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【小説】面影橋(三)

 桜も散りかけの頃、春の嵐が吹き荒れた日のことです。夕方、大学からの帰り道、面影橋に差し掛かると、風がどおっと吹いて、桜吹雪がさあっと舞い、それが吹き飛ばされたかと思うと、そこに若い男の人が佇んでいました。いつものようにうつむき加減で歩いていた私の眼には、忽然と現れたって感じでした。その人は欄干から身を乗り出し、物憂い表情で淡い桃色に上気した川の流れを見つめていました。その端正な憂い顔に差す夕陽は絶妙なライティングで、まさにマジックアワーです。「春愁」というタイトルがぱっと頭に浮かびました。これは写真に収めるしかない。私はアパートに勇んで帰ると、すぐにカメラを手に引き返しました。これでも高校時代は写真部の部長だったので、この絶好のシャッターチャンスにスマホでパシャリというのは私の流儀ではありません。それとその男性に異性として好意を抱いたというのとも違います。そういうの興味ないですし。とにかくフォトジェニックなものに目がないたちなんです。新たな傑作と意気込む私が構えた愛機というのが旧式の銀塩一眼レフカメラ、父のお古のニコンFM2です。たそがれ時の光量不足を補うために明るめの標準レンズを選択し、乱舞する花びらをとらえるためにシャッター速度優先に設定しました。桜を撮るふりをして近づき、といっても近づきせず、私の得意の引きめの構図で、素早くシャッターを切ったのですが、その人はこちらを気にする素振りもありません。そのうちまた強い風が吹いて花びらが散り、私が一瞬目をそむけた隙にその人は都電駅の方に立ち去っていました。その歩き方がまた特徴的で、背中を丸めて右足を重そうに引きずり、上体を少しぎくしゃくさせていましたが、不思議と全体にノーブルな雰囲気を醸し出していました。足をけがしたとかではなくて、生まれついての障害とかそういうことではないかと、直感的に思いました。そのくらいその歩き方はその人の本質の一部を成しているように見えたのです。それと大切そうに小脇に抱えていたドキュメントケースも気になり、ぼんやりと新目白通りの方に目を向けていると、トラックが何台か続けざまに通って、次の瞬間、忽然とその人の姿は消えていたのです。げっ、マジ!――単にちょうど来た荒川線に飛び乗ったのでしょう。
 ほんの一瞬、ぼおっとしていたような気がします。空が急に暗さを増し、空気も夜のそれに切り替わる、そんなタイミングだったように思います。私は奇妙な想念に囚われ始めました。今撮った写真、もしかして何も写ってないんじゃないかしら?桜の精とか、そんなポエティックなことを言うつもりはなく、川に飛び込んだり、その辺で車にはねられたりした地縛霊だったんじゃないかって。もっとも私には霊感らしきものなど露ほどもありません。周りには合宿とかですぐに金縛りにあったり、よく心霊写真っぽいのを撮る子がいて、ネタにして面白がっていましたが、もちろん本気になどしていません。でもその馬鹿げた考えを一蹴しようとすればするほど、面影橋の上をただ桜の花びらが風に舞っている映像が、強迫観念のように頭から離れなくなります。
 すぐに現像しようと思ったのですが、新生活が始まったばかりで何だかんだ忙しくしていて、時間が経ってしまいました。何より、現像する場所を探すのに一苦労でした。私はモノクロ写真を偏愛していて、写真部では周りはもちろん皆デジカメを使っており、暗室を撤去しようという話もあったくらいですが、部長権限で強引に残しました。大学では英語劇のサークルに入ったので、カメラをいじることはめっきり減りましたが、それでも暗室を持っている写真サークルを探し出して部費だけ払い、たまに使わせてもらっていました。反時代的な固執と言われそうですが、モノクロは夢や幼年期の記憶に一番近いからと自分なりに理屈はつけていて、現像液につかった印画紙から被写体が浮かび上がってくるあのスリリングな瞬間がたまらなく好きでした。でも今考えてみると、暗室そのものが好きだったようにも思います。家庭や進路、恋愛などのごたごたをうっちゃって、放課後はいつもそこにこもっていました。「嫌人部屋」とでも言うんでしょうか、私の思春期の唯一の居場所だったような気がします。
 でもって、家電量販店のカメラ売り場の片隅にレンタル暗室があるのを知って現像したのですが、何も写っていなかったのです。誤解がないように正確に言いますと、橋と桜以外に何も写っていなかったのなら怪奇現象ということにもなりましょうが、真っ白でほとんど何も写っていなかったということですので、単に私のミスでしょう。カメラを始めたばかりの頃、ISO感度の設定を間違えて白飛びしてしまったことがありましたが、今回は増感現像までしたので、こんな感じになってしまったのでしょうか。撮影も現像も久しぶりで勘が鈍っていたとはいえ、こんな初歩的なチョンボにがっかりでした。

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