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【小説】面影橋(一)

大学院に進学するため北海道から上京、面影橋近くの貧乏アパートで一人暮らしを始めた文学オタク女子の「私」は、シェイクスピアと格闘するも学業に挫折し、どつぼにはまる。そんな「私」の気散じはひょんなことから仲良くなった、愉快な腐女子たちとの交流と、面影橋でたまたま見かけた、足をひきずって歩くどこかミステリアスな青年――神田川や雑司ヶ谷近辺の季節の移ろいを背景に、「私」の鬱々としたぬかるみのような日常の「小さな不思議」をテーマにした中編小説です。

 それは生涯忘れられない春でした。重い足取りで独りとぼとぼ歩む私の冴えない人生で、後にも先にも一度きり、地上3センチ位をふわふわ浮遊しているような高揚感。驟雨のように降り注ぐ桜の花びらのスローモーションの映像が、私の脳裏から消えてしまうことは決してないでしょう。
 その春、私は大学院への進学のために北海道から上京したのです。世の若者よりはちょっと遅めの東京デビューかもしれませんが、院試の成績は上々で、好条件の奨学金ももらえて意気揚々でした。研究室の先輩から紹介してもらった、神田川沿いの築半世紀以上という女子専用アパートに部屋を借りました。外観こそ薄紅色の小洒落た洋館風で可愛らしいですが、何にもない六畳一間は私の顔のように貧相で、壁は私の胸のように薄っぺらだし、共用のトイレとシャワーは清潔ですがペット用かと見まがう狭さときて、聞きしに勝る東京の賃貸事情、札幌ならこれだけの家賃を払えば結構な学生マンションに住めるのにと心の中でぶつくさ言いながら二階の部屋の大きめの窓を開けると、思わず声を上げました。桜並木がばっちり見えるじゃないですか!すべての不満が吹き飛びました。それに面影橋を渡って都電に乗れば、大学までは一駅です。この辺りも今ではすっかり様変わりして、私のおんぼろアパートなどとっくになく、最近ではいけ好かない富裕層向け高級マンションが建ち並んだりしてすごいことになっているそうですが、父がよく聴いていた貧乏フォークの世界がまだぎりぎり残っていた頃だったのかもしれません。神田川にしたって、歌からそう勝手に私がイメージしていたのか、どぶ川みたいに思い込んでいたのですが、実際はそんなこと全然なく、川面のキャンバスに点描された花弁がアニメーションのようにゆっくり動き出し、広がったり集まったり、やがてピンクの帯となって流れていく様は、いくら見ていても見飽きることはありませんでした。

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