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【小説】面影橋(六)

 同じゼミで広告代理店に就職が決まり、やはりこの春上京した子が、速攻で会社を辞めて北海道に帰ってしまったというのです。その子とは特段親しいというわけではないですが、かといって疎遠ということでもなく、お互いゴールデンウィーク頃には新しい生活も落ち着くし、一緒に食事でもしようねとごく自然に約束を交わせるような仲、でもそんな約束すっかり忘れていたという程度の関係とでも言えばいいんでしょうか。
 その子の突然の退職と帰郷はショックでしたが、私ももらい事故のような感じでとばっちりを受けました。入社したのがブラック企業で、心身ともに疲弊して情緒不安定になっていた同郷の同窓を、親友であるにもかかわらず私が見捨てたというような噂が関係者の間で広まっていたのです。私は他のゼミ生とはあまりつるみませんでしたし、東京の大学院に進んだことをやっかむ人がいたことも知っています。こういう悪意あるデマを流しそうな女子の顔も二、三すぐに浮かびます。でももしかしたら、本人がそんなようなことを漏らしたのかもしれないと思うと胸が痛みました。その子はもともとコミュ障気味で、まあ、私も人のことは全く言えないんですが、私としてはそういう子はごちゃごちゃ面倒なことは言いませんし、表面的に付き合う分には楽だという理由でよく一緒にいたに過ぎません。実際、話が合うということもありませんでしたし。自分が厳冬のオホーツク海のように冷たい人間だという自覚は重々ありますが、それにしても電話一本かけることくらいはできたのにと悔やむ程度の人情は持ち合わせており、この一件は心の中で尾を引いて色々なことを考えさせられました。他人事ではなく、身につまされたからです。自分はなぜ就職ではなく、好きかどうかもよく分からない勉学を続ける道を選んだのか、うやむやにしていたその辺の意味に向き合うことに改めて迫られました――現実逃避。要はそういうことです。
 世の中には、いや生物界にはどうしたって周囲に適応できずに淘汰される個体というものが存在します。その子や私みたいな種族です。私は日本の会社組織とか企業文化とか、もっと言えばこの国の人々の黒々した集団性そのものに強い恐怖心を抱いていました。共同体のうっ積のはけ口とされることへの体に染みついた怯えです。就職した先輩や友人の話を聞いていると、とうていそのような世界では生きていけそうにないと感じました。みんな文句を言いながらも何だかんだうまくやっているようですが、そういうの、駄目な人間には駄目なのです。一向に就活をしない私を見て、周りは「腹が据わっている」とか何とか言っていましたが、本当は足がすくんでいただけです。要は人間というものが怖いのです。それにはちゃんと原因が、いえ、はっきり言いましょう、トラウマがあります。

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