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【小説】面影橋(二十五・最終話)

 「今度はまた夏ですね」。一年の息災を祈ろうとする善男善女の長い流れが鬼子母神の参道へと吸い込まれ、参拝まで少し時間がかかりそうな感じでした。「先生、春にも東京に出て来なよ。アパートの前の神田川の桜、めちゃくちゃきれいなんだよ」。「へえー、そうなんですか。東京で桜といえば目黒川かと思っていました」。「目黒川なんかより、うちの方が全然きれいだって」。「そんなこと言って師匠、どうせ中目黒とか行ったことないですよね。絶対浮いちゃいそう」。「てか、本当は桜って、あんまり好きじゃないんだけどね」。「なんですか、それ。桜が嫌いな日本人なんているんですか」。「あの子たちもみんな呼んで、オタ女のお花見パーティーなんてどうよ。リア充みたいにさ」――春まで生きよう。そう思いました。思うに希望なんてそう大げさな話でもなく、その時々、現実をやり過ごして生き延びるための暫定的な目標みたいなもんじゃないでしょうか。失望とか絶望とか、生きていく上で確かにあると思いますが、そうした情動に対して禁欲的であること、それが文学に携わる者の作法のようなものであるかと思います――ゴーン、ゴーン――そう、その夜の除夜の鐘の音の荘重な響きに誘われるかのように、どうせつかの間のものに違いない、その瞬間のオプティミスティックな気分を逃すまいと、ケヤキの大木のはるか上、雪のやみ間の冬空に輝く名前も知らない星を見上げ、らしくもなく、一つの誓いを立てたのです。奨学金を止められようと、指導教官が匙を投げようと、何年かかろうと、「To the Lighthouse」で論文を書き上げてみせると。大切な人からの宿題を果たすかのように。その後は?その時またうじうじ悩めばいいでしょう。何とか文学に関わっていられるように。出版されるあてもなく、誰の目に触れることがなくても、日記の翻訳は続けよう。訳し終える頃にはおばさんになっているかも。日本国内でしこしこ英文学をやっている冴えない研究者がせいぜいかもしれませんが、無益なことと卑下することはないと思います。何をやったところで今の世の中、直ちに、手っ取り早く利益を生み出さないものは、すべからく見下されるのですから。文学ほどコスパの悪い学問もないでしょう。逆に驕るようなことでもありません。良き語学教師、翻訳者であること。普通に良き職業人であることに他ならないと思います。満足のいく論文を一本仕上げられたら、その時は北海道に帰ってもいいかな。私のugly and lovely town。無理はしない。不幸や孤独を好んで求めるつもりはないけれど、逆に無闇に恐れることもない。幸福とか、私にはいまいちピンときませんが、一つ、はっきり言えることがあります――ゴーン、ゴーン――幸せそうな顔つきの作家の書いたものなど、誰が読みたいでしょう、優れた文芸作品に触れ、対話することなしに、人は誇り高き個を形成することなどできましょうか、よしんばそれが孤に連なる道であったとしても、文学ってそういうものではないでしょうか、重い足取りで独りとぼとぼ歩む、私たちのような種族のためのものだ、It' my life! ――ゴーン、ゴーン――ほぼ無関係の男の生き死になど知ったこっちゃないはずですが、あの夜の、思考の不意の奔流と不思議な肯定感は何だったんでしょう。今でもよく分かりません。あの時の予感の通り、人は生きている限り迷うもので、それは暗く長い夜に瞬間ピカリと煌めいた稲光のようなものに過ぎなかったのですが、私のちっぽけな人生の、ささやかだけど意味深い転機と言えばそうとも言えそうで、事の始終を振り返ってみれば、春霞でもかかったように曖昧模糊とした、全体として不思議と言えば不思議、私にとってはそんな話です。
 その後も腐女子の子たちのうちの何人かとはゆるーくつながっています。そのくらいがちょうどいいんでしょう。 

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