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【小説】面影橋(十三)

 また大げさなことをと言われそうですが、あの時ばかりは本気で死ぬかと思いました。
 梅雨が明けて夏に入り、心身とも調子がすぐれなかったのですが、その日は朝から頭ががんがん痛みました。痛みが尋常でなかったので、救急車を呼ぶことも考えたくらいですが、とりあえず薬局に行くことにして外に出たその時でした。凶暴な日差しにくらくらとめまいがして、そのうち吐き気がするわ、手足が痙攣するわで、このままぶっ倒れるんじゃないかしら、これはマジでやばいとパニックになりましたが、ちょうどタクシーが通ったので病院まで飛ばしてもらいました。生まれて初めての熱中症でした。「熱中症って高齢者がかかるもんじゃないんですか?」と言うと、先生はあきれ顔でしたが、点滴を打ってもらい、少し休んでその日のうちに帰れました。
 私もまずいとは思っていたのです。私の部屋にはエアコンが付いていなかったのです。学生は夏休みには帰省するものという相場なのでしょう。講義に出なくなってフェードアウトするような感じで休みに入りましたが、私は一日中図書館で過ごしていました。蔵書400万冊を誇る大学図書館は素晴らしく、地上4階、地下2階の豪華な造りに自習スペースも広々としています。この図書館が決め手となって進学先を選んだようなものなのですが、正解だったと思います。私は方向性を見失っていたこともあり、記録的な猛暑云々というニュースを尻目に、朝から晩までここにこもって興味の赴くまま、片っ端から英文学関係の本を読み漁っていました。ただ8月になると、閉館時間の10時まで粘ってアパートに帰っても、部屋に熱気がこもってちっとも涼しくなっていないのです。ヒートアイランドとか熱帯夜とかそういうことなのでしょう。その上、貧乏暮らしの粗食もたたり、若い身空で熱中症になるとは……。甘く見ていました。東京で部屋にエアコンがないということは、時に死すら意味するとは……。まずいことに、図書館はお盆を挟んで2週間近く休館になります。昼間、日当たり良好のあの部屋にいたら今度こそ命にかかわる。暑さを避けどこかに行くお金などなく、かといって絶対に帰省はしたくない。私は途方に暮れました。

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