【小説】面影橋(九)
私は故郷がなつかしいと言いましたが、帰りたいとは一言も言っていないはずです。たまに帰省した折に駅前などを歩いていると、心臓はバクバク、冷や汗はタラタラ状態になります。あの女子グループにばったり出くわしはしまいかと。小さな町ですので決して杞憂ではありません。目ざとい禽獣どもが気づく前にコンビニに慌てて逃げ込んだというのも、一度や二度ではありませんでした。どもりを完全に克服した私にとって、被食者としての惨めな自己像を上書きする機は熟したように思えました。
チャラにしたいのはそれだけではありません。記憶の中の両親はいつでも口汚く喧嘩をしていました。ごく幼い頃からずっと。そんな聖職者面の仮面夫婦も、私が成人するのを待ってめでたく離婚しました。財産分与やら何やら、だいぶ揉めたようですが、私はそんな泥仕合に関わるつもりはありません。高圧的な父親は苦手ですが、依存的な母親はもっと駄目です。精神的にもたれかかられるのは心底うんざりで、札幌辺りだと何やかんや物理的、心理的な干渉が及んでしまいます。学生の身ではありましたが、奨学金とバイト代だけで何とかやっていける目途もつきましたし、両親と決別して自活するにはいいチャンスでした。
過去からの糸を断ち切る、前に進むために。それには場所を変えるのが手っ取り早い。思うに学問とは私を遠くに連れて行ってくれるための手段でもありました。海外留学だって夢ではないかもしれない。そう、人生はタイミングがすべて、故郷にまつわる暗い記憶、いじめや両親の離婚や、それと不毛な恋にまつわる情けない記憶、片っ端から清算してやる、そんな意気込みでした。
公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。