この連載記事ひとつをとっても、出所を明示している部分もありますが、その他の文章のどこまでが模倣で、どこまでがオリジナルなのでしょうか。

それはもはやわかりませんが、ただひとつ言えることがあります。ボクも巨人の肩の上に立って、この記事を書いているということです。先人が積み重ねた知恵を手持ちの手段として、書き続けることで新しいコトを作り出したいと願っているのです。

つまりボクは書き始めた時から、巨人の贈与を受けています。だからその返礼として、ボクから誰かへの贈与の祈りが届くように書き続けていくのです。

エフェクチュエーションとコーゼーション

さてこの連載記事のメインテーマであるエフェクチュエーションと、この記事の内容はどう関係するのでしょうか。実は、新しいモノやコトを作り出す活動がエフェクチュエーションです。一方、与えられたモノやコトから作ることがコーゼーションです。

それではこたつ記事ライターのエフェクチュエーション。まだまだ続きます。またお会いできれば幸いです。

連載記事一覧

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[連載05]生成AIは神か悪魔か?芥川賞作家の神回答がツボにはまった件
[連載06]劣等感の真実
[連載07]こたつ記事ライターのエフェクチュエーション① - 絶望感を克服して愉しく生きる方法
[連載08]こたつ記事ライターのエフェクチュエーション?- 収入の不安定さをコントロールする
[連載09]こたつ記事ライターのエフェクチュエーション3:目的や目標ではなくて手段からはじめた方が幸福になれる理由
[連載10]幸せの青い鳥の原則
[連載11]noteとクラウドソーシング、こたつ記事ライターがめざすべきなのはどっち?
[連載12]noteがブルーオーシャンになる理由
[連載13]新しい記事を書くってなんでこんなに愉しいのだろうか?
[連載14]ライターが「やりがい搾取」を感じるとき


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